第37話

 賑やかだった蝉たちも一斉に音を出さなくなり、時間さえも止まってしまったような錯覚に陥る。

「それは君も同じだと思っていた。だが、違ったようだね」

 言葉を続けた太一の父親は、今度は向きを変え、妻の目をじっと見ていた。

「何のことよ」

「あの事故の後、お義父さんは別荘を手放した。この村とも縁を切って何もなかったかのように暮らしていた。君はしばらくの間、車の運転を控えていたし、周囲の言うことを聞いて大人しくしていたから、私はてっきり反省しているのだと思っていたんだ。それが、今になってまた黄色いポルシェを買うと言い出した。そしてこの村に太一がいると知ると、嫌な思い出の一つのように、事故のことを口にした。全く自分が悪かったとは微塵も感じていなかったとは……本当にショックだよ」

「だって、私が悪いんじゃないでしょう」

「でも、きっかけを作ったのは君だろう」

「そんなの知らないわよ」

「もういいです。止めてください」

 冷静さを装うことで精一杯の優斗だった。

「申し訳ない。家でする話だよね。こうやって人前でないと、言いたいことも言えない父親じゃあ、太一が信頼してくれないのも無理はない。今度は、一人でここに来ます。さあ、今日は帰ろう」

 放心状態になっている太一の母親を促し、太一の父親は帰って行った。太一の父親の車には従業員らしき人が乗っていて、その人がポルシェの運転をするようだった。抵抗していた太一の母親はすぐに諦めて助手席に乗り込む。二台の車を見送ると、重苦しい空気だけがその場を支配していた。

「何だかすみません。皆さん、気にしないでください」

 努めて明るく言う優斗だった。

「優斗君……」

 さすがの将平もかける言葉を見失っていた。

「太一君には聞かせられない話だったわね」

 和香子の言葉にその場にいた全員がハッとなる。

「ちょっと見てきますね」

 茉莉が二階に駆け上がる。しばらくして降りてくると『大丈夫でした』と声に出さずジェスチャーでみんなに知らせた。

「じゃあ、僕はこれで」

 優斗は一人で家を出た。陽介が後を追うような態度をしたので、首を横に振り断った。しばらくは一人きりにして欲しい。そう目で訴えると陽介は大きく頷いてくれた。当てもなく車を走らせたつもりだったのだが、子どもの頃に少しだけ住んでいた場所に近づいている。父親の交通事故現場を通り過ぎ、山道をゆっくり走らせ、思い出深い家の前に車を停めた。家に入ると自然と涙が出てきた。父親の葬式の時に出なかった涙だった。泣きじゃくる母親の背に手を添えながら、父親の死を受け入れることを拒んでいた。お葬式の最中にはギュッと目を閉じ、火葬場の座敷の隅では体育座りのまま顔を伏せ、なるべくセレモニーの状況を見ないように心掛けた。母親からは「ちゃんとお見送りをしなさい」と言われたが、それをしないことが自分の役目であると頑なに信じていた。この村に来るまで、父親の交通事故のことを調べたいと思ったことはなかった。住むことになった家の人が、父親と同級生だったため、話の流れで交通事故の相手を知ることになった。そして今日、その事故の元凶とも言える相手と対面することになるとは、想像したくてもできないことだった。このことを母に話したら、どう反応するだろうか。きっと、「そう」としか言わないはずだ。泣きながら、封印していた子ども時代の父との思い出が蘇る。厳しく叱られたことを、優しく諭されたことを、そして、しっかり愛されたことを。

「優斗、起きなさい」

「まだ眠いよ」

「ご飯できたわよ」

「わかった。でも、後五分寝かせて」

「本当に相変わらずね」

 あれっ、これは夢かと、優斗は思った。いや、それにしては美味しそうな匂いまでしてくる。目を開けると、母親が料理を食卓に用意しているところだった。やっぱり夢か、と再び目をつむる。でも、夢ではない、と気が付き急いで起き上がった。

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