第30話
クマも多英子も寄るところがあるからと、家とは反対方向に歩いて行ったので、咲は一人で家へと向かう。小学校の頃、歩いて通った道だった。すぐ近くに河原の土手があり、そこで遊んだ思い出が蘇る。近所の男の子たちと遊ぶことが多く、白いブラウスを泥だらけにしたり、フリルのついたスカートが破れたり、女の子らしい服装には不似合いな行動しかできなかったので、いつの頃からか、デニムのスカートにTシャツ姿が咲の定番になっていた。同級生の女の子たちが蓮花でブーケを作っている横で、花をむしり取っていた姿をクマに見つかり、呆れられたこともあった。あの頃は何の悩みもなく、ご飯をお腹いっぱい食べて、クマの布団で一緒にグッスリと眠った。嫌な記憶と言えば、学校から家に帰ると多英子がいなくて不安で泣いていたことぐらいか。それもすぐにどこからか姿を現し、咲を抱きしめてくれる多英子。多英子は咲に降りかかる不幸を寄せ付けようとはしなかった。じりじりと照り付ける太陽を背に感じながら、クマと多英子から守られるばかりだった今までの生活に区切りをつける時がきたのかもしれないと思わずにはいられなかった。
何事もなかったかのように夕食の時間は過ぎた。当たり前のようにここにいることに違和感のようなものを覚えるが、それは錯覚にすぎないとも思える。普段のクマの態度からは想像できないので忘れているのだが、クマは子どもの頃に二渡家の養子に入ったと聞く。だからクマの父親という言い方は正確ではない。養父が正しい表記になるのだが、そう意識すらしてこなかった。クマと結婚して隣県から婿に入ったのが咲の祖父なので、この二渡の家に、直接の血縁者はもういないことになる。クマは雪深い北国で妾の子として産まれた。物心がついてから、子どものいない二渡家に貰われてきたという。子どもの頃は訛りの違いでいじめられたこともあったと笑いながら言っていた。クマの生き様を考えると、自分の生い立ちなんて些細なことなのかもしれない。家という器や、血縁というものに何の意味もないのかもしれない。クマの顔をまじまじと見ていた。
「なんだい?」
「えっ、うん、何でもない」
「咲はこの家の子だよ。それはずっとそうだろう」
「うん」
咲は素直に頷いていた。
「ごめんください」
玄関で人の声がした。和臣だとすぐにわかった。
「あら、珍しい。ごめんくださいだって」
多英子が茶の間に顔を出した和臣に言った。許可なく入ってくるところは何も変わってはいない。
「咲ちゃん、これ、好きだろう」
和臣は咲の好きなケーキ屋の箱を差し出す。
「あれまあ、そうだったねえ。咲はケーキがあれば機嫌がよくなるからねえ」
「そんなことないわよ」
とても嬉しかったが、顔にも言葉にも出せなかった。
「咲ちゃんに話があってね」
クマも多英子も承知しているようだった。多英子が紅茶を淹れてくれるのを待って、和臣は話を始めた。
「咲ちゃんを産んでくれた保奈美とは隣同士で同級生だったから、幼馴染というよりかは親友と言った方がいいような関係だったんだ。保奈美が失恋したと言って戻ってきて、俺は迷わずプロポーズしていた。それまで異性として意識なんてしていなかったのだけれどね。そして結婚して俺がこの家に婿に入った。当時は俺の兄貴夫婦が肉屋を継いでいたから、そうなることが自然だった。そして、咲ちゃんが二歳の時に保奈美は交通事故で亡くなった。多英子さんとしばらくはこの家で一緒に育てていたのだけれど、兄貴夫婦が親父たちと喧嘩をして家を出て行ってしまったから、それで俺が肉屋を継がなくてはならなくなった。会社勤めを辞めて俺は肉屋を継いだ。始めたばかりのメンチカツがよく売れて忙しかったのもあってね。そのメンチカツを考案したのが、克子だよ。愛未たちのお母さん」
「メンチカツを克子さんが考案したなんてさあ、あの時は大うけだったよねえ」
クマが茶化すように言う。
「ちょっと、おばあちゃん、今はその話はいいから」
多英子に咎められ、舌を出すクマだった。
「克子が店で働くようになってから、潰れそうだった肉屋が盛り返したんだ。あの通り明るくて威勢がよくて働き者だからね。そのうちに親父たちが俺の嫁にどうかって話になって、それをクマさんに相談したら……」
「迷うことではないだろうって言ったんだよ。私が」
「克子は全てを知っていて俺の嫁になると言ってくれた。咲ちゃんのことも一緒に育てようとまで言ってくれたんだ」
「それを私が無理やり阻止したのよ。だって、咲は私の娘だもの。この家の子だもの」
「そのうちに愛未が産まれて、咲ちゃんも俺のことをずっと『パパ』って呼んでくれていたし、実のパパだろうと、隣のおじさんだろうと、もうどっちだっていいじゃないかって、思ってしまって、話をする機会がなかった。それは本当に申し訳ない」
咲は和臣を『パパ』と呼んでいた。それはクマも多英子もそう呼んでいたからだと思っていた。愛未のパパという意味だとも思っていた。だが、記憶をたぐると愛未が産まれる前からそう呼んでいたことが蘇る。いつも近くにいて、気にかけてくれて、話を聞いてくれていた和臣だった。本当の父親だったらよかったのに、とすら思わなくてもいいくらい、ずっとずっと父親として存在していたことに、咲は今になって気付くのだった。
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