第19話
「咲、いるの?」
玄関から多英子の大声が響いてくる。ドタドタといくつもの足音が近づいてきた。その音がいつも以上に咲の耳に響く。思わず顔を顰めていた。
「咲ちゃん」
和臣の末っ子で八歳になる鈴が咲に抱きつく。反射的に受け止めたがいつものように抱きしめることはできなかった。その微妙な空気を鈴は感じ取ったのか、すぐに咲から離れて、一緒にいる十六歳になる姉である愛未の腕をつかんでいた。
「愛未ちゃんと鈴ちゃんが買い物を手伝ってくれたのよ」
「そう」
素っ気ない態度しかできない自分が嫌だったが、咲はどうすることもできないでいた。
「あの、すみません。お留守にお邪魔してお布団まで敷いていただいて」
留美が多栄子に話しかける。
「いいえ、大丈夫ですよ。和臣さんから聞いていますから。ここでしばらくゆっくりしてくださいね。何か欲しいものはありますか?あら、咲、お茶も出していないのね」
「いいえ、私が今はいらないと言ったものですから。お構いなく」
咲は多英子に気付かれないように留美に軽く頭を下げた。
「味噌饅頭を買ってきたから、みんなで食べましょう」
多英子は二人の動作には気が付かずにさっさとお茶の支度に取り掛かっていた。
「私はいいわ。部屋にいる。誰もこないで」
「咲ちゃん、遊んで」
「今は駄目なの」
鈴の目を見ずに咲は言った。
「ええ、やだあ」
愚図った鈴を愛未が宥めている声を背に咲は二階の自室に引きこもった。しばらくは誰とも話をしたくはなかった。
階下から喧騒が伝わってくる。本来ならその中にいるはずの自分が今はこうして他人事として身を置いている。そのこと自体は初めてではないのだが、今夜は何かが違った。その何かの正体を見極めようとするも、ちゃんと言葉にすることができない。自分の感情を表現できないことに苛立ちは増すばかりだった。人が集まることが普通の家だった。咲の祖母であるクマは村長と呼ばれ、村の重鎮としてみんなからも慕われている。村長と言っても正式ではない。町村合併でとうの昔に村はなくなっていた。最後に村長だったのがクマの祖父だったため、いつの頃からかクマが村長と呼ばれるようになっていた。早くに父親を亡くしていたクマは若い頃からリーダーとしてこの村を取りまとめていたことになる。咲が生まれるずっと前の話だ。クマの気性を引き継いでいる多英子も、今ではクマに代わり、村の困りごとや厄介ごとを引き受けている。誰かが家に来て、家族の愚痴を言っていたり、子どもの素行問題で相談をしてきたり、些末なことから新聞沙汰になるような大きな事件までもがこの家には持ち込まれていた。そのことに関して何ら疑問を持ったことがない咲だった。自分にはまだ、そんな力量がないことはわかっているが、年を重ねたら、クマや多英子のようになっているのではないかと、漠然と考えていた。でも、そんな必要はなかったのかもしれない。実の母親はどんな人だったのか、生きていたらどうだったのか、考えれば考えるほど、自分というものの存在がわからなくなってくるのだった。
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