第3話
約束の時間を過ぎても和香子はやってこなかった。
「あの、二渡さん、どうしましょう」
「そうですね。後五分待って来なかったら優斗君の指示を受けましょう」
午前十時十分になり、陽介が二渡を見ると、彼は頷いて携帯を取り出した。
「あっ、いらっしゃいました」
陽介はバスに走って来る派手な色合いのTシャツに真っ赤なパンツ姿の女性を見つけて思わず声を張っていた。
辛島和香子、三十三歳、職業欄には愛人とある。愛人という言葉を二度見して、大きなつばの帽子にサングラスという確かにテレビドラマなどでよく見かける愛人と呼ぶのに相応しい恰好の女性を凝視する。
「ああ、間に合った。遅れてごめんなさい」
「ええと、辛島和香子さんですね」
「はい、そうです。皆さん、後で何かごちそうしますね」
「いいですよ。遅れたと言っても五分程度ですから」
将平が言うと、他のみんなも頷いていた。何だか将平がこの場のリーダー格にすでになっているようだった。
「はい、これ」
二渡から渡された紙を陽介は読み上げる。
「それでは出発いたします。二時間ほどバスを走らせます。到着しましたらそこでトイレと食事休憩を一時間ほど取りますのでよろしくお願いいたします」
「はあい」
和香子の一段と明るい声が響き渡る。他の参加者たちもさっきと同じような返事をしていた。
バスは中型で定員二十四名分の座席があった。陽介の席は運転手のすぐ後ろだった。参加者六名はそれぞれ自由に席を選んでいた。
「ねえねえ、自己紹介はしちゃったの?」
一番後ろの座席には不思議と誰もいない。運転手側で一番後ろの座席の一つ前に座った和香子が、通路を挟んだ隣座席に座る裕太に話しかける。
「えっ?いいえ、まだですけれど……」
裕太が面倒くさそうに答える。陽介はその時初めて裕太の声を聞いた。
「そうだな、まだ自己紹介をしていなかった。よし、じゃあ私から。私は無職の浅日将平といいます。少し前までは一応、会社経営をしていましたが、色々ありまして今は無職です。よろしく」
裕太の前に座る将平が率先して自己紹介を始める。すると一つ空けた前の席に座る留美が続いた。
「私は主婦の曽根崎留美です。主婦と言っても私も色々ありまして・・・家族とは別居中です」
次は通路を挟んで留美の隣で陽介のすぐ後ろに座る太一が自己紹介を始める。
「中学生の柿山太一です。家出をしてきました」
「ええええ?」
陽介だけが大きな声を上げていた。他の人たちは当たり前のことを聞いた時のように無反応だった。運転手の二渡でさえ、冷静さを失わない。陽介だけが慌てふためいていたが、この場では何も発言しないことにした。
「私はOLだった奥園茉莉です。結婚が駄目になって、そして昨日会社に辞表を提出しちゃいました」
太一のすぐ後ろに座る茉莉が平然と言う。
「じゃあ、次は私ね。私は愛人だった辛島和香子です。勝手に家を出てきたので、彼の方はまだ別れたとは気が付いていないかも、あははは」
和香子の笑い声でバスの中の雰囲気はより一層明るくなる。だが、陽介だけはこの場の雰囲気から取り残されていた。
「今はまだ大学生の三宅裕太です」
ぶっきらぼうだがはっきりとした声で裕太が言う。自己紹介なんて嫌がるのかと思ったが裕太は何の抵抗も見せなかった。
「ねえ、添乗員のお兄さんも自己紹介してよ」
「そうだな。お願いします」
和香子と将平が提案すると、みんなの視線が陽介に集まる。陽介の心臓は早鐘を打つように激しくなってくる。
「山岸陽介です。今は休職中で、友人に頼まれてここにいます」
言葉が自然と口から出た。
「よろしくな」
「よろしくね」
「よろしくお願いします」
自分がこのツアーに参加したことは偶然ではなく必然だったと、陽介は自分の鼓動が速度を落とすのを感じながら思うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます