・10-9 第205話:「アルクス伯爵:1」
ここまで来ると、もう、シュリュード男爵の追手を気にする必要もなさそうだった。
すでに領地の区分としては、ケストバレーではなくアルクス伯爵領なのだ。勝手に侵入して捜索しようとすれば、伯爵の権限を犯したことになり、大きな問題に発展しかねない。
動く者は、自分たち以外にはない。
フィーナを背負ったセシリアは黙々と歩き続け、やがて、右手の方から夜空が白み始めた。
もうすぐ、朝が来る。
「見えましたわ! 」
視界が開け、前方に城館の姿が見えると、お姫様は疲れ切った顔に笑みを浮かべていた。
基本的に王都で育った彼女は、外の世界のことをあまり知らない。当然、アルクス伯爵の城館がどのような姿をしているのかも、直接自身の目で見たこともない。
だがそれが、一晩中必死で目指し続けてきた場所であると、確信する。
ほぼ平坦な田園風景の中に、少しだけ盛り上がった丘があって、その上に石造りの大きな建物と、それを取り巻くように丘のふもとにかけて街が広がっている。街の周囲はぐるっと城壁と水堀で囲まれ、数か所に城門が設けられている。
城塞、と呼べるほどではないが、一応の籠城戦が可能なように作られた城館にはいくつかの尖塔があり、その頂点でひるがえっている旗に描かれた紋章に見覚えがあった。
赤ワイン色の布に、金の糸で刺繍された、砦を模した紋章。
それがアルクス伯爵家のものであることを、セシリアは知っていた。
自国に仕えている諸侯にはどんな家があるのか。それは、幼い頃から度々、家庭教師たちによって教え込まれてきた、王族である彼女にとっては知っていて当然の知識であったからだ。
「けんど、おねーさん。大丈夫なんだべか? 」
「なにがですの? 」
すでにつま先の感覚が鈍くなるほどに疲労が蓄積していたが、それでも目的地が見えたことで前に進む力を取り戻して突き進むお姫様に、元村娘が少し不安そうにたずねる。
「シュリュード男爵、悪者だったんだっぺ? アルクス伯爵さまも、悪者だったりしねぇべか? それに、もし、おらたちの格好を見て、おねーさんがお姫さまだって気づいてもらえなかったら……」
「大丈夫ですわ! それは、絶対にありません! 」
セシリアはフィーナの懸念を、力強く否定した。
それは、心細そうにしているのを励ますための空元気などではなかった。
自信があるのだ。
「アルクス伯爵は、お父様の良きご友人なのです。
アルクス伯爵は、メイファ王国の王家からの信頼が厚い人物だった。
古くから続く名門で、かつて何度か王族との縁戚関係が持たれていた関係の深い一族である、というのもあるし、現在の当主と国王とは個人的に親しい間柄。
セシリアも何度か、遊び相手になってもらったり、先生になってもらったりして、いろいろなことを学ばせてもらい、世話を焼いてもらった記憶がある。
だからこそ、次善の策を考えている最中に真っ先に浮かんできた存在なのだ。
もし、彼にまで裏切られるようなことがあれば、完全にお手上げ、と言うほかないほどの存在だった。
「けんど、おねーさん」
これほど強く保証されたのにも関わらず、なおもフィーナは不安を消せないでいるらしかった。
「なんだかお城の方、騒がしくねーだか? まるで、
「……えっ? 」
辛く苦しい旅路を乗り越え、ようやく目的地にまで到着することができる。
これで、源九郎や珠穂、ラウルを救いにケストバレーに戻り、反逆を企てた奸臣を征伐することができる。
そんな嬉しさでいっぱいになっていたお姫さまはすっかり見落としていたのだが、元村娘が言うように、確かにアルクス伯爵の城館は騒々しい様子だった。
まず、まだ日が地平線から顔を出す前だというのに、あちこちに明かりがついている。
どこだってそうなのだが、夜間は、高価な燃料を節約するために必要最小限の照明しか確保されることはない。アルクス伯爵の城館なら警備のために欠かせない明かりは夜でも灯っていておかしくはなかったが、今見えている松明やランプの光の数は、異常なほどに多かった。
まるでこれから出陣するために、急いで臨戦態勢を整えようとしているかのように。
招集が命じられ、城館や城下町で眠りについていた兵士たちが叩き起こされて、慌ただしく出撃しようとしているとしか思えない様子だった。
ちらり、と、嫌な想像が頭をよぎる。
実はアルクス伯爵もシュリュード男爵と手を組んでいて、セシリアが逃げて来るのを見越して、男爵からの要請でこちらを捕えるために兵を動かそうとしているのか。
あるいは、手は組んでいなくとも、シュリュードから嘘の連絡を入れられ、やはり逃げている二人の少女を捕まえようとしているのか。
もはや、足はふらふら。
逃げようと思っても、とても逃げ出せない。
隠れてやり過ごすという最後の選択肢は残っているが、そんなことをしたら、仲間たちは救うことができないし、
絶望で心が塗りつぶされそうになる。
自然と呼吸が速く、浅くなり、動揺から焦点が合わなくなって視界がぼやけて来る。
「……
だが、セシリアはそう決めた。
この上、アルクス伯爵にまで裏切られていたら、もはやどうすることもできないという状況なのだ。
だとすると、一か八か、乗りこんでみるしかない。
自分は王女だ、などと言ってみたところで、結局は臣下の力を得られなければ大きなことは何もできない、せいぜい大切な仲間を背負って一晩中逃げ続けることくらいしかできない、か弱い少女に過ぎないのだから。
とにかく、やってみるしかないのだ。
そう覚悟を決めると、彼女は元村娘の背負う位置を調整し直し、もはや気力だけで動かしている脚を前へ、前へと進め続けた。
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