・2-4 第85話 「村人たちの救世主:1」
その日に自分が目にした光景を、少女は一生涯、忘れることはないはずだった。
もう、絶対に、自分はダメなのだと思っていた。
見ず知らずのケダモノたちにいいようにもてあそばれ、その挙句には奴隷として売られ、死ぬまで自由のない生き方を強いられるのだと、そう絶望していた。
しかし、その暗い未来は、くつがえされた。
たった一人の人間の手によって。
(こんなことができる人が、この世の中にいたなんて)
少女が驚きと尊敬、そして憧れの視線で見慣れない風体の大男、源九郎を見つめていると、彼は野盗たちがみな息絶えてしまったことを確信したのか、ようやくかまえを解いた。
そしてピッと小気味よい風切り音を立てながら刀を右手で振るい、血糊を払うと、その切っ先を自身の目線の高さにまで持ち上げ、口をへの字にし、眉間にしわを寄せる。
「……早く、まともな鍛冶師を見つけねぇとな。場所が違うって言ったって、日本刀を直す技術を持った奴は、どこかにいるはずだ」
それは独り言だ。
どうやら源九郎は、一撃で絶命させることができるはずだった相手に不要な苦痛を与えてしまったことを後悔しているらしい。
(あんな奴ら、いくら苦しめてやったっていいのに! )
少女は内心で、未だに消えることの無い怒りの情念を燃え上がらせていた。
その怒りの矛先はとうに死に絶え、その報いを受けたはずだったが、彼女の中の憎しみの感情は消えなかった。
村が、自分自身が受けた塗炭の苦しみ。
生々しく残るその感覚は、それを強いて来た相手が息絶えた後も容易には克服することはできない。
簡単に忘れられるものではなかったのだ。
「おっと、すまねぇ。お嬢ちゃんを助けてやらなくっちゃな」
気難しそうに自身の刀にできた刃こぼれ、そして歪みを見つめていた源九郎だったが、少女がじっと見つめていることに気づいたのか彼女の方を振り返る。
それから彼は懐から取り出した麻布の端切れで刀の刀身をぬぐって清掃し、それを慣れた手つきで手元を見ないまま鞘にパチンと納めると、縛られ、さるぐつわをかまされたままだった少女へとゆっくりと近づいて来る。
それは、ただでさえ恐ろしい思いをしていたはずの彼女をこれ以上に怖がらせないようにという配慮がされたゆっくりとした落ち着いた足取りで、一瞬で六人を斬り殺した際の張り詰めた、彼自身が研ぎ澄まされた鋭利な刃であるかのような姿からは想像もできない優しいものだった。
「ほら、お嬢ちゃん。待たせたな。もう大丈夫だ。俺は村の依頼で、お嬢ちゃんを助けに来たんだからな。……このまま、村まで送ってやるよ」
源九郎は少女の近くにまでやって来るとしゃがみこんで目線の高さを近づけると、善人そのものにしか見えない気さくな笑顔を見せ、腰に差していた短い刀、脇差を手に取ると、肌を傷つけないよう慎重に縄を解いてくれた。
ようやく自由になったものの、少女は戸惑って、赤面しながらうつむいてしまう。
「あ、あの……、ありがとう、ございます……」
なんとか絞り出した言葉は、たったそれだけ。
それもか細い、しりすぼみに消えて行く。
もっともっと、たくさんの言葉でお礼を言いたかった。
しかし、今の彼女には、それができなかった。
なぜなら、目の前にいるのは自分を助けてくれた恩人で、それだけではなく村を虐げていたはずの野盗たちをたった一人で倒した、凄腕で。
村にも大人の男たちは何人もいるが、彼は、その誰とも異なっていて。
村に残っている白髪交じりの大人たちや、年が近く他に遊び相手もいないからとよく一緒にいる男の子たちとも、全然違う。
どこか枯れてしまった印象も、無邪気で未熟な感じもない。
ただ、そこにどっしりと根を張って、確固として立ち、太い枝をいっぱいに伸ばし、青々とした濃い色の葉を茂らせ、どんな嵐が来てもものともせずに耐え、木こりたちが斧を振るってもその外皮はそれを跳ね返してしまいそうな。
そんな、成熟した大木のような、たくましい存在。
ずっと、その幹によりそっていられればいいのにと思ってしまう。
そうすれば自分はなにも恐ろしくはなく、どんなことが起こっても安心していられる。
頼り甲斐があって、しかも、そっとそこにいてくれる優しさもある。
それは、少女が生まれて初めて経験している感覚だった。
ドクンドクンと耳元で聞こえるほどに激しく血流が脈打ち、顔が、身体が熱く火照って、今すぐにこの場所から逃げ出したいのに、しかし、この人と離れたくないと、もっと近くにいたいとも思ってしまう。
「大丈夫か? お嬢ちゃん。立てないなら、俺が村まで背負って行ってやるよ」
視線をあげることができずにうつむいたままでいる少女の顔を、源九郎は心配そうにのぞき込む。
野盗たちに捕らわれていた恐怖でまだ身体が自由に動かないのだろうと、そう思っている様子だった。
━━━ここで弱音を吐けば、源九郎に背負って行ってもらえる。
直接、その存在を自身の肌で確かめることができる。
一瞬だけそう考えた少女だったが、慌てて首を左右に振って、声はもう出てこないのでどうにか身振りだけで否定の意を示した。
そんなことになったらきっと、自分の心臓が爆発してしまうと思ったからだ。
「そうか? ……なら、立てるかい? 日が暮れる前に村に帰って、長老さんたちを安心させてやろうじゃないか」
源九郎は怪訝そうにそう言うと、なにげない、一切の躊躇もない仕草で少女の手を取ると、地面にへたり込んだままの彼女を助けながら立ち上がった。
「きゃっ!? 」
思わず少女は悲鳴を上げる。
突然手を取られるとは思っていなかったし、源九郎の力はその見た目通りに強くたくましく、ひょい、と軽々しく彼女の身体を立ち上がらせてしまったからだ。
しかし、彼女はうまく立っていることができなかった。
やはり野盗たちに捕らわれ、縛り上げられたまま何時間も過ごしたことで身体が強張っていたというのもあるのだろうし、なにより、今はタイミングが悪かった。
「なんだ、やっぱりうまく立てないんじゃないか」
再びその場にへたり込んでしまった少女に源九郎は苦笑すると、「ほれ」と言いつつ、背中を向けながらしゃがみこむ。
その後ろ姿を右手で自身の心臓の辺りを抑えながら呆然と見つめていた少女だったが、やがて、両目をつむると、もうどうにでもなれ、と覚悟を決めて、彼の厚意に甘えることにした。
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