・0-13 第13話 「田中 賢二、死す:3」

 必死に生きようとあがく賢二の姿を、光明はしばらくの間、優越感と満足感、そして自分の行ったことに対する恐怖と戸惑いで歪んだ表情で、見おろしていた。


 だが、すぐに光明は階段の方を振り返ると、血相を変え、慌てたように急いで手すりを乗り越えた。

 そこは2階だったが、殺陣たての演技をするために鍛え抜かれた光明の身体は着地の衝撃をものともしない。


「えっ? さっき飛び降りた人……、なんだったんだ? 」


 すぐさま駆け出し、一目を忍ぶように暗がりの中に姿を消していった光明の方へ視線を向けながら、1人の人間がのんきな足取りで階段を登って来る。

 どうやら光明は自分たち以外の別の誰かがやってきたことに気づき、慌てて逃げ出したようだった。


 賢二は、その若い男性のことを、顔だけは知っている。

 同じアパートの同じ階に住んでいる大学生で、何度か顔を合わせているし、挨拶あいさつくらいならしたことがあるからだ。

 長くのばした茶髪と、いわゆるキツネ目と呼ばれるような細目を持つ、平均くらいの身長を持つ青年だ。


 ただ、賢二は彼の名前を知らない。

 今年の春から大学生になった彼は、特に賢二のところに引っ越しの挨拶あいさつに来るようなこともなかったし、彼が住んでいるのは奥の方の部屋なので、わざわざ表札を確認しに行くようなことを賢二もしなかったからだ。


「……うわっ!? わっ!? うわぁぁぁぁぁぁっ!? 」


 自分が階段を登って来るなり、突然手すりを飛び越えて逃げ出した光明の姿を追っていた青年だったが、視線を前方へと戻し、そこに広がっている惨状を目にすると、目玉が飛び出そうになるくらい大きく目を見開き、驚きと恐怖でうまく言葉にならない悲鳴をあげた。

 そして青年は、ドサリ、とその場に尻もちをついてしまう。


(ま、無理もねぇ、よな……)


 賢二は、薄れゆく意識の中で、青年のその反応を奇妙なほど冷静にとらえていた。


 もう、身体を動かすような力は、少しも賢二には残っていない。

 血が抜けすぎて、身体を動かすことができないのだ。

 ただ、急激な出血によるショックで、ビクリ、ビクリ、と、賢二の身体は痙攣けいれんをくり返すだけだった。


 肺で広がった出血によって賢二は呼吸することが困難になり、酸素の供給も断たれてしまっている。

 賢二はまだこの世界にいたが、しかし、すでにその死は確定的なものだった。


「あっ、あうっ、うぅうっ……!


 そ、そうだ、救急車……ッ! けっ、警察も、呼ばないとっ! 」


 運悪く、殺人現場の第一発見者となってしまった青年は、つい先ほど2階から飛び降りて逃げ出した光明の行動の意味を賢二の姿を目にして理解し、パニックになりながらも、ふところからスマホを取り出した。


(ありがとうよ……。ま、もぉ、間に合わねぇけどよ)


 青年が震える手でたどたどしく119番を押し、まず救急車を呼んでくれていることに、賢二は内心でだけ、感謝をささげた。

 少なくとも青年は賢二を救いたいとは思ってくれたようだったからだ。


 だが、賢二はたとえ今すぐに、数秒以内に救急車が到着したところで、手の施しようがないことを理解していた。

 自分からあまりにも多くの血が流れだしてしまったことを、賢二は知っている。


 まだ流れ出ずに残っているわずかな血が、賢二の命をこの世界につなぎとめている。

 だが、それもあと、ほんの数秒程度のことに違いなかった。


(走馬灯……、見えねえ、な……? )


 人は、死を迎える瞬間に、走馬灯を見るのだという。

 それは死という絶対に回避したい事象から逃れるために、人間がその自身の記憶を徹底的に掘り起こし、どうにか対応策を探し出そうとするからだと、賢二は聞いたことがあった。


 その走馬灯を、賢二は見ることはなかった。


 賢二が感じていたのは、冷たい、床の感触。

 そして、自分の全身から血が、命が流れ出ていく感覚。


 もう、息苦しさも感じなくなっていた。

 あるのはただ、自分が終わっていくのだという、その実感だけだ。


(ああ……、あっけねぇなぁ……)


 賢二は、こんな風に自分が終わっていくことなど、想像もしたことがなかった。


 一度つかんだはずの夢が儚く消え、賢二はまるで抜け殻のような存在だったが、それでもまたいつか、生きる目標を見つけて、自分なりの幸せをつかむために頑張っていくのだと、そう思っていた。


 まして、親友だと、良き理解者であると思っていた光明に刺殺されるなど、少しも予想していなかった。


(なんで、だろうな……)


 もうほとんど残っていない賢二の意識は、ただ、そのことだけを考える。


 すでに、賢二の五感は消え去っていた。

 あれほど冷たかった床の固い感触も、慌てふためきながら、要領を得ない言葉で通報している大学生の青年の言葉も、賢二には聞こえていない。


 もはや意識だけがわずかに残っている賢二が思うのは、どうして、光明が自分を刺し殺したのかということだけだった。


 お前のせいで、オレは、一番になれなかった。

 光明は確か、そう言っていた。


(ああ、そうか……)


 その時、唐突に賢二は理解した。


 なぜ、光明が自分をナイフで刺したのか。

 そうせねばならないほど賢二のことを恨み、思いつめてしまったのか。


 それは、賢二が立花 源九郎という存在になったからだった。


 立花 源九郎として賢二が主役となった作品の主人公は、元々、1人だけだった。

 それを、賢二の殺陣たての演技に着目した監督がシナリオを変更し、物語を2人の主人公によって進めていくものへと書き変えたのだ。


 その、書き変えがなかったら。

 その作品は、松山 秀雪……、早川 光明だけを主役として、撮影されるはずだった。


 そして、主人公が2人になった結果、光明はそのもう1人の主人公と、自身の演技を比較されることとなった。


 その、結果。

 光明は、「親の七光りで主役になった」などと、人々から陰口を言われるようになってしまった。


 立花 源九郎という存在がいたせいで、松山 秀雪は唯一の存在ではなくなり、そして、1番になることもできなかったのだ。


(それじゃぁ……、あの、[事故]も……)


 賢二は、ようやくすべてを理解した。

 自分の役者生命……、立花 源九郎という[夢]を失うきっかけとなった、撮影中の[事故]。


 あれも、おそらくは光明が仕組んだものだったのだ。


 ずっと、違和感があった。

 いくら本気で演技をしたからといっても、光明が[誤って]賢二の左手を強打することなど、あり得るのだろうか、と。


 賢二は、光明がどれほど熱心にその技術を磨いていたのかを知っている。

 だから彼がミスをして、賢二の左手を模造刀で強打することなど、考えにくいことだったのだ。


 まさか、そんなことあり得ない。

 賢二は内心で沸き起こる疑心をそう思って今まで押し殺して来た。

 なぜなら、賢二は光明のことを、親友だと信じていたからだ。


 しかし、そう思っていたのは、賢二だけであるようだった。


(ああ……、俺は、バカだったんだなぁ……)


 そう思うと、賢二は不思議と、笑ってしまう。


 夢を、必死に追いかけて。

 それ以外のことなどなにも見えていなかった賢二は、光明の本心など少しも気づかず、勝手に親友だと思い込んで。

 そして、こうして惨めに、寂しく、死んでいく。


 自分の、愚かしさ。

 そして、自分の運命の儚さ。


 それが、あまりにも賢二にはおかしかったのだ。


 そうして、田中 賢二、40歳、アラフォーのおっさんは、口元にわずかに笑みを浮かべながら、死んだ。

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