・0-12 第12話 「田中 賢二、死す:2」

 体重を乗せて、ドンっと光明がぶつかって来る衝撃。

 身に着けていた衣服をナイフの切っ先が突き破り、皮膚を割き、肉をかき分け、深く、深くへと突き進んで来る感覚と、鋭く、熱い痛み。


 だが賢二は、自分が感じたそれらの感覚を、光明によってナイフで刺されたことによるものだとはすぐには理解することができなかった。

 そんなことを光明がするなんて夢にも考えてはいなかったし、第一賢二は、これまでに誰かから刃物で突き刺された経験もなかった。


「なん……、だ、よ……? 」


 異常なことが起こっている。

 そのことには気づきながらも、なおも賢二は危機感を抱けないまま、ゆっくりと背後を振り返っていた。


 賢二の不自由な左手からスマホがこぼれ落ち、床の上に落ちて、ガン、ガン、と何度か跳ねてから、ジャー、っという音を立てながら滑って行った。


 賢二にナイフを突き立てた光明は、その蒼白な顔面で荒い呼吸をくり返し、白い息を吐きだしながら、激しく肩を上下させている。


 光明は、賢二にナイフを突き刺しただけでは、止まらない。

 そのままナイフの柄を両手で握りしめ、賢二の身体の中を抉るように動かしてく。


 それは、確実に賢二の命を奪おうという、そうとしか考えられない行動だった。


「ぐっ、あぐっ!? 」


 冷たく、硬い鉄の刃が、自身の柔らかい体組織を抉る感覚。

 その痛みに、賢二は苦悶の声をらしながら、ようやく、自分が光明にナイフで突き刺されたことに気がついた。


「お前の、せいで!

 お前のせいで、オレは! 1番に、なれなかったんだッ! 」


 愕然がくぜんとしている賢二に向かって、光明は、絞り出すような、そして悲鳴のような声で、そう言った。


 それは、賢二が聞いたことのない種類の声だった。


 光明から賢二へと向けられた、強い憎しみ、恨み。

 そのどす黒い感情の中には、深い絶望や、挫折感が含まれ、それらが混然一体となって、グルグルと渦を巻いている。

 そんな、悲痛ささえ感じさせる、声。


 だが、賢二にはまったく、身に覚えがなかった。

 光明が賢二のことをここまで憎み、恨み、思いつめて、こんなふうにナイフを突き立て、賢二の肉体を抉るような行動に出るような理由を、賢二は危機に対処するためにいつもよりも早く回り始めた思考でいくら考えてみても見つけることができなかった。


「ウソ……だろ……? 」


 ただ、賢二は、そううめくように問いかけることしかできない。


「俺、お前のこと……、友達だって、思ってたんだぜ……? 」


 その、次の瞬間。

 賢二ののどの奥から鮮血があふれ、賢二の喉がふさがれた。


 心臓を狙った光明のナイフの狙いは、わずかにだがそれたようだった。

 それは、賢二の骨によって阻まれたモノか、あるいは、光明の深層心理に存在したかもしれない、躊躇ちゅうちょによるモノか。


 だが、光明がナイフの切っ先で賢二の身体の内側を抉ったことによって、賢二の肺の片方が斬り裂かれたようだった。


 心臓と同じように多くの血が集まる器官である肺が斬られたことで、大量の鮮血が賢二の肺の中にあふれ出した。

 血管には常に圧力がかかっているから、一度大きな裂け目ができれば、そこから噴き出だすように出血する。

 それらは肺の中にあった空気を押し出し、賢二の気道を駆け上り、喉を塞いで、賢二の口と鼻からあふれ出る。


 賢二は、ようやく、悲鳴をあげようとした。

 なんでもいい。

 誰でもいい。

 今すぐに助けを呼ばなければ、自分は死んでしまうと、そう理解したからだ。


 だが、賢二はもう、まともに悲鳴をあげることができなかった。

 口を開き、いつものように声帯を震わせてみても、出てくるのは「がば……ごぼ……」という、濁った音だけ。

 血と空気が入り混じったものを吐き出すだけで、声は少しも出てこない。


 賢二が致命傷を負ったことに気づいた光明は、そこでようやく、ナイフを賢二から引き抜いた。


 そして光明は、その手にナイフを持ったまま、数歩後ずさって、廊下の手すりに背中をつけ、「ハッ……、ハハッ! 」と、乾いた笑いを浮かべる。


 その表情は、戸惑いと、恐れと、喜びに引きつり、歪んだ笑みだった。


(なん……で、だ……? )


 賢二はもう、自分の身体を支えていることができない。

 膝を折り、前のめりに倒れ込みながら、ただ、どうして光明が自分をナイフで刺し殺したのかがわからず、戸惑っていた。


 冷たいコンクリート製の床の上に倒れ伏し、自身の身体から流れ出て来る、生暖かく、冷たい空気に白く湯気をあげながら辺りに広がる血だまりの中で、賢二は、必死に自身のスマホを探した。


 光明に刺された際に取り落としてしまったスマホは、どうやらほとんど破損はしていない様子だった。

 保護カバーと保護ケースのおかげで、落とした衝撃でも壊れなかった様子だ。


 だが、賢二がいくら手をのばしても、スマホには手が届かなかった。


 それでも賢二は、スマホに向かって手をのばし続けた。

 賢二がのばした手は、何度も空を切り、その指は弱々しく、すがるようにスマホに向かって精一杯にのばされる。


 スマホですぐに救急車を呼べば、助かるかもしれない。

 賢二は、頭ではこれが致命傷であることを理解していたが、それでもその見込みのない希望にすがらざるを得なかった。


 自分の生き方に、後悔はしていなかった。

 だが、まだ死にたくはなかったのだ。


 もう、夢と呼べるようなものは、賢二にはなかった。

 立花 源九郎という夢をかなえ、その夢が儚く消え去った今の賢二は、抜け殻のようなものだった。


 だが、それでも生きることに賢二は絶望していなかったし、辛いことがあっても、それなりに楽しいことだってあったのだ。


 無駄だと、そう理解していても。

 賢二は必死に、生きようとしていた。

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