栄寮へ

@kii0908

第1話 住民たち

 時刻は午後六時過ぎ、夕焼け空は珍しく桃色に染まっている。小さな川に沿って無数の桜が植えられており、花びらは踏まれたり、敷かれたりしてコンクリートの地面にめり込んでいる。

 野村は緊張した面持ちで今日から大学生活を過ごすことになる寮の前に立っていた。

 寮は烏丸線の松ヶ崎駅から徒歩5分のところにある木造二階建てで、今は5人が暮らしているということで、それなりに大きい。門から玄関までの道は石畳のようになっており、左側にはおそらく庭につながるであろう道が続いている。

 野村は少しの楽しみと新生活への不安を胸に、玄関ドアの前まで歩いていき、インターフォンを鳴らした。しかし返事はなかった。寮の窓からは光が漏れているので留守ということはないだろうが。野村は、ただ単に留守にしているだけという可能性も考えたが、もしかしたら体調が悪く返答もできないでいる、という可能性もあるかもしれないと思った。悩んだ末に横開きになってるドアを開けた。

「おじゃましまーす」

探るように言ったが、返事はなかった。

 玄関の前には廊下が続いており、廊下の奥には2階に続く階段、右側には木でできた横開きの扉が三つ並んでおり、左側にはふすまの扉があった。そこから光が漏れている。

 野村は靴を脱いで廊下を進み、ふすまを開けた。

 野村は驚いて口元を手で覆った。大きなこたつテーブルの両端に人が倒れていた。

 一人は70代くらいの女性で白目をむいており、もう一人は顔立ちが整った20代中盤くらいの女性で、少し服がはだけており胸の谷間が見え隠れしている。

 野村はとにかく生きているか確認するために、70代くらいの女性の近くで身をかがんだ。「息はしているみたいだ」と野村が安堵したその瞬間、女性の白目がいきなり黒目に変わった。野村は思わず「ひい」と声を上げて尻もちをつくようにひっくり返った。

 70代くらいの女性はぬるりと上半身を起こして、表情筋をピクリとも動かさず

「ようこそ栄寮へ」

と、野村に向かって淡々と言った。

「おばあさん、生き、生きてたんですか?」

と、野村はなんとも情けない声で言った。

 野村の情けない声を聴いて美人な女性は、さっきまでの美人な顔は嘘のように、あごの骨が外れんばかりに口を大きく開けて爆笑している。

「ひーひー-、腹痛い、ひー…」

「な、脅かすために倒れている振りをしたってことですか?」

 野村は普段誰かに怒ったりすることはないが、おばあさんと美人なお姉さんのドッキリともいえる脅かしに、ふつふつと怒りがわいてきた。

「なんなんですかこれは!」

「ごめんなさいね、紗栄子さんがどうしても脅かしてやりたいっていうもんですから。紗栄子さん、野村君に謝りなさい」

と、真顔のままおばあさんは爆笑したままの女に言った。

いやいやいや。あなたが言うか。あなたも白目向いて、脅かす気満々だったじゃないですか。なんなんだ、ここの住民は。ていうか住民だよな?野村は少し怪しんだ。

「だってだって、『君は寮内のカースト最底辺、下の下なんだよ』って私が大人の女性としてしっかり教えてやらないといけないと思ってー」

美人な女性はおどけて答えた。

「それにちゃあちゃんだって、なんだかんだノリノリだったでしょ」

「そんなことありません」

70代くらいの女性も少し口元が今にも崩れんばかりである。

「いや、おばあさん。口元がぴくついていますよ」

野村は少しイラついたように言った。

「いやいやそんなことありませんよ。だいぶ情けない声を上げていましたが、そんなことで私は笑ったりしませんよ、、、ふっ」

野村は「やっぱり笑ってるじゃないかー」と、立ち上がり異議を唱えたが、「そんなことありません」と、今度は仏像彫刻のような顔に戻ったおばあさんに遮られてしまった。

「まぁ、そんなことはどうでもいいんです」

どうでもいいんかい。

「初めまして、野村君。寮の管理人の後藤久子です。寮ではちゃあちゃんと呼んでくれればいいです」

「はぁ、、」

「私は藤紗栄子ね。よろしく童貞君」

いつの間にか持ってきたビール缶を持っていた。

「どどど童貞じゃないですよ」

しまった、動揺して噛んで。

これを聞いて紗栄子はまた、げらげら笑い始めた。

「あー、本当かわいいな晴太は」

野村はいきなりの名前呼びに驚いて、またしても動揺してしまった。やばい顔に出たと思い、すぐに凛とした顔に戻したが、時すでに遅し。

紗栄子は「童貞確定じゃんか」と言ってまた笑い出した。

「紗栄子さん、酔いすぎですよ。まだ夜ご飯の前です」

「はー-い」紗栄子さんは笑いすぎて涙目になった目をこすりながら言った。

野村は「あぁ、俺はこれからこんな中身が濃い人たちと暮らしていかないといけないのか」と思い、早くも夢の大学生活が崩れ去ったことを悟った。

「改めてよろしくね、野村君」

野村も「こちらこそよろしくお願いします」とちゃあちゃんに答えた。

「わたしもよろしくー」

「あんたとは絶対よろしくしません」

「はいはい、そこまでにしなさい」

と、ちゃあちゃんが手を二度たたいて野村たちを制止し、ご飯を作るために台所に行ってしまった。

 

 野村は寮について紗栄子からいろいろ教えてもらった。寮には、ちゃあちゃんと野村を含めて6人が住んでおり、今は男が三人、女が三人となっている。1階は共用エリアと男の個室が3部屋あり、二階は女の個室が同じく3部屋ある。風呂とトイレは各階に一つずつあり、男女で分けて使うことができる。ちなみに二階は男禁制となっていて野村は上がることはできないそうだ。

「ちなみに、ほかの住民たちは今はいないんですか?」

「もうすぐ何人か帰ってくると思うよ」

紗栄子はちびちびビールを飲みながら器用に答えた。

「ていうか、紗栄子さんは早い時間から寮にいまけど、普段何をしているんですか?」

「ふだんは普通のOLよ。今日は有休をとって金土日で三連休にしたの」

なんとも嬉しそうに、紗栄子さんは一気にビールを飲み干し、空にして見せた。

 そうこうしていると、玄関のドアが「がらがら」と音を鳴らした。

「噂をすれば帰ってきたね」そう言うと紗栄子さんは立ち上がって、追加のお酒を取ると言って、冷蔵庫に向かった。

「ただいまー」「ただいまー」「ただいま帰りましたー」

次々と声が聞こえた。

一気に三人が居間の中に入ってくる。

「ちゃあちゃーん、言われてたサツマイモ買ってきたよー」

 先頭で入ってきた、スーツを着た人がちゃあちゃんに、サツマイモがパンパンに詰まったビニール袋を渡した。

「ありがとうね、こんなにたくさん。それとね、朝にも話したと思うけど、今日から住むことになる野村君ね」

「野村晴太です、今日からよろしくお願いします」と、ちゃあちゃんからいきなり話を振られ焦ったように答えた。

「よろしくね」

次々と答える。

 スーツを着た20代くらいの男は嶋田到、もう一人の無精ひげが生えている、年齢はちょっと読みずらい顔をしている、男は柿田宗、40代中盤くらいの女は後藤登美子と名乗ってくれた。

野村にあいさつを終えて三人とも「荷物を置いてくる」と言って部屋を出ていった。

 ちゃあちゃんはご飯ができたようで、野村と紗栄子に配膳を頼んだ。今日のご飯はお赤飯、唐揚げ、オクラと梅干しの和え物。ちゃあちゃんは、野村が新しく住むことになったのでそのお祝いとしてお赤飯にしたと教えてくれた。野村は「モチモチしたお赤飯の食感が好きなんですよ」とちゃあちゃんに返すと、ちゃあちゃんは少し微笑んだ。

野村はちゃあちゃんのこのような暖かい顔を見ることができて、少しうれしくなった。

 部屋の中は、嗅覚を刺激する唐揚げの良い匂いが漂っている。

 野村たちが配膳を終えると、嶋田がふすまを開けて、部屋の中に入ってきた。

「うわー、いいにおい!」

嶋田は座布団の上に胡坐を組んで座った。

「ちゃあちゃんの唐揚げは絶品なんだよ」

「そんなにおいしいんですか?」

「二度揚げしているからね。外側がカリカリなんだよ」

嶋田はなぜか自分のことのように誇っている。

「なんであんたが偉そうなんだよ、嶋田ぁぁ。ひっく…」

紗栄子はもうずいぶん出来上がっているようだった。

「本当においしいから、食べたことがない人には自分のことのように自慢したくなっちゃうんだよ。ていうか紗栄子ちゃん、飲みすぎなんじゃない?食事の前に飲むとアルコールが吸収されやすいから気を付けてって、この前も言ったよね」

嶋田は純粋に心配しているようだった。

「お前は私のお母さんか?」

「何言ってるの、お母さんな訳ないでしょう」

嶋田は紗栄子の冗談を真に受けているようで、純粋に「お母さん」を否定している。

どうやら嶋田は、透き通った鴨川の水のごとく、純粋な男のようである。

 柿田や後藤も遅れて部屋の中に入ってきた。

「お、今日は唐揚げですか」

柿田は今にも目を閉じてしまいそうなくらい眠そうであったが、何か大変な試練を乗り越えた後のように、声には意外と張りがあった。

 柿田が座り、後藤が座り、最後にちゃあちゃんが座った。五人が座布団に座り終え、音がなくなった。

「それでは」ちゃあちゃんが静かになった部屋の中でやさしく言った。

「野村晴太くんが新しく寮に住むことになりました。野村君はこれからよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

と、野村も答える。

ちゃあちゃんは小さくうなずいた。

「それでは」

また静かになった。

「いただきます」

「いただきまーす」

一同が声を合わせていった。

 ご飯を食べながら、自分たちのことを話してくれた。嶋田は29歳で会社員、柿田は野村が通うことになっているK大の大学院に所属していて、今日は二日ぶりに寮に帰ってきたらしい。後藤は48歳で近所にある市民会館の一室を借りて手芸教室をしている。

 ご飯を食べながらも、各々の個性がよく見えていると野村は思った。よく話しているのは嶋田と紗栄子で,あーでもないこーでもないと口げんかのように言い合っている。そこに野村、ちゃあちゃん、後藤が時々口をはさむ、というのが基本の構図になる。

 野村の家族は特別にぎやかにご飯を食べる家庭というわけではなく、テレビがついていてちょうどいいくらいのにぎやかさである。とりわけ、栄寮のにぎやかな雰囲気は野村にとっては初めて経験するものであり、初めて親元を離れて生活するにあたって、こんなに心強いものはないものはないと思った。

 各々がご飯を食べ終わりお皿を流しにもっていくのだが、どうやら自分の皿は自分で洗うのが暗黙のルールになっているようでそれぞれが自分の皿を洗っていく。嶋田に聞いてみると他の家事は、ごみに関してはローテーションで毎朝担当の人がごみを出し、お風呂掃除は最後に入る人がお湯を抜き掃除までする、というのが定例らしい。

 風呂の順番はいつもはじゃんけんで決めているらしいのだが、2日風呂に入っていなかった柿田が懇願したため、柿田、嶋田、野村の順番となった。

 時刻は11時となりやっと野村に風呂の順番が回ってきた。野村はシャンプーを髪の毛で泡立てながら、今日を振り返った。野村は共同生活といっても、もう少し距離がある関係を予想していただけに、ここまで密接した関係性であることにとても驚いていた。

 


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