「きりかわ~、ちょっといい?」

 重い扉が開く音と、気だるげに俺を呼ぶ掠れた鼻にかかったような声。カウンターに座り今日も図書委員の業務を粛々となしている俺は、くるんと椅子を回してその声の方を向いた。

「……珍しいッスよね、先生がいるの」

「ん~、病気治ったからね~」

「治ったって、仮病っしょ」

「何を言う~、足の指が1本ずつ痛くなる奇病だぞ~」

「ンな病気あるわけないっしょ」

 溜息を吐いて先生を視界に捉える。「みたに います」と書かれた小さな看板がドアに掛けられ揺れていた。三谷先生は煙草を手に、これもまた気だるげに司書室に手招きする。

「……副流煙どうにかなりませんか?」

「いいからいいから~」

 俺は招かれるままにとりあえず重い扉の奥へと足を進める。がちゃん、と扉が閉められると、室内は猛烈な煙草臭に包まれていた。

「神聖な学び舎をなんだと思ってるんだ」

 産まれてこの方、身近な場所に喫煙者がいなかった俺だが、図書委員になったことでかなり身近にヘビースモーカーが存在することになってしまった。俺は机上の灰皿に潰された大量の吸い殻を見て、非難の目を向ける。

「普段は別に好きでもないのに、こんな時ばかり神聖だなんて褒めそやすんだねぇ」

「うっさいな、家に帰った時臭いついてて、親に誤解されないかドキドキするんスよ」

「だから出入口にファブリーズを常備してるんじゃん~」

「消毒液じゃないんだから」

 先生は俺の辟易とした表情を尻目に、眼鏡を光らせ、背もたれを倒しながらけらけらと笑う。

「これ見てよ、これ」

「なんスか」

 先生が指さしたのはその満杯の灰皿から視線を10センチほど右にずらした机上にある鍋のようなものだった。フライパンと言えば底が深すぎて、鍋と言うには浅すぎる。

「いや~、買っちゃったんだよスキレット」

「……スキレット?」

「うん、これがあればフレンチトーストもアヒージョもぜんぶお手の物ってわけ」

「……先生料理するんスね」

「まあね~、なんかアニメ見てたらキャンプで使っててさ、見た目もかわいいし、ちょっと昔読んだ絵本を思い出したりして欲しくなったわけさ。いてもたってもいられなくて、事務室に届けてもらった~」

「私物化が過ぎるだろ」

 この人にとって学校とはなんなのだろうか、と考えてみるも、まあ校内全面禁煙の中、一人だけ司書室内の喫煙を許可させたこの男に、常識など通らないことくらい分かっていたつもりではあったが、ツッコミは入れずにいられなかった。

 先生は俺のそんな呆れた表情も意に介さず、鍋底を指で撫でたり、唇を寄せたり、なんともまあいたく気に入っているようだった。御年34にもなるいい大人がそうしてる光景はなんともはや、痛々しくて見るに堪えない。

「ねえきりかわ、これで僕最初に何作ると思う~?」

「知らないっすよ、カウンター空けてるんで戻りますよ俺」

「ええ~」

 口を尖らせた表情で示された不満を背中で受け止め、後ろ手で司書室の扉を閉じる。

 久々にいると思ったらこれだよ。デスクチェアに座り直し、頬杖をついて利用者が声をかけるのを待つものの、誰も来やしない。業務を理由に司書室を出た割に、これではなんだか気まずい感じもしていた。いつもなら面倒だから誰もくるなよ、なんて思うわけだが、今日に限ってはどうも誰か人が来て働いているポーズだけでもさせてほしい次第だった。

 ……そういえば、辻先輩の姿が今日は見当たらない。

 いつもならカウンターの正面右の一番手前のテーブルに腰を落ち着けて、読書が落ち着けば俺に話しかけてくるというのに、今日はどうしてかその姿はなかった。話し相手にして退屈せず、それでいて最近はどこか心地よさすら感じる時間だというのに。

「暇だなあ」

 すこし大きめに独り言をごちてみる。図書室内ではお静かに。なんて言っても俺以外の影はないわけで、誰にも迷惑をかけていないのは保証されている。図書委員としてその考え方はどうかと考えると、まあグレーではあるんだろうが。

「暇だ、暇だ」

 俺はだんだん、図書室がこんなにも暇であることに苛立ちを覚え始めてきた。先輩のいない図書室がこんなに退屈なんて。最早先輩と話すようになった以前、自分が何をして時間をやりすごしていたかも忘れてしまった。これだけ生徒がいるのに、利用者は極端に少ないのはおかしいだろ。もっと利用しろ図書室を。

「……きりかわ~」

「何スか!」

「ひい!そんなに怒らなくてもいいじゃん!悪かったよ……」

 振り返ると、苛立ちのあまりつい大きな声を上げた俺の前に、ハムスターのように小さく縮こまる三谷先生がいた。

「……何か用事ですか」

「ちょっとさ、手伝ってよ~」

「手伝い?」

「うん~、どうせ人来ないでしょ~?」

 図書館司書がそんなこと言うのもどうなんだ、と思ったが、俺は首肯して再び司書室に入る。

 がちゃん、と重い音を立てて扉が閉まると、先生は俺の胸に何かを押し付けてくる。それを視認すれば、卵と泡立て器が入ったボウルだった。

「メレンゲ作れる?」

「はあ?」

 煙草の匂いのしみついた室内にふわりと甘い香り。乱雑に物や書類が置かれたところで、少しスペースが作られた大き目のデスクの上には、グラニュー糖と小麦粉が置かれている。

「いや~、作ってみたかったんだよね~。スキレット鍋のカステラ」

「神聖な学び舎だぞ!!!!!!!」

 またも声を荒らげてしまった。

「いや~、いいじゃん。きりかわも調理実習するでしょ~?」

「これはただの調理でしょ」

 嘆息しつつ、押し付けられて受け取ったボウルの置き場を探すものの、あいにく見当たらず。

「とにかく作りたいの、30分でできるって言うし。ね、ね?」

「嫌ッスよ、何もないなら帰ります」

「あっ待って!」

 知ったことか、とばかり、がちゃ、と司書室の扉を押し開ける。そういったものに構っている暇などないのだ。高校生の青春に与えられた時間は一秒たりとて大人に無駄にされてはいけないのだから。

 がん。

 鈍い音が響く。ドアノブを握った俺の手のひらは、妙な手ごたえを覚えていた。

「…………」

 恐る恐る扉の向こうを覗き込むと、そこには辻先輩が額を押さえてきっとこちらを睨んでいた。

「…………いたい」

「すすすすすすすすすすすすいません!!!!!!!!!」

 驚きのあまり飛び跳ねてしまった。図書室内ではお静かに、という言葉を率先して破る図書委員の構図だ。

「ほら~、そろそろつじが来ると思ってたのに~」

 呆れた声が俺の後ろから聞こえてくる。

「……嘘、そんなに痛くないわ」

「……すいません」

 先輩は俺をすり抜けて司書室の中に入ると、年季の入った箱にしまわれた1冊の本を手渡す。

「これ、借りてたもの」

「ああ、どうも。どうだった?」

「こんな綺麗な言葉で、人の内側を外側から描写できるものかしらね。楽しく読ませてもらったわ」

「そりゃよかった」

「石膏のヴィーナス」

「はは、君が一番自分を重ねそうな話だ」

「別にそんなことはなかったけれど。でも一番好きだったわ」

 先生はその感想を聞いて満足げに鼻をこすり、その本を丁重に布で包むとリュックサックの中にしまった。

「桐川君がいたら、代わりに返してもらおうと思ったのだけれど……今日はカウンターにいなかったから」

「す、すいません……先生に呼ばれてたんで」

「ちょっと僕のせいにするのはひどいな~、ちゃんと仕事してよ~」

「どうせ誰も来ないだろって言ったのは誰っすか!!」

 少しムキになって反論している間、先輩の視線は俺が胸に抱えているものに向けられていた。

「桐川君、何か作るの?」

「うえ、いや、知らないッスけど、三谷先生に『メレンゲ作れる?』って」

「洋菓子かしら。ここで作るの?」

 先輩の視線はいつの間にか煙草に火を点けていた先生に向けられる。

「そうだよ~、このスキレット鍋を買ったからね~」

 先生は魔法の杖のようにスキレット鍋をひょい、と掲げる。スキレット……?と目を細めていた先輩は、実物をみて「ああ、」と声を漏らした。

「カステラでも作る気?」

「いぐざくとりぃ~!」

 どんどんぱふぱふ、という効果音が先生の周りを包んでいた。拍手が送られるなか、俺はどうしてわかったのかと狼狽しながら先輩に視線を送る。

「あら、桐川君は知らないのかしら。ぐりとぐら」

「名前だけ、……なんか読み聞かせを聞いたことがある気がするッスけど、正直よく覚えてないッス」

「ふうん。桐川君の子どもは想像力の働かない感情に乏しい子になりそうね」

「絵本の内容を覚えてないだけなのになんでそこまで言われなきゃいけないんだ!!」

「そうだ、つじも手伝ってくれない?きりかわはどうも乗り気じゃなくて~」

「いいけど。病気はもう大丈夫なの?」

「心配ご無用だよ~、再発するなら明日だね~」

 再発しないように心掛けてほしいものだが。ツッコミを入れるほどの元気は残っていなかった。

「じゃあ私がメレンゲを作るわ。桐川君はカウンターに戻ったら?」

「な」

 先輩は俺の抱えているボウルをひったくると、慣れた手つきで卵を割り始めた。

「卵黄を入れるボウルもらえるかしら?」

「マグカップでいい~?」

「なんでも」

 器用に卵黄と卵白を殻の中で分けていく。一瞬で手持ち無沙汰になってしまった。

 俺は司書室を出るわけでもなく、しゃかしゃかと音を立てながら卵白とグラニュー糖を泡立てる先輩をじっと見ていた。

「きりかわ、出ていかないの~?」

「いや、まあ……」

「じゃあさ、ちょっとオーブン予熱してくれる~?」

 先生は司書室の奥にあるオーブンレンジを指さした。

「……これ、弁当あっためるためだけに使うもんじゃないんスか」

「はは、これが司書教諭の特権ってやつ。私物だよ~」

 使い方はよく分からないが、とりあえず言われた通り、170℃にセットしてやった。

「桐川君、バターを溶かしてほしいのだけれど」

「なんでアンタもそんなにノリノリなんだ」

 先輩はきらりと目を光らせて、俺の方を向く。いつの間にやら透明だった卵白が白く泡立ちつつある。正直浮世離れしているようで辻先輩には料理ができるイメージがなかったので、なかなかこれは新鮮である。

「きりかわ~、これ使って~」

 先生は大き目のボウルをどこからか取り出すと、だぱだぱだぱと熱湯を注いでいく。

「湯煎だよ~」

「マジでこの部屋なんでもあるんだな……」

「あるよ~、四次元ポケットだよ~」

 足元に置いてあるミニ冷蔵庫からバターを取り出すと、先生はそう言われるのが本当に嬉しかったようで、にっこりと笑みを浮かべていた。

「はいこれレシピ、きりかわとつじで作って~」

「……先生は?」

「残念ながら業務中でね~」

 そう言って紙を俺に渡し、煙草に火を点けると机に向き直る。仕事は本当のようで、受験を控えた生徒の小論文がパソコンの画面に映し出されていた。仕事中なのは本当らしい。

「……仕事中にお菓子作りなんて頼まないでくださいよ」

「ふふ~、ごめんね」

 だんだんと状況を受け入れつつある俺もなんか嫌だな。

「バターは30gね」

 先輩の凛とした声の指示。……別に悪かない、とも思ってしまうのもなんか嫌だ。

 淡々としばらくは先輩の指示に従いながら、言われたものを用意して先輩に渡す作業を繰り返す。そのうち、先輩は少し残念そうな顔で溜息を吐いたのに気付いた。

「桐川君は残念ね、こんな時にぴったりな歌があるのも知らないなんて」

 先輩はそう続ける。

「……歌?」

「そう、歌よ」

 先輩は小麦粉を振るいながら、透き通るような囁く声で歌い始める。


 ぼくらのなまえはぐりとぐら

 このよでいちばんすきなのは

 おりょうりすることたべること

 ぐりぐらぐりぐら


 余りに小さい声で、耳を澄まさなければ聞こえない気がして、少しだけ体を寄せて、その歌を聴いていた。子どもの合唱がよく似合うメロディーだと思った。

「覚えた?歌えるかしら」

「無理っす、音痴なんで」

「あら、ぐりとぐらは二匹組なんだから、2人で歌わないと」

「……どちらにせよ覚えてないんで」

「あら」

 くす、と口元に手を当てると、なぜか先輩は小さく笑っていた。

 そうしている間に先輩は手際よく、小さな調理スペースでも器用に生地を作り上げてしまう。俺はと言うとこれがまあ、なかなかどうしてうまく行かず、たった30mlの牛乳を計ろうにもこぼしてしまうありさまで、これが自分の不器用さによるものなのか、はたまた別の原因があるのかよく分からないままであった。

 出来上がった生地をバターを塗ったスキレット鍋に流し込み、予熱されたオーブンの中にミトンをつけた先輩が押し込む。

 遠赤外線のオレンジ色に染まったオーブンレンジの中。じわじわと生地が焼けていく様子を、二人並んで見守る。背後からは煙草の匂いが漂う。じっと見守っていると、やがてタイピングの音が止まり、プリンターから紙が吐き出される音がした。

「二人とも~、ちょっと僕、職員室行ってくるから~。焼けるまでには戻ってくるからよろしくね~」

 三谷先生が司書室の重い扉を開いて出て行っても、先輩はただ、じっとオーブンを見つめている。

 じっと。

 じっと。

 じっと。

「……あと10分、ッス」

 その沈黙に耐えられず俺がオーブンに表示された残り時間に目をやって、報告する。

「ええ、あと10分」

 先輩もデジタル表示のタイマーを一瞥し、俺たちは焼き上がりを子どものように肩を並べて待っている。考えてみれば、それ以外にやることもないから。図書室のカウンターには誰も来やしない。先輩の大好きな本は、別に他の誰もが好きではない。閑古鳥が鳴く図書室には、また俺たちだけしかいない。

「ぼくらのなまえはぐりとぐら」

 先輩はまた、不意に口ずさみ始めた。続きは?と催促するように、オーブンから隣にいる俺に視線を移す。

「……このよでいちばんすきなのは」

「!」

 合っているかよくわからないうろ覚えの旋律を口ずさむ。さっきは拒絶してしまったが、今なら歌える気がして。先輩は柔らかく表情を崩しながらにっこりと笑って続きを歌う。

「おりょうりすることたべること」

 そこまで歌って、また沈黙する。今度は続きの催促ではなく、単純に考え事をしているようだった。

「ぼくらのなまえは、つじと、きり」

 しばらくして先輩は口を開くと、そうやって俺たちに置き換えてまた歌い始める。

「このよでいちばんすきなのは?」

 俺もその続きが聴きたくて、不意に続く歌詞を口ずさんだ。

「……何かしらね。見当つかないわ」

「言い出しっぺが折れないでくださいよ」

「お生憎、私も桐川君も、お互いのことをまだよく知っていないのよ。私は、桐川君が何が好きなのかすら知らない」

「……確かに」

「桐川君は、私のすきなもの分かるかしら」

「……本、くらいしか」

 その返答を聞いた先輩は、眉を顰めて少し不服そうな顔を向ける。

「つじ、きり、つじ、きり」

「それ、物騒なんでやめましょう」

 歌のオチがまさか通り魔を連想させることになるとは。

 先輩は歌い終わって満足したのか、またオーブンに向き直る。室内に充満した煙草の臭いをかき消そうかというほど、甘い匂いが司書室に漂っていて、すこし心地よい。あと5分で焼きあがる、蜂蜜味のカステラ。

「桐川君のこのよでいちばんすきなもの、教えてほしいわ」

 甘い匂いに脳が焼ききれそうになりながら、俺はこの世で一番好きなものについて思考を始める。

 思考しようとすると、思考がストップして、その繰り返し。好きなもの。一番好きなもの。愛おしいもの。愛しているもの。そんなものが俺にあるだろうか?

「……わっかんない、ッス」

 オーブンのタイマーが残り2分を指したころ、ようやく絞り出すように声をあげる。その返答に、今度は「そう」と一言だけ呟いて、今度は微笑んでいた。

「じゃあ、桐川君のすきなものをそのうち見つけましょう」

「別に、そこまでしなくていいっすよ。俺の人生なんで」

「好きなものがあるから生を謳歌することができると思うの」

「……そんなもんスかね」

「友達のいない桐川君には、そういったことも気づけないのでしょうけど」

「さらっと痛いこと言わないでください」

 俺が不服そうに先輩の方を向くと、目が合って、それがどうもおかしくて。お互いに目を細めて笑ったところで、オーブンのブザーが鳴った。

「……超上手くできたんじゃないスか、これ」

「どれ」

 先輩はミトンをかぶせてスキレット鍋の手持ちを掴むと、鍋敷き代わりの古新聞に置いた。焦げもなく、上手く焼き色のついたカステラがその中にあり、俺は思わず垂らした涎をすする。

「先生、帰ってこないわね」

 先輩はできるまでには帰ってくる、と言った三谷先生のことを慮っていた。

「……いいでしょ、先に食べて」

「駄目よ。匂いにつられてきた動物たちみんなにぐりとぐらは分けてるのよ。先生だけ渡さないなんて」

「冷めちゃうのももったいない気が」

「桐川君って、食いしん坊なのね」

「そういうわけじゃ!」

 俺もどうして思いやりのないことを言ったのか、よく分からなかった。卑しい人に思われたかもしれないと、俺は赤面し、先輩より先に片づけに手を付ける。

 程なくして先生がかえってきて、下校前にきっちり3等分して食べたのだが、この日食べたカステラは、今まで人生で食べたどのカステラよりも甘ったるく、本当は誰にも渡さず、俺だけで全て食らいつくしてしまいたいたかった、と帰り道、思った。

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