猫2

「桐川君は楽器なんて演奏したことないのかしら。」

 先輩は文庫本を脇に置くと、向かいに座る俺に視線をやる。肘をついて指を組み、その上に顎を乗せて、じっとこちらを見やる。

 俺はと言うと今日は左足の小指を怪我して早退した司書の代わりに、図書室新聞用のイラスト素材をハサミで切りぬいているところだった。昨日は左足の薬指、一昨日左足の中指。明日はどこを痛めるかが最早楽しみになってきた。

「無いっスね、楽器はおろか、家族みんな音痴ッス」

 俺は何一つ家族に忖度ない想像を先輩に教えてあげた。そう、音楽に関しては全く素養のない家族だ。万年オール5を身の上にしている兄ですら、音楽の授業は苦労している。母親は演歌を口ずさんでいると思えば宇多田ヒカルだし、父親に至っては鼻歌すら聞いたことがない。もっとも、鼻歌を歌うほどゴキゲンな時があるのかと言うと、それはまた微妙ではあるが。

 桐川家で唯一歌えそうなのは妹くらいだろうか。妹が歌っているところを見たことはないが、うちで娯楽に興じているのは彼女くらいだ。流行りの音楽を聴いたり、休日に友達と遊びに行ったり。きっとカラオケもその遊びのうちに入っていることだろう。歌の実力は未知数ではあるが、きっと我が家の誰より上手い。根拠はただの想像である。

「そう、習い事もしてなかったのね」

「全くッスね。勉強しかさせてもらえなかったッス」

「それで、その成績なのね」

「……まあ、それは、はい。その」

 桐川家の失敗作と言っても過言ではない俺である。言葉は時に人を深く傷つけるが、傷ついたからと言って先輩に反論する気にはならなかった。

 突き付けられたところで毒にも薬にもならない正論、事実。ギターのイラストを切り抜きながら、溜息でも吐きたい気分になりながら、粛々と受け止める。

「図書館新聞、今月の特集は?」

「読んだことない本ばっかッスけど、音楽に関係する小説の特集みたいッスよ」

「へえ。例えば何が紹介されているのかしら」

「ええと……『セロ弾きのゴーシュ』、『蜜蜂と遠雷』、『階段途中のビッグノイズ』、『くちびるに歌を』……って書いてあるッス」

 先輩はぺたんと体を机の上に倒して、頭をもたげる。気だるげにこちらに顔だけ向けると、くすっと笑った。

「ゴーシュだけ仲間はずれね」

「そうなんですか?」

「ええ、ゴーシュだけ書かれた時代が違うし、動物と話すようなファンタジーな毛色だし。選んだのは1人なのかしら?」

「いや、原稿は図書委員の持ち寄りッスよ」

「あら。一人で書いてるのだとしたら嫌に歪だと思って」

 ギターの次は合唱している学生のイラスト素材を切り抜く。図書館に他に人影はいつものように無く、時間をただ持て余しているだけなので、無駄に白の余白を残さない丁寧な仕事を心掛けていた。

「それ以外の本は結構最近流行りというか、学生によく読まれるタイプの小説ね。映画化したり、マンガになっていたり、メディアミックスも豊富で」

「はあ」

「まあそれを言えば、ゴーシュもアニメになっているわけだけれど」

「へえ」

「……興味なさそうな反応するのね」

「集中してるンスよ。余白を一ミリたりとも残したくなくて」

「そう」

 傍から見れば切り絵師のように見えるだろうか。紙を切るのに集中しっぱなしの俺に愛想を尽かしたのか、先輩は体を起こし、再び文庫本に向き直った。

 合唱団の次はグランドピアノ、そして最後は……。

「……なんでセロ弾きのゴーシュなんスかね。チェロ弾きじゃなくて」

 タイトルだけ聞いたことのある物語。小さいころに覚えた違和感を、先輩にぶつけてみた。

「昔はそう言われていただけの話じゃないかしら。福沢諭吉もイギリスのことをエゲレスと呼んでいるけれど、今は皆エゲレスとは言わないでしょう」

 先輩は今までの人生で聞いたこともない単語を投げやってきた。

「そんなもんスか」

「そうよ。アイスクリームはあいすくりんとはもう呼ばないし、もう『猪古令糖』なんて呼ぶ人もいない」

「ちょ、ちょこ?」

「セロとチェロも同じようなものでしょう。Celloって英語をそのまま読んだら確かにセロって言ってしまうわよね」

「…………」

 俺に学がなさすぎて、ついていけずに黙ってしまった。キャパオーバーになった俺を見て、先輩はなぜかすましたように再び文庫本へと視線をやり、顔を伏せる。

 「意地悪だなあ」と、一分の余白もなく切り終わったイラスト素材を前に、小さくぼやいた。

「これ、お土産。読んで頂戴」

 先輩はちょうど、最後のページを読み終えて、ぱたんと文庫本を閉じれば、俺の前に差し出す。

「お土産って、これ図書室の本ッスよ」

「ねえ桐川君、歌ってみせてよ」

「な……。図書館スよ。お静かに」

「どうせ誰もいやしないのよ。歌ってくれたっていいじゃないの」

「だから俺は歌が下手なんですってば」

「お願い」

「嫌ッス、もうそろそろ閉めますよ」

「……そう」

 先輩は残念そうな顔をして、帰り支度を始める。

「怒らないのね、桐川君は」

「はい?」

 スクールバッグを背負い立ち上がった先輩は、目線も合わせず淡々と呟く。

「怒ってもいいのよ、失礼なことを言ったのだから」

「別に、怒るほどのことでもなかったんで」

「そう言えるのは、すごいことだわ」

 別に凄いことではない。俺は、俺の人生を諦めているだけだ。

「でも、怒りが人を変える場合だってあるわ」

「…………先輩に怒って、どうするんスか」

「さあ。でも……一度、どうかするくらい怒りに身を任せてみるのも悪くないんじゃないかしらね」

 俺も立ち上がり、鍵を手に取る。図書室を出るなら一緒に出ようか、と隣に立ったが、先輩は「ん」、と顎で机上の切り取られたイラスト素材を指す。

 それをクリアファイルに入れ、司書室のデスクに置いて戻ってきたところで、先輩はもうすっかり帰ってしまっていて、俺は少し呆然としながら、妙な喉の渇きを覚えていた。

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