辻先輩の読めない感情
ひむかいはる
猫
「吾輩は猫である」
普段は真一文字に結んでいる唇を、少し突き出して波打たせている。
「名前は辻」
猫とは彼女自身だったらしい。
辻と書かれた名札を豊かな胸に携え、長い髪をかき上げると、組んだ指の上に顎を乗せ、こちらの様子を窺っている。さながら、ドヤ顔。
6人掛けのテーブルに、俺たちは向かい合って座っている。時刻は午後5時を回り、室内は夕陽の橙色が堂々と浸食を始めている。向かいに座る彼女──辻先輩の瞳が輝いているように見えたのは、衣替えをしたばかりのネイビーのセーラー服が蛍光灯の薄明りを吸い上げていたからだろうか。
俺はというと、体調不良(二日酔い)を理由に放課した瞬間にさっさと帰ってしまった司書先生が押し付けていった「『図書館だより』を三つ折りにする作業」を淡々とこなしているところだった。紙を折るなんて中学生の時に入院しているクラスメートに千羽鶴を折った時以来だった。自分が1羽をやっと折るたびに、隣の席に座っている女子は3羽折っていたし、クラスで一番カッコよかったサッカー部のエースがクラスで一番折っていた。天がもし二物を彼に与えるとしたら、サッカーと鶴を折る才能で二物にカウントしてほしい、と思ったものである。
そういうわけで、自らを猫と名乗るような素っ頓狂な自己紹介をされたのは、出来上がった折り目の合わない図書館だよりを重ねながら、自分は不器用だなあ、と思っていた矢先のことだった。
「名前あるんかい」
向けられた視線に気づき、一瞥ののち、そうツッコミをいれてまた手元に視線を戻す。
「そりゃ、名前くらいあるわよ。野良猫じゃあるまいし」
「そもそも猫じゃないでしょ先輩は」
「猫になりたい日もあるわ。桐川くんにはそんな日はない?」
「ないです」
あと200枚はあるだろうか。単純作業は苦手だ。読書と同じで。
「夢のない坊やね」
「暇なら先輩も手伝ってくださいよ、俺苦手なんですよこういうの」
A4の藁半紙の紙束を半分に分けて、先輩に差し出す。先輩は組んでいた指を離し、ふっと笑うと傍らによけていた文庫本を手に取り、ページを捲り始める。
「……手伝ってくださいよ」
「嫌よ、私猫だもの」
「猫は本を読まないんですよ」
「あら、でも読めるほどの教養がなければ、吾輩は猫であるだなんて自分を名乗らないわよ」
「あれは夏目漱石がそう言わせてるだけでしょ」
既に俺の指先からは潤いと言う潤いが全て失われており、オレンジ色の指サックを嵌めて作業に徹していた。凡そ10代の指先ではないというべき程カサカサだ。
「夏目漱石を知ってるなんて、博識なのね」
先輩は知らない文庫本に目を落とし、僕に一瞥もくれないまま揶揄い、ページを捲る。溜息を一つ吐いた。
「夏目漱石くらい流石に知ってますよ、いくら馬鹿でも」
「図書委員なら、常識じゃないと困るわ」
図書市内はお静かに。囁くような話声の中に、ページと藁半紙とが捲られる音が響く。下校時間も近く、吹奏楽部が今日の仕上げと言わんばかりに、気合の入った合奏の音色が校舎を満たすほか、俺たち以外の気配はなかった。
黙々と辻先輩が相変わらず何かよくわからない本を読み耽り、俺もあと100枚を切ろうかというところまで淡々と折り続ける。てってれれー、てんてん。宝島が小気味よく終わったところで、また先輩は頭をもたげてこちらを見やる。
「ねえ、桐川君は……お酒は好きかしら?」
「いきなり何言ってるんですか、飲んだことないです。未成年ですし」
「そう」
「先輩は……」
「好きじゃないわ」
「飲んだこと、あるんスか」
「一度ね」
文庫本を脇に、頬杖をつきながら言葉をつづける。
「酔うなんてことができたら、きっと幸せなんでしょうね」
「あと2年もしたら、否が応でも飲めるんじゃないですか」
「嫌よ。お酒は飲まずに酔いたいの。私は」
「無理っしょ」
俺は嘆息して、ふと脇に目をやると、もう紙束はいつの間にやら数枚の紙へ変貌を遂げていた。あと少しやってしまえば、晴れて家路へ向かうことができる。
「あら、お酒は飲めなくても酔うことくらいできるわ」
「乗り物酔いとかなしですよ」
「そういうのじゃなくてね……」
宝島と入れ替わるように、校内放送のトロイメライがスピーカーから響き渡る。
「心酔、と言うでしょう。酒に酔うのはアルコールに心身を支配されること」
「はあ」
「何かに心身を支配されるほどに、捧げてしまえたらいいな、と思うの」
500部は折っただろうか。テーブル一杯に三つ折りの藁半紙が重ね、並べられている。腹いせに司書の机に全部おいてやろう。散らかった机がさらに散らかってしまうように。
俺がそれらを纏めて持ち上げた時、先輩も帰り支度を始めていた。
「手伝ってくださいよ」
「嫌よ、私猫だもの」
「全く……」
独りで折ったそれらを独りで段ボールに整理して並べ、独りで司書室へ運ぶ。全て独り、独り。
「今日四ツ谷先生もういないんで、もう鍵閉めますよ」
「ちょうど帰るところだったの、構わないわ」
「借りるものは?」
「今日はいいの」
「さいですか」
消灯を確認。司書室と正面の入り口の鍵を閉める。重たい金属音が寂しく響いた。
「ねえ、桐川君」
薄暗い廊下で、先輩の囁くような声が聞こえた。
「なんですか」
「酔ったところで私は、溺れ死んでしまいたいわ」
「嫌なこと言わないでくださいよ」
また何か言い始めた。眉を顰めて俺はまた先輩をしっかりと視界に捉える。
「それこそ幸福なんじゃないかとおもうの」
「死んで幸福なんてないでしょ」
「酒に溺れて死ぬつもりなんてないのよ」
「そうでなくても死ぬなよ」
「唯、溺れ死ぬのは悪くないと思うの、私は、名のある猫だから」
薄暗いのでよく顔は見えなかったが、おそらく、ドヤ顔である。
教養がない俺には、彼女が何を言いたいのかさっぱり分からなかったが、そもそも難しすぎて誰もこの人のことを理解できないのだ。
「自殺こそが最も賢い行為だとは思わないけど……ふふっ、溺れ死にたい」
「死ぬなっつーの、じゃあ俺も猫だけど死なない、死なないからアンタより賢い」
よく分からないノリで俺も猫になってみたら、先輩は尚、満足げに笑っているようにも見えた。
それ以上、何も問い詰めることはしなかったが、先輩があんなに笑っている顔を見たのは、初めてだったかもしれない。
「死んで太平を得る前にね」
やっぱりよく分からない言葉を残して、控えめに手を振る。俺が事務室に鍵を返している間に、先輩はとっくにいなくなってしまっていた。
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