幻
「桐川君も、いつかは真面目に仕事をする日が来るのよね」
「はあ」
気の抜けた返事しかできない、そんな問いが先輩から投げられた。
「そりゃいつか。勤労は国民の義務ですよ」
「よくご存知ね」
「5限、公民だったんで」
別に憲法を学んだわけではなかったが、記憶の片隅から国民の三大義務のうちの一つを引っ張り出した。
「他2つは何かわかる?」
「納税、教育……を、受けさせる、でしたっけ」
「ご名答」
先輩はいつものように肘をテーブルに乗せ、指を組み、顎をその上に預けてこちらを覗き込む。なんかアレみたいだよな、エヴァの。と、思っていたけど、あの人は別に顎を乗せているわけではなかった。ただ口元を組んだ指で隠しているだけ。
文庫本を脇に寄せ、今日はこれだと読書を一度放棄する姿勢を見せる先輩は、俺が正答を突き出したのに満足そうにしているように見えた。
「あまり見くびらないでもらえますか」
「あら、桐川君って授業も真面目に聞いてないうえ、友達もいない学校に居場所がない子だと思ってた」
「ひどい言われようだ。別に勉強はできない……わけでもないし、クラスに友達は………………いないことはないッスよ」
「そう」
定期考査の点数や、友人としてカウントしていい人間がいるかを考える間があったことを見透かしたような微笑みを先輩は浮かべる。
「逆に先輩はどうなんですか。勉強はともかく……。友達なんていないから、毎日図書室に来てるんでしょ」
自分の中でひり出せる最大級の悪口を言ってみたが、
「そうよ、何か問題ある?」
「開き直られるとどうしようもないです」
あっさり轟沈した。
「第一、学校で友達を作る必要なんてないと思うわ。かの太田光だって高校時代は誰とも会話せず3年過ごしたって言うもの」
「太田光って、爆笑問題のですか」
「そうよ」
「……先輩って、テレビとか見るんですね」
「テレビは見ないけれど、まあ、あの人も本を出しているし、何冊か読んだわ。ラジオも多少聴くし」
「意外でした。お笑いとか興味ないのかと」
「あの人も大層な本読みなのよ。そのよしみね」
そう言うと先輩は、すました顔で一つ息を吐いた。
「そんな私に毎日付き合ってる桐川君も、やっぱり友達がいないんじゃないかしら」
「うるさいな」
痛いところを突かれた気がして、思わず立ち上がってしまった。返却済の図書の山と向き合う。先輩は俺を引き留めるわけでもなく、微笑みを口元にたたえながら、傍らの文庫本を持ち上げ、読書へ戻った。
仕事、仕事なあ。進路すらもままならないのに。自分の頭がよくないことは何となく自覚しているし、高2の秋にして、これでは行きたい大学に行けないぞと担任に言われたのは先週の話だ。そもそも行きたい大学なんてないし、大学で何を勉強したいだなんてまだ見当もついていない。親に言われるまま、ただ何となく大学に行って、ただ何となく就職する腹積もりでいるわけだが、そうやって就職して、独りで生きていける気もしない。
出来の良い兄は学のない俺でも知っているような名のある大企業に就職して、結婚だってしている。彼はこういったぼんやりとした不安を抱かなかったのだろうか。いや、抱かなかったに違いない。彼ほど不安と挫折と無縁の人生を歩んでいる人を知らないから。
いつも見下されてるように思える。出来の悪い弟だから。未来に向けて確固とした意志などない弟だから。そういった意識が俺に対する言動に現れている気がする。
……否、そういう風に受け取って嫌な思いをするのは、俺にも「このままじゃダメだ」なんて気持ちが心の片隅にあるからなのではないだろうか。つくづく、中途半端で嫌な人間だな、と思う。
ブックフィルムに覆われた本のバーコードの上にリーダーを滑らせる。ぴっ、ぴっ、と無機質な音が鳴る。返却処理が進んでいく。小さいころ、こういう仕事にあこがれたこともあったな、と思った。母親の買い物についていったとき、なんだか強そうな赤いビームを出している機械に触ってみたい、なんて思ったことがあった。ただレジ打ちをしているだけなのに。今ではこれを仕事にしたいわけじゃないな、と思ってしまう自分もいて、それもまた自己嫌悪であった。
「ねえ」
不意に声を掛けられてはっとして顔を上げると、一冊の絵本を持った先輩が目の前に立っていた。
「これ、借りたいのだけれど」
「びっくりさせないでくださいよ」
「ふふっ、ごめんなさいね。驚かせるつもりはなかったの」
辻柘榴、と書かれた図書室利用カードと、バーコードの貼られている裏表紙を表にした絵本をカウンターにそっと置くと、こちらにふっと微笑みかけた。自己嫌悪を、少しだけ忘れることができた。
「でも、珍しいですね。絵本なんて」
「あら、私は雑食だもの。ちょうど爆笑問題の話をしたから、読みたくなったの」
「へえ……」
中身にあまり興味はない。まして、絵本なんて子ども向けのものであるなら、尚更。と、ぼんやりとした思考の中、バーコードを読み取ると、端末の画面には『マボロシの鳥』、と表示された。
「はい、どうぞ。返却は2週間以内に」
「ありがとう。ねえ、桐川君……幸福って、なんだと思う?」
「……なんでしょうね、パッと答えらんないですけど」
「そうよね。私も意地悪な質問をしてしまったわ」
整理されて空いたスペースが十分にあるスクールバッグにその絵本を押し込むと、先輩はそれを背負って帰り支度を完了させていた。
「幸せとは、富や名声を得ることだけではないのよ。きっとね」
「はあ」
「私も君も、友達はいないけれど。世界は誰かと否応なしに繋がっていると思うの」
先輩は少し目を輝かせているようにも見えた。下校時間を知らせるトロイメライが、校内放送のスピーカーから響く。
「厄介で、面倒で、ドタバタした世界でも。繋がっていたいと思える人がいる世界は、きっと幸せよ」
先輩の後ろには珍しく別の生徒が並んでいて、その言葉の意味を知るに至れないまま、図書室を洋々とした足取りで出ていく先輩を見送ることしかできなかった。
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