第2話
彰子はコロナが流行し始めの頃は外へ出る時は注意を払いビクビクしていた。そこら中にコロナウイルスが隠れているような気がした。出かけるときはスプレー式の携帯用消毒液と除菌ティッシュを持っていく。外出から帰宅すると、まずハッピーバースデイの歌が終わるまで石鹸を泡だてながら手を洗う。そして液体の口腔うがい薬でガラガラとうがいする。そのお陰か冬になると風邪をひいていたが、今年は風邪をひかなかった。
美容院へは行く気がしなかった。しかしそうとも言っておられないので、彰子は意を決して恐る恐る美容院へ行った。美容院ではまず手の消毒をしてから、どうぞと中へ入れてくれる。そして美容院で用意したマスクを渡される。自分のマスクはバックに入れ、用意されたマスクをする。これは美容組合の決まりだそうだ。意外に客が多かった。美容院の店主や従業員たちは今までどうりの明るさで接してくれる。最初は店の人も会話をしないよう気をつけて静かだったが、慣れてくるとマスク越しであるが話しかけてくる。大丈夫かなと心で思いながら会話をする。一度行ってしまうとあとは平気で行くことができるようになった。
気晴らしに散歩をするようになった。彰子の家の前の通りと車の通る大きな通りの間には、たくさんの細い道が迷路のように入り組んでいる。あるところは三叉路になっていたり、あるところは五差路になっていたりで、京都の碁盤目に並んだ通りのように規則的には並んでいない。散歩していても同じ道に出会うことは殆どなく、こんな道があったのかなと思うことが多い。こんなところにラーメン屋さんがある。こんなところに喫茶店がある。と発見するのだが、再び行こうとするとたどり着けない。不規則な小さな道が網の目のように交差している。方向音痴の彰子には迷路のように思われた。昨日と同じ道を歩いているつもりでも違った道を歩いている。
彰子はコロナ感染を恐れて始めの頃は、喫茶店もラーメン屋も行くのを躊躇った。一人で最初に入るのには勇気がいる。意を決して恐る恐る行ってみると慣れてしまい、一人で食事をしたりする分にはあまり危険ではないと思うようになり、気分転換に行くようになった。
ラーメン屋さんは店の入口に消毒液の入ったポンプ式のボトルが置いてあるだけで無造作である。中へ入るときに消毒しない人がいるかも知れないと思うと不安である。狭い店内にはすでに客が三人入っていた。彼らは食べながら大きな声で話しをしている。大丈夫なのかなと思いながら彼らに背を向けてカウンターに一人で座る。意外にラーメンは美味しかった。つゆは濃いだしがきいていて美味しい。ラーメンが美味しかったから別の日にもう一度行こうとしてもなかなかそのラーメン屋さんにたどり着けなかった。
彰子は喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読むのが好きだ。コロナが流行しだしてから喫茶店も避けていた。しばらくすると喫茶店にも入って見ようかという気持ちになった。外から中の様子が見える喫茶店は入りやすい。暗くて中がわからない店は入るのに勇気がいる。
彰子は大きな通りに面した喫茶店に入ってみた。ドアが黒いガラスで、外からは暗くて中は見えない。中に入ると喫茶店のマスターらしい男性が大きな声で「いらっしゃい!」と迎えてくれた。昔風のソファのようなビニール張りの椅子の前に透明な低いテーブルがあった。店の中は広くはなくて四席くらいしかない。すでに客が二つの席を占めていた。奥の席には四人が座って賑やかに話をしていた。マスターも彼らと大きな声で話をしていた。彼らは常連らしい。マスターの奥さんらしい女性も会話に加わって冗談を言い合っている。客の一人がどこかへ行ってきたからか、お土産らしきものをマスターに渡していた。ここではコロナはどこ吹く風である。彰子は常連の多いこの喫茶店では自分が部外者のような気がした。静かに本を読む雰囲気ではない。淋しいときは話ができると嬉しいのでこういう喫茶店が良いのかも知れない。人間は勝手なものだ。
駅の改札の前にある喫茶店は明るくて中が全部見え、入りやすかった。中へ入りレジで欲しいものを注文してお金を前払いする。水はセルフサービスでコップに入れ自分の席に着く。テーブルの中央には感染予防のために透明なアクリル板が立ててある。コーヒーはサイホンでその都度入れてくれるので、割と美味しい。コーヒーができると「できました」と店員が言うので、自分でコーヒーを取りに行き、入れたてのコーヒーを飲む。店員はほとんどが若いアルバイト風の人たちで、私的な話をすることはない。気楽にゆっくりと本が読める。客も多くなくて感染の可能性も低いだろう。
今まで仕事中心の生活で忙しくて関心がなかったが、彰子はインスタグラムを始めた。アカウントを取得し、今まで写していた写真や散歩で見つけた花などの写真をアップした。主に花や鳥や山などの風景の写真である。
インスタを始めてから「いいね!」の投稿が時々来るようになり、コロナで閉塞した生活に明るいものが訪れたような気持ちになった。ほとんどの投稿には返事を書かなかった。しかしメッセージが来ると、どんな人だろうか、とかこんなことを考えているのか、などを知ることができ、楽しみになった。ある日英語のメッセージが来て驚いた。外国の人が私のインスタを見ているとは。彰子は仕事で英語を使っていたので、簡単な英語の読み書きは苦痛でなかった。外国人のメールは彰子にマルセルを思い出させた。
――大好きだったマルセル。マルセルとは出張でフランスに滞在していた時に仕事で知り合ったの。マルセルはフランス人だったけれど、髪の毛は黒くて目の色も黒かった。人懐っこい暖かな目だった。仕事で彼は日本へもきたわ。人との付き合いが友好的で人当たりが柔らかく安心感があった。彼は当時のわたしと同じく四十歳くらいだったけれど、すでにAIの業界では名の知られた存在だった。
マルセルはとても優しかった。彼と一緒にいるといつも心地よかった。面白かった。微かな良い香りがした。香水をつけていたの。
ある朝、彼は会社でわたしの部屋へ飛び込んできた。自分の部屋で香水のビンを落として、部屋中に香水が散らばり、匂いが充満し大変だったと面白おかしく話した。そして自分が香水くさくないかと尋ねた。その話す様子がおかしくてしばらく笑いがとまらなかったわ。
マルセルと二人になると彼の雰囲気に引き込まれ恋の虜になってしまう。マルセル、あなたが好き、なぜなら人間的だから。あなたが好き、なぜなら少年のような目をしているから。あなたのことを考えると胸が熱くなる。私はあなたのために生きたいと思った。
彰子は自分のインスタへ来た英語のメッセージに何かしら久しぶりに期待で胸のときめくのを感じた。どんな顔の人だろうか。どこの国の人なのか。その人からのメールが待ちどうしかった。それは彰子が昔マルセルからのメールを今か今かと待っていた頃を思い出させた。インスタには鳥の写真とか花の写真についての感想が英語で書かれていた。いつもは返事を書かないのだけれど、書きたくなり、返事を送った。するとすぐまた返事がきた。その早さに驚いた。
夕方に夕食を作るために台所に立つ。窓から見える次第に暗くなっていく夕焼けの空を見ると、彰子は淋しさを感じた。西の夕陽を反射して東の雲が薄赤く染まっている。なぜこんなに淋しいのか。料理をしながらマルセルを思い出した。
ーマルセルは料理が上手だったわ。マルセルは、日本に仕事で滞在していた時、会社が借りたアパートで一ヶ月ほど暮らしていた。そこで彼は自炊をしていたの。日本語のできないマルセルのために買い物を手伝ったわ。油はオリーブオイルを選ぶかと思ったら、グレープシールドを選んだ。マルセルは買い物のお礼に夕食を作ってくれ一緒に食べた。とても嬉しかった。彼はメイクイーンにするか男爵にするかジャガイモの種類にこだわった。「今日の料理でジャガイモの選択を誤った」とマルセルは後悔したこともあった。彼の料理にはフランス料理らしくいつもソースがついていた。
日本の食べ物も大好きでラーメンを美味しい美味しいと食べ、つゆは全部呑んでしまったわ。
――退職してから節約のために、彰子は自分で洗濯をするようになった。セーターなどは自分で洗濯した方がクリーニング店に出すよりも綺麗になることを知った。セーターやシャツの首の部分の垢による汚れはクリーニング店ではおちないが、汚れたところを洗剤に浸して手洗いするとずっと綺麗になる。しかしアイロンの仕事が面倒である。特にシャツはアイロンをかけないとシワが目立つ。アイロンをかけるようになってマルセルを思い出した。マルセルと知り合った頃、彰子は自分で洗濯をすることはなくブラウスもカーテーガンもセーターも何でも、クリーニング店に出していたので、マルセルが何故そんなにアイロンかけを気にしているのか分からなかった。
――マルセルはいつも「アイロンかけをしなければ、アイロンかけ、アイロンかけ」と騒いでいたわ。アイロンかけは彼のやらなければいけない大切な仕事だった。マルセルは自分で洗濯し、アイロンをかけ、なんでも自分でやっていたんだわ。
マルセルは自由だった。どんな女性の助けも必要なかったの。仕事も抜きん出て優秀で、家事も自分で行い自立していた。彼は自由で天真爛漫に生きていた。誰からも自由に。そしてわたしからも。
英語のメッセージを送ってきた外国人からラインを使っているかと聞かれた。彰子はラインをサークルのグループの連絡用に使っていた。使っていると答えるとラインでこれから連絡を取ろうとQRコードが送ってきた。QRコードを開くと外国人と繋がった。
外国人はとても喜んだ。
「ラインにつながってとても嬉しい。これからラインで写真も送れる。僕の写真を送るからあなたの写真も送ってくれませんか」
時を待たず彼から写真が送ってきた。
彰子は別に真剣に考えていなかった。彼はアメリカ人で名前はオリバー・スミスと名乗った。送られてきた写真の顔はいかにもアメリカ人というフランクな笑顔だった。
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