第5話 新たな神託
~アウリス、ギリシア軍の幕営~
「遠征軍の出発を遅らせる!?」
ペネロペウスは驚いてオデュッセウスに尋ねた。イタケーから3日かけた航海でようやくギリシア軍の集合地点にたどり着いたペネロペウスとオデュッセウスだったが、オデュッセウスは到着するなり出発を遅れさせなければいけないと言った。予定では3日後にはトロイアへ向けて大艦隊が出発する。既に出発の準備は整っており、今更予定を変えるなど無茶な話だった。
「ペネロペウス殿から今回の遠征軍に参加する英雄の名を聞きました。血の盟約に従った英雄の他にも、よくここまで集めたと感心するものです。しかし、どうしても仲間にしなければいけない英雄が欠けています」
「その英雄とは?」
「プティーアの英雄【不死の炎】アキレウス」
【不死の炎】アキレウスの名はペネロペウスも聞いたことがある。あらゆる戦いで傷一つ負わずに生還し、一人で数万の敵を打ち砕いたというがその姿は誰も見たことがない。この度の遠征軍の組織にあたって、【王の中の王】アガメムノンもプティーアに人を出しアキレウスを探したと言うがとうとう見つけられなかったという。そのことをオデュッセウスに話すと
「あの戦闘狂がこのような大規模な戦いに際して姿をくらますとは思えません。恐らくアキレウスの母親が彼の身柄をどこかに隠したのでしょう」
「オデュッセウス殿はアキレウス殿に会ったことがあるのですか?」
「ええ、4年前ですね。ミュケナイの艦隊をクレタ島で迎え撃った時に」
4年前のミュケナイ艦隊といえば、地中海の制海権を巡って北上してきたもののギリシアの本土に辿り着く前に姿を消していた。迎え撃つためにペネロペウスを始め多くの英雄が終結したが、結局現れなかったため、恐れをなして逃げたか嵐に巻き込まれたのだろうという話で落ち着いていた。まさかオデュッセウスとアキレウスによって滅ばされていたとは。
「アキレウスは戦いを誰よりも好み、不利な戦闘ほど燃え上がる英雄です。過保護な母親に義理を立て今は姿を隠しているようですが、見つけ出せば恐らく参戦するでしょう。ですがプティーアはここから船で2日かかります。どう頑張っても3日後の出発には間に合いません。遠征軍の出発はアキレウスの到着を待ってからにしましょう」
「待ってからにしましょうって……そう言ってどうこうなるものではないでしょう」
「わたしが【王の中の王】アガメムノン様に直接会ってお話しします。念の為言っておきますが、私が女だということは伏せておきなさい」
オデュッセウスがそう言うのでペネロペウスは仕方なくアガメムノンの元へオデュッセウスを案内した。ペネロペウスがアガメムノンの幕営に着き、護衛の兵士にオデュッセウスを連れてきたと言付けをすると二人はすぐに迎えられた。
アガメムノンの幕営には出発を前にして他にも多くの英雄が集まっていた。今回の遠征軍の総大将である【王の中の王】アガメムノン、その傍らにはヘレナの夫であり副大将を務める【天佑の王】メネラオス、他には剛力と俊足が自慢の【ピュロスの稲妻】として名高いアンティロコス、神をも恐れぬ蛮勇【勇猛の王】アイアース、弓の名手である【アルゴの神弓】ピロクテテス。英雄ではないがアガメムノンの横にはこの度の遠征にオデュッセウスの参戦が必要だと予言した神官パラメデスが控えていた。
艦隊の出発日も含めて多くのことはパラメデスの予言に基づき決定したという。アガメムノンもさることながら、このパラメデスも説得せねば、出発を遅らせることはできまい。
オデュッセウスはいつものローブにフードを被って顔を隠しアガメムノンの前に出た。王の前で顔を隠すのは無礼に当たるがオデュッセウスは気にもせずそのまま挨拶を述べた。
「イタケー王、ラエルテスとアンティクレイアの息子【勇気と智謀の英雄】オデュッセウス、盟約に従いただいま参りました。領内の揉め事により参上が遅れましたこと、深くお詫びいたします」
アガメムノンはペネロペウスが無事にオデュッセウスを連れてきたことに喜んだ。元々アガメムノンは傲慢な王として有名だったが、礼儀作法には頓着しない性格だった。
「オデュッセウス殿、3年前の婿選び以来ですな。神託によればそなたの知略がなければこの度のトロイア攻めはうまくいかぬと出ておる。その智謀をもってトロイアの盗人共を滅ぼさねばならぬ」
「そのことでございますが、トロイアを攻略するにあたり、必要な力があります。その英雄を呼ぶため3日後の出発を遅らせる必要があるかと」
オデュッセウスの言葉にアガメムノンの幕営はざわついた。神託による出発日を変えろというのだ。英雄の中にはオデュッセウスの言葉に気分を悪くしたものもいた。ここにいる英雄だけでは力が足りないというのだ。アガメムノンは傍らの神官パラメデスに尋ねた。
「パラメデス、出発を遅らせるのはどうだろうか」
「なりませぬな」
パラメデスはにべもなく返した。
「3日後の出発はご存知の通り軍神アレスの神託によるものです。出発をずらせば神の怒りを買い戦いは長引くでしょう。出発日を遅らせることはなりませぬ」
「パラメデス殿」
オデュッセウスはパラメデスに呼びかけると懐から袋を取り出した。袋には兜の刺繍が施されており軍神アテナをかたどったものだとわかる。
「神託は確かに大事でしょうが状況は常に変わるもの、新たな神託がもし下れば勿論それに従うのでしょう?」
「まあ……それは……」
オデュッセウスはフードから見えた口元を微笑ませ袋を掲げた。
「この袋は我が一族がその昔、軍神アテナより賜ったとされる家宝です。我が一族は重要な決め事をこの袋で占うことでそれを神託としてきました。ここはパラメデス殿と共に神託を賜りましょう。この袋の中に黒い石と白い石を1つずつ入れます。私がその中から1つ石を取り出し、白い石を取り出せれば出発日を遅らせ私が望む英雄を仲間に加える。黒い石であったならば予定通り3日後に出発しましょう」
それを聞いたパラメデスは笑顔で応じた。
「良いでしょう。ですが入れる石は私が選びます。手探りで形がわかるでしょうから」
「それで結構です。お互いにアテナのご加護があらんことを」
オデュッセウスはアテナの袋をパラメデスに渡すとパラメデスは席を外し石を入れに行った。するとオデュッセウスはペネロペウスを近くに呼び寄せ、そっと耳打ちした。
「パラメデスの後をつけ、袋の中に入れる石を確認して下さい」
「え? どういうことだ?」
オデュッセウスは察しの悪いペネロペウスに苛立ちながら再度指示した。
「あいつは恐らく2個とも黒い石を入れます。そうすれば私はどうやっても黒い石を引くでしょう」
ペネロペウスはようやく理解した。場の空気が味方していたにも関わらずパラメデスがあっさりこのような賭け事に応じたのは確実に勝てる算段があったからだ。
「わかった、パラメデスが黒い石を2つ入れようとしたらそれを止めれば良いのですね」
「話をちゃんと聞いて下さい。私は”袋の中に入れる石を確認して下さい”と言ったのです。それ以上でもそれ以下でもありません」
「え? でもそれでは結局黒い石を取り出すことになるのでは?」
「良いから早く行って下さい。約束したでしょう? 私の策に従うことと」
ペネロペウスは訳も分からず幕営を抜け出しパラメデスの後を追った。パラメデスは人気のいない所に着くと周りに誰もいないのを確認した上で石を拾い上げた。ペネロペウスは物陰に隠れながらパラメデスの手元を見た。かなりの距離があったがペネロペウスは目が良く、確かに黒い石を2つ入れたのを確認した。
パラメデスが幕営に戻ったのを見届けてペネロペウスも幕営に戻り、英雄たちをかき分けてオデュッセウスの元へ戻った。
「オデュッセウス殿、確かに黒い石を2つ入れておりました」
「ありがとうございます」
オデュッセウスは礼を言うとパラメデスの元へ歩み出た。パラメデスは自分で袋を持ったままだ。恐らく袋を取られればイカサマを見破られると思っているのだろう。このままオデュッセウスが石を取り出せば当然黒い石を取り出すことになる。それを避けるにはこの場でイカサマを糾弾するしかないように思えた。
だがオデュッセウスはそのまま袋に手を突っ込んだ。手を引き抜いた瞬間、あろうことかオデュッセウスは腕を振るうと、そのまま石を遠くに放り投げてしまった。ペネロペウスもパラメデスも周りで見ていたアガメムノン、メネラオス、その他の英雄たちもあっけに取られてしまった。
「ああ、失礼。手を滑らせてしまいました。これでは石の色がわかりませんね。でも良いことを思いつきました。袋に残った石を確認すれば良いのです」
オデュッセウスはそう言うと油断していたパラメデスからあっさり袋を奪った。
「この袋の中身が黒い石なら私が取り出したのは白い石ということになります」
オデュッセウスは袋から石を取り出した。当然ながら出てきたのは黒い石だった。
「どうやらわたしが最初に取り出したのは白い石だったようですね。アガメムノン様、神託が変わりました。私はすぐに出発して英雄を連れて参りますので、出発はそれからということでよろしいですね」
「あ……ああ、そうだな……」
勢いに飲まれたアガメムノンはあっさり承諾した。オデュッセウスは一礼すると幕営を後にした。ペネロペウスはあわてて後を追う。幕営を出たオデュッセウスはペネロペウスに愉快そうに笑いかけた。
「見ましたか、パラメデスのあの呆けた顔。自分で頭が良いと思いこんでいるやつを叩き潰すのは楽しいですね。貴方の考えている通りあの場でパラメデスを糾弾しても良かったのですが、時間がかかるのであの方法にしました」
ペネロペウスはオデュッセウスの知略に感服した。知恵の回らないペネロペウスは自分にない知略もそうだが、小さな身で英雄に囲まれながら自分の意見を譲らず押し通す勇気も大したものだと思った。【勇気と智謀の英雄】の二つ名通りの英雄だった。
「オデュッセウス殿、我らは義兄弟になりませぬか」
「は? どういうことですか?」
「私はオデュッセウス殿の勇気と知略に感服しました。約束通り貴方の策に従いますし貴方の身を守りましょう。生まれは異なりますが死ぬ時は共に在りたいと思います」
「わたしは女ですよ? 男と女で義兄弟の契りを結ぶなどと……」
「勇気と知略に女は関係ありますまい」
「強引なものですね……まあ【鋼の意志】というからにはわたしが何を行っても無駄なのでしょうね……」
オデュッセウスは先程の袋を懐から取り出すと袋の中に残った黒い石を取り出し短剣で2つに割った。
「この石を義兄弟の証として渡しましょう。この石がある限り我々は義兄弟として命を懸けて互いを守りましょう。ペネロペウス殿」
「オデュッセウス殿、義兄弟になったからには”ペネロペウス”で結構。”殿”は不要です」
「では貴方も”オデュッセウス”と呼んで下さい」
「ああ! オデュッセウス!」
ペネロペウスは大事そうに石を懐にしまい込んだ。
オデュッセウスは出発の準備を整えながら思った。ペネロペウスが義兄弟などと言い出したのには驚いたが好都合だった。これでペネロペウスは言うことを大人しく聞くだろうし命を懸けて守ってくれるだろう。知略には優れているがオデュッセウスは武芸は苦手だった。戦場の混乱に巻き込まれて命を落とさないとは限らない。盗賊団を一人で打倒したペネロペウスの武勇は頼りになる。それにしても”死ぬ時は共に在りたい”などというのは義兄弟というより夫婦の契りではないか……。
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