第3話 オデュッセウス立たず

~オデュッセウスの館~


 応接間も他の部屋と同様に汚れていた。【勇気と智謀の英雄】オデュッセウスを名乗る少女はほこりまみれの大理石のテーブルを適当に払い、グラスに酒を汲んで振る舞った。ローブは着たままだがフードは被らず長い銀髪を露わにしている。ペネロペウスはオデュッセウスが少女という事実に混乱したまま、それでも卓につき酒を飲んだ。


 オデュッセウスはテーブルの向かいに座ると自分のグラスに何やら粉末を入れ混ぜ合わせた物を飲んだ。


「オデュッセウス殿それは……?」


「ああ、これは蛇の毒腺をすり潰して乾燥させた毒ですよ」


「ど……毒!?」


「安心しなさい、貴方のには入っていませんよ」


「何故そんなものを……?」


「軽い毒を体に慣れさせておくことで体に耐性をつけるのです。ペネロペウス殿も試されますか?」


「いや……私は……」


 怖くなったペネロペウスは自分の残った酒を全て飲み干した。その様子を見たオデュッセウスは口元に手をあてけらけらと笑っている。銀髪碧眼の美少女が愉快に笑う姿にペネロペウスは顔を赤くしてうつむいた。本当にこの少女が【勇気と智謀の英雄】の二つ名を持つオデュッセウスなのか。


「確認します。貴方があの【勇気と智謀の英雄】オデュッセウス殿なのか?」


「ペネロペウス殿、3年前に我々はテュンダレオスの館でお会いしたではありませぬか」


 確かに目の前の少女は3年前に見たオデュッセウスと背格好も声色も似ていた。声はもう少し低かったかもしれないが。オデュッセウスはフードを目深に被り直した。


「世間には男で通しております。女ということで侮る者もいます。息子ができなかった父にあえてオデュッセウスという男の名をつけられこのように育てられました」


 フードを目深に被ったオデュッセウスは声を低くした。確かにこうして見れば男に見えなくもない。ペネロペウスは感心したところで自分がなぜここに来たかをようやく思い出した。オデュッセウスをトロイアへの遠征軍に迎えなければならないのだ。


「オデュッセウス殿、私がこうして来たのは先刻申した通りです。スパルタ王妃ヘレナ様はトロイアの王子パリスによって誘拐されました。3年前に交わした血の盟約に従い、既にギリシアの英雄たちが集まっております。どうかオデュッセウス殿にも参加して頂きたい」


「お断りします」


「なるほど、それでは……え?」


「お断りします」


 オデュッセウスはフードを取って顔を見せた。悪戯っぽく笑う姿は貴族の娘が求婚を丁重に断る様にも見えた。だがペネロペウスは断られたという事実を受け入れられずしばらくオデュッセウスの顔を見つめて呆けていた。その様子を見てオデュッセウスはまた愉快に笑い始めた。


「オデュッセウス殿、一体どういうことですか? そもそもあの盟約を言い出したのは貴方ではないか」


「あれはその場を凌ぐためにテュンダレオス様に策を出したに過ぎませぬ。まあこのような形になるとはわたしも思いませんでしたが。そもそもペネロペウス殿もこの度の遠征がうまくいくとお思いで? トロイアの城は強固にして我々は遠征の身、補給もままならぬのに一体どうやってあの城を落とすのやら、このオデュッセウス浅学にして策が思いつきませぬ」


「我々には主神ゼウスのご加護があります。ギリシアの英雄たちが集いできぬことなどありませぬ。そもそも勝つ勝てないの戦いではないでしょう!」


「第一にヘレナ様が誘拐されたというのもおかしな話。スパルタの城からかどわかされたといいますが本当の話でしょうか? 誰かが内側から手引したとしか思えませぬ」


「誰かとは……?」


「例えば……ヘレナ様御本人」


 その言葉を聞いてペネロペウスは怒りに震え立ち上がった。


「オデュッセウス殿は姉上がそのような方だと申すのか!?」


「ペネロペウス殿から見てヘレナ様はお幸せでしたか? 【天佑の王】メネラオス様は血統と財力はありますが武勇に乏しい凡夫。スパルタの王位につかれたのも正に”天佑”の賜ですが自身のお力ではありますまい。ああ、日が暮れましたね」


 ペネロペウスが外を見るといつの間にか日が暮れていた。イタケーで最も高いとされるニリト山の陰に太陽が隠れようとしている。


「オデュッセウス殿、3年前のあの日以来尊敬の念を深くしておりましたが噂に違う軟弱者でしたな」


 ペネロペウスは精一杯挑発をしたつもりだったが、オデュッセウスは気にした様子もなく


「ええそうですね、どうぞお引取り下さい」


 とにべもなく返した。


「【勇気と智謀の英雄】という二つ名は返上されてはいかがか。そもそも”智謀”の方もどうだか。今までの使者は何とか誤魔化せたようですが、このペネロペウスも騙しきれなかったようですな」


 ペネロペウスがそう言うとオデュッセウスの目の色が初めて変わった。今まで浮かべていた余裕の笑みは消え失せていた。


「……ペネロペウス殿、驢馬で轢き殺しても良かったのですよ」


 オデュッセウスはそれまでで最も低い声で呟いた。様子の変わったオデュッセウスにペネロペウスは多少たじろいだ。


「と……とにかく私は諦めませぬ。私の二つ名は【鋼の意志】。何としても遠征軍に参加して頂きます」


 ペネロペウスはそう言って席を立つと一礼してオデュッセウスの館を後にした。遠征軍の出発は1週間後、集合場所のアウリスまでは船で3日かかる。あと4日以内にオデュッセウスを連れていかなければならない。気を焦ったペネロペウスは港の宿に行く時間も惜しく、オデュッセウスの館の前で野宿の準備を整え、焚き火の近くで横になった。


 オデュッセウスを説得する妙案を思いつかずペネロペウスはうつらうつらとしていた。すると夜が更けた頃、何やら物音がして目が覚めた。起き上がってみるとオデュッセウスの館の前で人影が見えた。ペネロペウスの目が闇に慣れてくるとそれは盗賊のように見えた。夜になって門は閉じているが、盗賊はロープを使って門の向こう側へ行こうとしている。


 ペネロペウスは剣を取ると盗賊に向かって走り出した。盗賊はこちらの様子に気づくと短剣を取り出し向かってくる。しかし盗賊一人が英雄にかなうはずもない。ペネロペウスは剣を振るうと短剣はあっさり弾かれ盗賊の手を離れた。ペネロペウスは盗賊の首を掴んで持ち上げると、片手で地面に叩きつけた。


「盗賊よ、相手が悪かったな」


「え……英雄……」


 盗賊は息も絶え絶えにペネロペウスを見上げる。粗末な身なりに髭面だった。


「ここは英雄オデュッセウス殿の館だ。一介の盗賊ごときが押し込んで何をしようとしていた」


「……オデュッセウスは大量の財宝を溜め込んでいると聞いた。聞けばここ何ヶ月か姿が見えぬと言う話、噂を聞いた盗賊団のかしらが好機と思い、はるばるこのイタケーまでやってきた。俺がまず館の中を確認しその後仲間を呼ぶ手筈になっている。全て話したからこの通りだ……」


 盗賊は一気にまくし立てると頭を下げて命乞いを始めた。ペネロペウスは盗賊の様子を憐れみをもって見ていたがふと思い当たった。もしやオデュッセウスはこの盗賊を気にしていたのではないかと思った。


 ペネロペウスにはオデュッセウスが約束を違えるような者とは思いたくなかった。昼間に聞いた街の人々の話では、オデュッセウスの父は10年も前に他界しており、幼くして王となったオデュッセウスは父からの遺言を守り、このイタケーをあらゆる外敵から守ってきたという。もしやこの盗賊共がいなくなればオデュッセウスは遠征軍に入ってくれるのではと思った。


 ペネロペウスは命乞いをする盗賊を締め上げて尋ねた。


「大人しく言えば命は助けてやる。盗賊共の根城を教えろ」

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