初恋

「あー、いたいた。戻って来ないから心配したんだよ」


「彌富、さん……」


 駆け足で僕の隣に来ると、そのまま並んで彌富も頬杖をついた。二人きりで話すなんてことは初めてで、頬に触れている指に自然と力が入る。


「こういうことするから、疑われるんだぞー」


「いいんだよ。それで場が治まるなら」


「根本的な解決にはならないでしょ。結局財布は、鈴木さんの鞄の中だったわけだし」


「ま、そうだな」


「違うなら違うって言えばいいじゃん。そうしたら、もっとフォローもしやすいのにさ」


 まだ少し怒っている声で彌富はそう言った。


「――なんで僕が犯人じゃないって思ったわけ。そんなに彌富、さんと仲が良いとは思ってないんだけど」


 そう。僕は誰にだって一定の距離を保つようにしている。それは人気者の彌富華弥も例外なくだ。


 彌富でいいよ、と言って彼女は笑い、視線を空に向けて言葉を続ける。


「うーんとね。だって速水君、本当はすごく優しくて真面目でしょ? 他の子とつるまないのもきっと理由があるんだと思うし、ああいう時に癇癪をおこさないところは大人だなあって」


 そう言って彌富はゆっくりとこちらを向いた。目が合うと、彼女は首を傾けて小さく笑う。


 彼女はいま何を思い、そんな顔をしているのだろう。悲し気に見えるその笑顔が妙に気になった。


「それとね。一緒のクラスになってまだ三カ月くらいだけど、私が見た君はそういう人だと思うから」


 そう言ってから彌富はニッと笑う。それはさきほどのとは違う太陽のような眩しい笑顔だった。その笑顔に思わず頬が熱くなる。


「――そっか」とぎこちなく返すと、


「うん、そうだよ」


 彌富は笑顔のままでそう言った。


 そんな彼女に、僕もつられて笑顔になっていた。


 彼女は――彌富だけは、他のクラスメイトたちと違う目で僕を見てくれているのかもしれない。


 そのことがただただ嬉しかった。自然な僕を受け入れてもらえたような、そんな感覚だった。


「んじゃ、教室戻ろう。みんなは相変わらずだろうけど」


 彼女の語尾に怒りを感じたのは、やっぱりさっきの教室でのことをまだ怒っているからかもしれない。


「ありがとな彌富。僕のために怒ってくれて。でも、もう大丈夫だから。僕、そんなに気にしてないよ」


「速水君が良くても、私が嫌なの! だってひどいよ。さんざん速水君を責めてたくせに、コロッと忘れちゃってさ」


「本当にもういいよ。僕は空気でいることをモットーにしているんだからさ。このまま沈静化してくれるほうが助かるし」


 いつまでも僕のことで彼女が悶々とするのは、なんだか申し訳ない。それに、僕はもう教室でのことはどうでもいいとすら感じていた。


 今回の件で、彌富の優しさを知るきっかけになったのだから。


「そうなんだ。……うん、わかった。速水君がそれでいいなら。でも、また同じことがあったら、ちゃんと否定してよ? 何があっても、私がフォローするからさ」


「あ、ありがとう……」


「友達のためだあ、当然だよ」


 そしてこの一件以降、僕は彌富を目で追うようになった。


 なぜそうするようになったのか。その理由を僕も初めはすぐに気がつかなかったが、彼女と二人で過ごしているうちに、ようやくその理由に気付く。


 僕は彼女に恋をしているんだ、と――。




 財布紛失事件から数ヶ月が経過し、季節は秋に変わった。


 ――彌富はいつも明るく、誰にでも優しい。


 彌富を目を追うようになってすぐの頃は、ずっとそう思っていた。


 しかし、彼女はたまに楽しそうにしている笑顔の裏でつらそうな顔をしたり、何かに怯えていたりしている一面があることを知った。


 もしかしたら彌富のあの明るさには、何か裏がなのかもしれない。


 いつしかそんなことを思うようになった僕は、ある日の放課後、彼女に直接きいてみることにした。


「なんだか彌富、たまに無理してない? 笑顔が引きつっているって言うか……笑いたくないのに笑ってるように見える」


 校舎外の渡り廊下は、初めて二人で話したあの日のように僕ら以外は誰もいない。遠くで野球部の野太い声がするが、ここからグラウンドは見えなかった。向こうから僕らの姿も見えないだろう。


 ここは秘密の話をするにもうってつけの場所だった。


「ほほーう。さすがは速水君。誰も気づかないだろうって思っていたのに」


 彌富は腕を後ろに回しながらそう言って、苦笑いをする。


「見ていれば分かるよ。ちゃんと、見ていたら」


 そう。彌富が僕を見ていたように。


「ははは。君は何でもお見通しか。いやはや、どうしたものか。もっと演技力を高めないとね……」


「僕の前では、無理なんてしなくてもいいのに」


「――でも。明るい私じゃないと、みんな嫌でしょ? 速水君だってそう思わない?」


 彌富はそう言って悲しそうに笑う。


 他のみんなと一緒にされたのは悲しかったけれど、本心を口にしてくれたことは嬉しかった。


「みんながどうかは知らない。少なくとも、僕はどんな彌富でも変わらずに接する自信はあるよ」


「君は、やっぱり優しいなあ……」


 彌富はそれから小さな声で何かを呟いたが、僕の耳に届くことはなかった。


「じゃあこれからは、速水君の前でだけ無理をしないようにする。辛いときは辛いって言うし、私の黒ーいとことか見せちゃうんだから」


「僕だけが知る彌富ってことだ」


「うん!」


 それから僕と彌富はクラス替えがあるときまで、何かあるたびにこっそりと集まり話すようになった。


 二人だけの秘密の時間。それはなんだかとても甘美な響きで、特別なひと時だった。きっと彌富も同じ思いでいてくれていると、当時の僕は信じていた。


 しかし、僕たちはただの友人のままだった。僕が自分の気持ちに気づいていながらも、行動しなかった臆病者だったからである。


 あの頃から、僕たちの関係は何も変わらない。


 そして僕たちは高校二年生になっていた。

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