繋がり
最寄り駅までは徒歩二十分。寝不足の身体にはかなりしんどく感じた。
多少涼しくなってきたとはいえ、元気な太陽からの熱は容赦なく寝不足のからだ全体に降り注ぐ。
足元がおぼつかず、目の前がふわふわとした感覚があった。しかし、それでも私は歩みを止められない。家には絶対に戻りたくないからだ。
やっとの思いで駅に着き、ICカードをかざして改札を通ると、
「彌富!」
と背後から声がした。
振り返ると、急いで改札を通りこちらに駆けてくる速水君の姿を認める。
「おはよ! こんな時間に珍しいな」
「おはよう。今朝は起きられなくてね。朝練、サボっちゃった」
いつも通りに見えるように、私は最大限の笑顔でそう返した。
「へえ。彌富でもサボることとかあるんだな」
速水君はそう言って目を丸くしながら、私の顔をじっと見る。
私は速水君から自然に顔をそらし、「そりゃね」と言いながら再び歩みを進めた。
彼のことだ。何かはきっと気づいただろう。でも、こればかりは話せない――
そう思い、胸がチクチクと痛んだ。
それからホームに向かい、私は速水君と並んで電車を待つ。
速水君はこのまま教室まで一緒に行ってくれるつもりなのかもしれない。嬉しいけれど、やっぱり紗月に見られたら少し面倒なことになりそうだな。
そんなことを思いながら速水君の方を見ると、
「今日の小テスト大丈夫かなー」
速水君はのんびりした声でそう言った。
なんてのんきなことをと思ったけれど、なんだかその声にホッとしている私がいた。
「私はやばいかな。昨日、ぜんぜん勉強してないし」
「あのあと勉強しなかったんだ」
「まあね」
だってあの後の私は――と昨夜のことを思い出し、背筋に冷たいものが走る。
迫ってくる兄さんの両手。漆黒の闇を映した双眸。そして、全身の痛み――。
震える身体をごまかすために、右肩にかけているスクールバッグの取っ手を両手でぐっと握った。
収まれ、収まれ。速水君に悟られるな。私の問題に、彼を巻き込むわけにはいかないのだから。
「まあ――その。家に帰ったら、やることなんて人それぞれだよな。勉強がすべてじゃないし」
「――うん」
私の頑張りは虚しく、速水君は私の表情を読み取って気を回してくれたようだ。
やはり彼には敵わないなと思わされる。
「またでもさ。分からなかったら、また僕が勉強を見てあげるよ」
「うん。ありがとう、速水君」
しばらくすると風を切るように各駅停車の電車がホームに入ってきた。完全に停まった車体は、プシュと音を立てて扉がスライドしながら開く。
私たちは、開いた目の前の扉から乗車した。
そして通勤通学者を多く乗せた電車は、扉を閉めると軋む音を上げてながらゆっくりと動き出す。
動き出した拍子に車体が大きく揺れ、隣にいる速水君の肩にぶつかった。
ジャスチャーで片手を上げてごめんと謝ると、速水君はサムズアップで返してくれた。
それから私は目を伏せて、目的地への到着を静かに待つことにした。
本当は速水君と話したい気持ちがあったのだけれど、鉛を飲まされたように重く静まり返った車内で声を出すのは少し憚られるような気がしたのだ。
混み合った電車内では自然と閉口したくなる気持ちはわからなくもない。せっかくの時間なのにと少し残念に思ったけれど、その分いいこともあった。
しかし、それを良いことと思うのは紗月に申し訳ないことだから、私の胸のうちに留めようと思う。
その後、目的の駅についてから改札を出ると、私たちは揃って学校の前にある坂を上り始めた。
いつもはなんてことない坂道が辛い。目の前がくらくらして、視界が狭くなる。
「彌富? 大丈夫?」
速水君は心配そうに私の顔を覗き込んでいた。心配をかけたくないと思った私は、無理やり笑顔を作って「大丈夫」と伝える。
「足元ふらついてるじゃないか。大丈夫には見えないよ」
彼はそう言って私の右腕を掴んだ。
「大げさだなあ」
「いいから。彌富は黙って僕に牽引されていればいい」
「はいはい」
電車内では寄せていただけだったのに、今は彼としっかり繋がっていることが嬉しい。
鼓動も若干はやく感じる。疲れと体調不良による動悸だろうか。
目の前には痩せっぽっちの男の子。たぶん普段から運動をしている私の方が、筋肉はありそうなのに。
ここから見る速水君の後ろ姿はどちらかと言えば頼りない。けれど、なぜか速水君と繋がっているということに私は安心感を覚えていた。
このままずっと繋がっていられたら――いやいや。速水君はただの友達。信頼している大切な存在。
それに彼は、紗月の好きな人なんだから――
「週五でこの上り坂はやっぱりしんどいな」
坂を上り終え、校門を潜ろうというところで速水君はため息混じりにそう言った。
そうだね、と速水君に答えようとした時、私の視界は急にぐらりと歪んだ。坂道を上がりきり、少しだけ気が緩んだのかもしれない。
ここでは倒れまいと、掴まれていない反対の手で、咄嗟に速水君につかまる。
「彌富!?」
「あ、ごめん……」
「保健室に行こう。今朝から体調悪いだろ? 少し休んだ方がいいって」
「大丈夫だって」
「教室で倒れたほうが大ごとになるから」
確かにそうかもしれない。早退しろだなんて言われたら最悪だ。兄さんはまだ、家にいるに違いない。
「――わかった」
そう答えると、速水君はホッとしたような顔をした。
彼は今、私だけを見ていて、私だけのことを心配してくれている。それが内心嬉しかったし、少しだけ優越感に浸れた。
それから私はふらつく体を速水君に支えてもらいながら、保健室へと向かった。
「失礼しまーす」
速水君はそう言いながら保健室の扉を開け、室内を見回した。
「誰もいないみたいだ」
そう言いながら、彼はこちらに目を向ける。
何をそんなに用心深く――でも真面目な速水君なら、やりそうなことか。
私は小さく笑っていた。
「朝の打ち合わせなんじゃないかな。来た時に理由を言えば大丈夫だよ」
「そっか」
それから保健室に入り、私はベッドに座らされ、速水君は私の隣のベッドに座る。
「ごめんね……助かったよ」
「ちゃんと休めよな。それと無理そうだったら早退すればいいから」
「――早退は、したくないな」
私はそう言って俯き、太ももの上で両手を握った。
普段は吐かない弱音も、速水君の前だとつい吐いてしまう。
彼が受け止めてくれることを知っているからなんだろうな。
「ああ、そっか。家に帰りたくないんだったよな」
「……うん」
「みんな」と違って私らしくないとは言わない速水君の優しさが、なんだかとても心地よかった。
しかし、その気持ちは兄さんから与えられる恐怖に
昨晩のことをふと思い出し、急に身体が震え出した。
「彌富? 大丈夫?」
大丈夫だよと答えたいのに、唇が震えてしまって何も答えられなかった。
すると、私の体は温かい何かにそっと包まれる。同時に、速水君の匂いがした。
すぐには気づかなかったが、目の前には速水君の胸があり、自分は今、彼の腕の中にいるらしい。
「何があったかはわからないけど、一人で抱えるなよ。何があっても、僕は彌富の味方でいるから。辛いときは僕を頼ってくれていいから」
速水君のその言葉を聞くと、身体の震えは収まった。そのまま彼の胸に額をつけて、その温もりを感じる。
速水君だったらいいのに。兄さんじゃなくて、速水君からのキスがいいのに。
顔をふっと上げると、速水君の顔が間近にあって目が合った。
少し顔を近づければ、唇が触れてしまいそうなほどだった。
今はこの保健室には私たち以外の人はいない。今だったら、何をしても――
私はそっと顔を近づけると、速水君は拒まずにいてくれた。あと、一センチ……その時。
ガラガラ、と引き戸が開く音が聞こえ、驚きのあまり私は思い切り速水君を突き飛ばしていた。
視線を下に向けると、速水君は隣のベッドに倒れ込むような格好になっている。下が床じゃなくて良かったと内心ホッとした。
「えっと……だ、大丈夫?」
覗き込むように速水君の顔を見ると、速水君は苦い顔をしていた。
「うん、大丈夫」
その声は少し悲しげだった。
「それじゃあ、僕は教室に行くよ。ゆっくり休んで」
速水君はそう言ってカーテンを閉めると、保健の先生に何かを伝えてから保健室を出ていった。
自分から迫ったくせに、やっぱり無理だと思って突き飛ばしたと思われたかな。
「あとで謝らないと」
でも――と私は唇にそっと手を添える。
あのままキスをしていたらどうなっていたんだろう。私たちの関係は変わっていたのかな。
「なんてこと思ってんの。こんな私とじゃ、速水君が穢れちゃうでしょ……」
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