綺麗なままでいたのなら

 結局わたしは速水君に謝れないまま、放課後を迎えていた。


 午後六時。最寄り駅で降りた私は、いつものファストフード店に入る。カウンターで適当にハンバーガーセットを注文した後、二人掛けのテーブルについてスマートフォンの画面に視線を落とした。


「わあ。柳澤議員、また噛みついてるよ――なんか政治家同士って口論ばっかだよね。でもそれって、言いたいことを言い合えている証拠か」


 一人で過ごす夕食時は、たいていスマートフォンを片手にSNSを覗き見る。

 そうして時間を潰しながら、また午後十時ごろに帰るのが私の日常なのだ。


 トレーにのったハンバーガーを口に運ぼうとした時、「彌富」と声がした。口を開けたまま声がした方に顔を向けると、そこには速水君の姿があった。


「ごめん、約束はしてないんだけど、ここにいる気がして。隣、いい?」


「――う、うん」


 そう答え、手に持っていたハンバーガーをトレーに戻す。ついでに丸まっていた背筋を伸ばした。


「さんきゅ」と速水君は笑顔で言って、私の目の前の椅子に座る。


「体に悪いってわかってるんだけどさ。やっぱりハンバーガーって美味いんだよな」


 速水君はそう言いながら包み紙を開けると、パクリとハンバーガーにかぶりついた。


 朝にあんなことがあったのに、速水君は相変わらずなんだ――私はそんなことを思いながら、彼を見つめる。


 そして、いつの間にか私の口の端は上がっていた。


 やっぱり速水君と二人きりで過ごす時間は、楽しくて温かくて――


 最近は紗月を交えて三人でいることが多いから、余計にそう思うのだろう。


 紗月はもちろん大事だ。でも、速水君だって私にとっては大事な人。だからこんな時間もたまには必要なんだ。


 速水君と目が合った。きょとんとした顔で速水君は私の方を見ている。


 あまり見つめていては勘違いをされてしまいそうだと思い、私はトレーにのっているハンバーガーへ視線を戻した。


 それから「いただきます」と手を合わせ、私はハンバーガーにかじりつく。


 いつもと同じハンバーガーなのに、速水君と食べるといつもよりずっと美味しく感じた。


 そして、その後の速水君は、私が無言でいても同じく無言で読書をしたり、スマートフォンをいじったり――今朝のことを何も聞かずに傍にいてくれた。


「そうだ――速水君。朝の、ありがとね」


 そう声をかけたのは、相席をして一時間ほど経ってからだった。


「ううん。でも、元気になったみたいでよかった」


「まあ、ただの寝不足だから」


「寝るの遅かったのか?」


 兄さんとちょっと――とは言えなかった。


 いくら信用していると言っても、さすがに真実を聞いて嫌悪感を抱かないはずはないだろうから。


 私は、速水君に嫌われたくないんだ。


「う、うん。ちょっと漫画とか読み始めたら、眠れなくなっちゃってさ」


「なんだか彌富らしいね」


 クスクスと笑う速水君の顔を見て、ホッとした。


 どうやら嘘はバレていないらしい。このまま笑顔でいれば、速水君に余計なものを背負わせずに済む。


 けれど。嘘の仮面のしたにある私の顔は、今どうなっているのだろう――。


「そう? もっと真面目そうなのにとか言われるかと思った」


「少しは思ったけど、僕も好きな本を読んでいて寝不足になることがあるから、人のことを言えないなって。まあ、瑠璃川だったらなんて言うかわからないけどさ」


「……確かにね」


 仮面にヒビが入る音がした。

 ヒビの原因はたぶん――いや、そんなはずはない。


「でも、ふむふむ。速水君も紗月のことがよく分かってきたじゃん!」


「まあな。毎週遊びに付き合っていたら、そりゃ詳しくなるよ」


 速水君は肩をすぼめて微笑んだ。


 その笑みに全身を貫かれたような痛みが走る。そして仮面にはさらに深いヒビが入った。


 今の自分の顔を速水君に見られたくない。私はいつの間にか俯き、両手でつくった拳を見つめていた。


 痛い、苦しい。速水君にそんな表情をさせる紗月が羨ましい――。


 握る手に力が加わる。抱いた感情が外へ出ていかないように、その拳の中で必死に抑えているのだと思う。


「彌富? 大丈夫か?」


 不安げな声が聞こえ、私はハッと顔を上げた。彼を心配させまいと笑顔を作ることも忘れない。


 壊れかけた仮面は、なんとかカタチを留めてくれているらしい。私の顔を見て、速水君はホッとしたような顔をする。


「うん、大丈夫だよ! それでそれで……結局二人はどこまで進んでいるのかな?」


「え!?」


「え!? じゃないよー。付き合ってるんだから、手を繋ぐくらいはしてるんでしょ?」


 そうなんだよ。私はそうだと分かっているはずなのに、あのとき彼にあんなことを――


「別に瑠璃川とは付き合ってないよ。だから手を繋ぐも何もない」


「そう、なの?」


「そうだよ。瑠璃川から何も聞いてない?」


 と速水君は首を傾げながら言う。


「え、うん。何も――」


 毎週のデート報告くらいはある。けれど、何がどうしたというのは詳しく聞いてないし、私から尋ねることもしていないのだ。


「僕と瑠璃川はそういうんじゃなくて……その友達、だから。だってほら! 僕も瑠璃川も友達が彌富以外にいないだろ? だからお互いに慰め合うような関係なんだよ」


 必死に説明する速水君の姿が可愛いくて、愛おしくて。また私の口角は自然に上がっていた。


「本当に面白いなあ、二人とも。やっぱりなんか真面目って感じだよね!」


「そんなに可笑しかったか?」


「うん。いやあ。二人の関係見てると、付き合ってるように見えるよ? 実際、クラスメイトの何人かに二人の関係を聞かれたことあるしねえ」


「そうだったんだ……」


 肩を落としながら速水君はため息を吐く。私も彼に気付かれないように、ほっと息を吐いた。


「付き合う気はないわけ?」


 私は確かめるようにそう訊いていた。


 こんなことを訊いて私はどうするつもりなのだろう。私たちはただの少し仲の良い友達にすぎないのに。


「まあな。瑠璃川は大切な友人なんだよ。僕が馬鹿なことをやっても笑ってくれるし、困っていたら助けてくれるしな」


「そっか……」


 楽しそうに紗月の話をする速水君を見て、胸がモヤモヤとした。


 少しずつではあるものの、彼は紗月を受け入れ始めている。友達歴は私の方が長いけれど、紗月と過ごす時間の方が長いからなのかもしれない。


 今は友達と思っていても、彼は将来的に紗月のことを好きになるような気がした。


 それは本来、喜ぶべきことなのに。

 ずっと紗月を応援してきたんだから、このまま見守ってあげることが正しいはずなのに。


 そうなってほしくないと思ってしまう自分がいる。


 私は身体だけではなく、心まで穢れてしまったのかもしれない。


 こんな私が速水君の隣に居るなんて、あっていいはずがない。


 私は無言のまま立ち上がった。ここから離れなければならないと直感したからだ。


 速水君は驚いた顔でこちらを見ると、


「どうした?」と尋ねてきた。


 今は君に、本当のことを言えない。だから、ごめんね――


「私、今日はもう帰るよ。早く寝なくちゃ」


 私はそう答えた。胸の内を悟られないようにと、満面の笑みで。


「え……うん。じゃあ、また明日」


「うん、またね」


 笑顔を崩さずそう言って、私は店の外に出た。




 店の自動ドアを出てすぐに顔を上げると、空には綺麗な月が浮かんでいた。


 中秋の名月が近いらしいというネットニュースを見たっけ。


 それから少しだけ肌寒い空気の中、私は家に向かって歩きだす。


「私が綺麗なままで、もしも紗月と彼が出会わなかったら……私と速水君の関係は――」


 ははは、と小さく笑い、下を向いた。


 何を馬鹿なこと言ってるの。今の状況じゃなきゃ、私は彼に興味も関心もなかったくせに。


 やっぱり私はダメだ。速水君の隣にいるのは、紗月じゃなくちゃ。


「だって彼をまっすぐに見てきたのは、紗月だけだったんだから……」


 月明かりが目に入らないように、私は俯きながら歩いていく。


 綺麗な月の光は眩しすぎるのだ。

 そう、穢れきって真っ黒な私には――。

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