繰り返される悪夢

 午後十時。ファストフード店を出た私は、速水君と別れて家に向かっていた。


「また着いたら連絡しないとなあ」


 速水君は夏祭りの時のように、家まで送ると言ってくれたけれど、今回も丁重にお断りしたのである。


 だって兄さんがもし速水君を見たら、彼にどんな仕打ちをするかわかったもんじゃない。だから彼を守るためにも、私は我慢をしなければならない。


 大切な時間を守るためには、必要な我慢なのだ。


 


 家の前に着き、速水君へ帰宅の連絡をする。相変わらず速水君の返信は早かった。


 そんな速水君にクスリと笑い、私は目の前の一軒家に目をやった。


 黒の瓦屋根。灰色の外壁。家の敷地内には駐車場があり、お父さんとお母さんの車二台が停まっていた。


 リビングと兄さんの部屋に明かりがついている。お父さんとお母さんはもう帰ってきているようだ。そして兄さんも。


「今夜も大丈夫、だよね」


 兄さんはここ数日、大学の定期試験のために私の部屋には来ていない。


 来週くらいまでは安心して過ごせるけれど、やっぱり少し怖く感じる。早めに就寝して、明日も早めに家を出なければと思った。


「ただいまー」


 いつものように聞こえるか聞こえないかくらいの声で言って、部屋に向かう。階段をゆっくりと上がり、部屋の前に兄さんの姿がないことを確認すると、急いで部屋に入った。


「ささっとお風呂、入っちゃお」


 それから私は言葉通りにささっと入浴を済ませ、風呂場を出る。


 このまま何も起こりませんように。そう思いながら部屋に戻ると、


「おかえり華弥」


 兄さんは笑顔で私のベッドに座っていた。


「何、してるの」


「何って……華弥の帰りを待っていたに決まってるだろ?」


 そう言いながら兄さんは立ち上がり、ゆっくりとこちらに向かってくる。


 出ていってもらわなければ。しかし、どうしたら――


 そんなことを考えているうちに、兄さんは私の目の前にいた。


「ま、待っててなんて、言ってない、でしょ」


「そんな可愛くないこと言って。素直になれよ華弥」


 兄さんはそう言うと私の左腕を掴み、私を身体ごと部屋の中へ引き入れる。そして空いている側の手で素早く扉を閉めた。


「離してっ!」


 私がそう言って腕を振り払うと、兄さんは私の両肩に手を乗せ、無理やり自分の方を向かせた。


 その瞳はじっと私を見据えている。何かを言おうと思っても震えてすぐに言葉が出てこなかった。


「おいおい。嬉しくて、声も出ないのか?」


「もう、やめてよ、こんなこと。お、お母さんたちに、言いつけるよ」


「子供じゃないんだから、言いつけるなんて」


 嘲笑うかのようにそう言うと、兄さんは顔をぐいっと近づけた。


「言ってみろよ。そうなったら、わかってんだよな」


 何かを言おうと口をパクパクしていると、そこに兄さんの唇が重なった。


 兄さんからの深いキスは嫌悪感しかない。そうとわかっていながら、その唇を引き剥がせない自分に失望する。


 そのまま扉に身体を押し付けられると、背中に痛みが走った。私が抵抗しようと身体を動かすたびに、扉はギシギシと音を立てる。


 不満そうな顔で兄さんは私の唇から離れると、今度は耳元で囁くように言う。


「ここだとお母さんたちに気づかれる。わかってるよな」と。


 全身が震え、声を発することもできなかった私は、小さく頷いて兄さんに返した。


「わかってるなら、いいさ」


 と言って兄さんは再び私の左腕を掴み、強引にその腕を引いた。


 兄さんに引かれたままベッドの前まで来ると、乱暴に放り出され、私は頭からベッドに転がる。


 私が身体を起こそうとした時、兄さんは覆い被さるようにその身体を私の上に乗せた。


「溜まってた分は、楽しませてくれるよな」


 そう言って、兄さんの顔が近づく。


 抵抗すべきなのに、恐怖という拘束具で押さえつけられた身体は思うように動いてくれなかった。


 そして抵抗できなかった私は、今夜も兄さんの欲求を満たす。その身が穢れていくことを知りながら――。




 翌朝。気分は最悪だった。


 兄さんは試験勉強でそうとう鬱憤が溜まっていたのか、解放されたとき空はうっすらと白くなり始めていたのだ。


「全然眠れなかったな……朝練は仕方ないから休もう」


 リビングに行くと、テーブルに食事が用意してあった。


 兄さんはまだ眠っているらしい。朝食には手がつけられていなかった。


 今日の講義は遅い時間からなのだろう。だからあんなに昨日の夜は遅くまで私を拘束したんだ。なんて自分勝手で最低な奴だ。私は怒りで全身が震える。


 午前七時を知らせる時計音が響き、私はハッと我に返った。


 あんな夜を過ごしても、今日は平日で高校生である私は学校へ行かなければならないのである。


 それからお茶碗に白米を少しだけのせて、リビングテーブルにつき、両手を合わせた。


 本当のところ、胃の調子はあまり良くはない。けれどお母さんに感づかれては困ると思った。


 私は用意されていた自分の分の食事を無理やり胃の中に収める。


「どうして、お母さんに相談できないんだろう。本当はちゃんと話せたらいいのに」


 腹の中で不満と怒りと食べたものが入り混じり、それは不快感となった。


 その感情をいくら抱いても、私はそれをどこにも吐き出せない。たとえ口から飛び出しそうになっても、無理やり飲み込んで腹の中に押し戻すしかないのだ。


 だってこれだけは、速水君にも言えない私の秘密なんだもの。


「もう行かなくちゃ」


 そして私は家を出る。いつものように嘘の仮面をしっかりと身につけて。

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