『待ち望んでいた』
講義室のある建物から出ると、陽光が眼球を射すように照りつけてきた。私は思わず顔を顰める。
私がそんなことをしている間にも、黒木君は食堂に向かって歩を進めていた。
駆け寄ろうとした時、彼の隣にぼんやりと薄い影が浮かんでいるのが見える。
「なに、あれ」
しかしその影はすぐに消え、もう彼の隣には何の姿もない。
「幻覚? それにしても――」
黒木君の背に目をやると、その背に寂しさがまとわりついていた。
いつもの強い口調も、鋭い視線も同じ人物から発せられるのが嘘のように。
「誰かを、求めているのかしら。それとも、その誰かは決まっていて、その場所を譲るつもりはないと」
もしそうだったなら、私に似ていると感じた。
「おい、早くしろ」
黒木君は足を止め、振り返りながら言う。
「ごめんなさい。今行くわ」
私は駆け出し、彼の斜め一歩後ろを歩く。
隣を歩かないのは、彼の隣には彼にとって大切な人が立つとわかっていたから。そして、私の隣も立ってほしかった人がいたから。
それから私はなんとなく無言のまま、食堂に向かったのだった。
食堂に着いた私たちは、券売機でコーヒーを購入し、注文したものをカウンターで受け取ると適当な席に座った。
「それで」
黒木君は私の顔を一瞥もせずにコーヒーに口をつける。相変わらずふてぶてしい。
「ええ。まずはこの間の非礼を詫びたくて。ごめんなさい。私、あなたの事情も知らずにずけずけと踏み込むようなことを聞いてしまった」
「別に」
それだけ言って、黒木君はまたコーヒーを一口。続く言葉はなかった。
「あなたがあんなに怒ったのって、やっぱりバンド活動が大切だったからなのかなって思って」
私は彼の顔を見たが、彼は顔色一つ変えなかった。そしてゆっくりと口を開いて一言、「そうでもない」と答える。
「でも、あんなに怒ったじゃない」
「俺は今、本気で医者を目指している。だからバンドのことはもういいんだよ」
「どうして……って訊いてもきっと答えてはくれないのでしょうけど」
「他人に、話すことでもない」
黒木君はそう言って、カップに入ったコーヒーをじっと見つめる。その表情は寂しそうだった。
「あなたが一人でいることと何か関係があるわけ?」
「あんただっていつも一人だろうが」
私は椅子の背もたれに背を預け、腕を組む。
「まあ、否定はできないわね。けれど、私は望んで一人でいるわけじゃない。誰も寄ってきてくれないから一人なのよ」
ここには速水君も華弥もいない。私の傍にいてくれる友達はいないのだ。
改めてそのことを思い出し、寂寥感に襲われた。
「孤独にもいろんな形があるんだな」
「……そう言うあなたはどうなのよ」
「まあ、あんたと同じかもしれないな。望んで一人でいるわけじゃない。『寄ってくるなオーラ』が出ているって前に親友から言われたこともある」
親友――ああそうか。その親友を求めているから、彼の隣は空いていないのね。そんなに大切なお友達なんだ。
私はそんな彼を少し羨ましく思った。
「友達、いるんじゃない」
「今はいない」
淡々とそう告げ、黒木君はコーヒーを一口含む。
「――いないって?」
「高二の春に、病気で亡くなったんだ。それから俺はまた、一人になった」
春――華弥が私の元を去った時期も春だった。だからだろうか。彼に対して親近感がわいた。
けれど、どうして急にそんなことを打ち明けてくれたのだろう。もしかして、本当は聞いてほしいと思っているということなの?
「それが、バンド活動をやめた理由?」
私はそんな不躾なことを尋ねていた。黒木君はハッとしたような顔をする。
「間接的な、だけど」
彼はそう言って、いつものように不機嫌そうな表情になった。
どんな事情があるのだろうと気になったけれど、これ以上尋ねるのはやめた。口ぶり的にきっと触れてほしくないことだと思ったからだった。
「そう。つまりは黒木君も、友達を作るセンスが私と同じくらいにないというわけね」
親しみを込めて私はそんな嫌味を言う。かつて速水君にそうしていたように。
私は何に期待したのかはわからなかったけれど、その嫌味から何かが始まるような気がしていた。
「なんだか腹が立つ言い方だな」
「いいじゃない。本当のことなんだから」
私がニヤリと笑いかけると、黒木君はふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「それで、一つ提案なのだけれど」
私がそう言うと、黒木君はこちらに顔を戻す。
「提案?」眉間に皺を寄せつつも、彼はそう言った。
「ええ。これも何かの縁ってことで、私たちはこれから友達になりましょう」
「は?」と黒木君は目を丸くする。
何よ、不機嫌そうな顔以外もできたんじゃない。
今までにない表情をしている黒木君を可笑く感じた。笑いたい思いを抑えながら、私は彼の目を見つめる。
「友達、欲しいんでしょう?」
私が挑発的にそう言うと、黒木君はまた目を背けた。
もしかしたら、彼は意外と攻められるのには弱いのかもしれない。これもまた意外な一面だ。
「そんな安い友情はいらねえよ」
「あら、安いかどうかはこれから見定めてみなさないよ。むしろ私の高貴さを知ることになるわ」
黒木君は辟易した表情で小さく舌打ちをすると、「意味わかんねえやつ」と呟いた。そして、
「でも――あんたを見てるとあいつのことを思い出すよ」
黒木君はコーヒーの入ったカップを見つめながら、ぽつりとそう言った。その表情は少し寂しそうに見える。
「あいつってもしかして、例の親友さんのこと?」
「ああ。いつも自信家で、目の前のことに一生懸命で――俺はそんなあいつが羨ましかったんだな。今の自分を懸けて、その時を生きるあいつが」
「へえ」
どれも私には当てはまらないような気がする。けれど、彼の目に私はそう映ったのだろう。それが嬉しくて、胸の奥が温かくなった。
出会った時の瞳は胸を刺す冷気のように感じたのに。
その友達に似ている私は、彼の隣に立つ権利があるのかもしれない。
「まあ、その人の代わりにはなってあげられないけれど、私は私としてあなたの友達でいてあげるわ。感謝しなさい」
「はいはい」
それから私たちは何気ない会話を交わした後、お互いの連絡先を交換してから食堂を後にしたのだった。
その後、何度か逢瀬を重ねていくうちに黒木才人という人間を知り、私は瑠璃川紗月という人間を彼に伝えていった。
そして気が付くと、私たちは互いを深く信頼する仲になっていた――。
***
「ねえ黒木君。私の初恋相手にあってみない?」
「はあ?」
「気にならないの?」
「別に。今の瑠璃川がいればそれでいい。だって、俺たちは今を生きているんだからな」
今を生きている――それは黒木君の口癖だった。
『未来にも過去にも捕らわれず、今を生きていく』
それを昔親友に教えてもらったと彼は私に教えてくれていたのだ。
「――あ、でも私は会ってみたいわ」
「誰に」
「黒木君の親友。そしてかつての仲間たちに」
「ああ、そのうちな」
「ええ約束よ」
彼との出会いは劇的なものではなかった。でも――
「私はあなたとの出会いをずっと『待ち望んでいた』のかもしれない」
キャンパスの花壇には綺麗なピンク色のアネモネの花が咲いていた。
大学生活四年目の春のことだった。
(完)
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