番外編
ピンクのアネモネと青い春
新しい私へ
この春。私――瑠璃川紗月は大学生になった。選択した学科は心理学。
その選択は、近くにいながら華弥や速水君の心を理解できなかったことに対する懺悔のつもりだった。でも――。
***
「お嬢様、本当に送迎はよろしいのですか?」
家を出る直前、専属の運転手をしている鬼頭は不安げな顔で私に言った。
「言ったでしょう? 大学生になったら、もう送迎はいらないって。私だっていつまでも子供じゃないんだから」
「……わかりました。お嬢様がそう言うのならば」しぶしぶ納得した様子で、鬼頭は頷く。
「ありがとう。でも、私用で使う時はまた頼らせて」
私が笑顔でそう伝えると、
「もちろんでございます」と鬼頭は嬉しそうに言った。
鬼頭のお孫さんと比べたら私はもう立派な大人だとは思うけれど、鬼頭にしてみれば私なんてまだまだお子様の分類なのだろう。
祖父のようにいつも見守ってくれる鬼頭の存在はとても嬉しくて、ありがたい。
「それじゃ、いってくるわね」
「はい、いってらっしゃいませ」
鬼頭に見送られ、玄関扉から家の外へと出た私は、最寄り駅まで歩いて向かう。
初めて知る早朝の空気。そして出会いの期待と、今後の不安。
一歩一歩進んでいくと、私の中でいろんな想いがないまぜになり、その足取りを重くしていた。
「こんな調子で大丈夫かしら……」
思わず小さなため息が出る。
高校生から大学生へ――その環境の変化に伴い、私自身の心も変化させるタイミングなのではないかと私はずっと考えていた。
だから、という理由もあって今日はこれから電車に乗ることになっている。私はあのトラウマを克服しようと決めたのだ。
柔らかくなった日差しを全身に浴びていると、少々下品ではありつつ歩きながらあくびをしてしまう。
そして、そのあくびの原因は寝不足にあった。今日は人生二度目の乗車日。昨夜は緊張して寝付けなかったからだ。
「私一人で大丈夫かしら。やっぱり、まだ――」
それからしばらくして私は最寄りの駅に到着し、改札を通り抜け、ホームに立った。
降車駅は三十分くらい距離。だから、大丈夫。私は自分にそう言い聞かせながら、電車の到着を待っていた。
鼓動の音が耳の奥で鳴り響く。胸が苦しい。怖い。逃げ出したい。
やっぱり私には無理だ――と並んでいる列を抜けようと一歩踏み出した時、速水君の姿が頭をよぎった。
ずっと落ち込んでいたはずの彼が、ある日突然もとの様子に戻った時のことだった。
『ずっと塞ぎ込んでたら、きっと華弥に怒られちゃうからさ。僕も頑張らないとって思うんだ』
彼は私に笑顔でそう語っていたのだ。
私は踏み出していた足を元の場所に戻す。それから小さく息を吐き、肩に掛けた鞄の持ち手を強く握った。
ここで逃げちゃダメ。私も変わるのよ。速水君がそうだったように――。
自分に言い聞かせているうちに、風を纏った快速電車が私の前を過ぎていった。
その風は私の髪を揺らしながら、ホームに待つ人たちの間をすり抜ける。なんだかそれは私のこの挑戦を嘲笑しているように感じた。
「大丈夫。大丈夫よ」
それから電車が完全に停止すると、プシューと音を立ててその扉が開いた。
小さく息を吐いてから前の人に倣い、私も電車の中ほどへと進む。
車内は込み合っており、座るスペースはなかった。どうしましょう――と少し困惑したけれど、すぐにつり革が視界に入り、震える左手を伸ばす。
その手でつり革を掴み、胸のあたりを右手で押さえながら、私はきゅっと目を閉じた。
無言の車内には鉛を飲まされたような重さを感じる。こんな空間に毎日いたら、気が変になりそうだと私は思った。
しかし、電車通学をすると決めた以上はその重さに耐えなければならない。初日からくじけそうだった。こんなことで大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えていると、また痴漢に遭うかもしれないという恐怖心も薄れていった。気が付けば、もう次の停車駅が目的地になっている。
「何よ……なんてことないじゃない。私は何に怯えていたんでしょうね」
ふと車窓に目をやった。橋の上を走行中の車体からは大きな川が見える。
陽光が差し、水面がキラキラと輝いていた。水質的にきれいではないその川でも、なぜか今日に限って美しい。
もしかしたら、心の変化の兆しなのかもしれない。そんなことを思いながら、私は口の端を持ち上げていた。
「そうだわ。せっかくだから速水君に激励の言葉でもかけてあげましょう」
私は鞄からスマートフォンを取り出し、速水君にメッセージを送る。
『今日から大学生ね。どうせ友達なんて作る気はないのでしょうけど、せいぜい頑張りなさい。私も頑張るわ』
「彼、どんな反応するかしら」
送ったメッセージを見つめながら、私は彼のことを想った。
――華弥の一件があった後も、私と速水君との関係は変わらずに続いている。
交際に発展するかと思われた瞬間もあったのだけれど、私は彼の弱った心につけ込むのが嫌でそれを断った。馬鹿なことをしたと今でも思っている。
でも、たぶんこれでよかったのかもしれないとも感じていた。
あの事件以降、私はそばにいたのにも関わらず、華弥のことで悩む速水君に何もしてあげられなかった。それでも速水君は速水君自身で答えを見つけ、再び顔を上げたのだ。
速水君の中には今でも華弥がいる。私の入る隙なんてなくてない。
だからきっと無理に付き合っていたら、私は速水君を傷つけてしまっただろう。
私は今も彼への想いは変わっていない。
その想いが変わらないのと同じくらい、私たちの関係も変わらないのだ。
速水君は今もずっと華弥を待っているから。
そう。『アネモネの花言葉』を信じて――。
しばらくすると、速水君から返信が来た。
『ありがとな。瑠璃川もせいぜい頑張れ』
「せいぜいって。彼らしい言い方ね」
そう呟きながら、思わず笑みがこぼれる。
これからも速水君との関係を続けていこう。どんな関係であっても。
そして私は目的の駅で電車を降りたのだった。
「乗れた。私……」
駅舎を出てから、私はその建物をまじまじと見つめていた。
降りた時には何とも思わなかったけれど、今自分が知らない街に降り立ったという事実を知ったことで急に実感が湧いたんだと思う。
「呆けている場合じゃなかったわね。キャンパスに向かわないと」
足を前に向けて歩き出そうとしたけれど、記念に一枚だけ写真を撮りたくなった。
私の過去を知っている速水君に、この小さな頑張りを見せたいと思ったのだ。
鞄から取り出したスマートフォンを手に駅舎の方へ体を向けると、顔面に衝撃が走る。どうやら歩いてきた人にぶつかったらしい。
顔をあげ、ゆっくりと身を引くと、ぶつかったその人と目が合う。
同年代くらいの男の人だった。長身瘦躯でスタイリッシュな銀縁のメガネ。レンズ越しに見るその瞳は、妙に冷たく感じる。
「すみません」
私がそう言うと、その人は明らかに不機嫌そうな顔をし「気をつけろ」とだけ言ってさっさと歩いていってしまった。
「素直に謝ったのに、何よあの態度」その後姿を見つめながら、私は呟く。
しかし、その言葉はその男の人に届くことなく、暖かな春の風とともにどこかへ吹き抜けていった。
それから私は写真を撮るのを忘れ、憤った想いを抱えたままキャンパスへと向かったのだった。
これが私と彼との出会い。なぜ私の運命は毎回電車絡みなのだろうと可笑しく思う。彼も、そうだなと言って笑っていた。
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