再び、春
その花言葉の意味は――『 』
乗車率八割ほどの朝の電車内には、鉛を飲んだような重い空気が立ち込めている。
これはこれで新たな修行なのかもしれないな。
そんなことを思いつつ電車の扉に右肩を預けながら、僕は目の前に広がる光景をぼうっと見つめていた。
毎朝苦行のように上っていた校門前のあの坂道も、瑠璃川のユーモアあるあの毒舌もしばらく聞くこともないんだよな。
ほんの数日まえまでのその懐かしさに浸り、思わず苦笑する。
「今日から大学生か」
この春に高校を卒業した僕は、隣の市にある芸術大学に進学していた。
幼い頃から両親と同じ業界で就職しようと考えていたため、その大学のメディア学部を選択したのである。
大学受験までにいろんなことはあったのだが、周りの支えでなんとかそれらを乗り越え、ようやく普通の生活に戻っていたのだった。
しかし、いくら普通の生活に戻れたと言っても、その普通の中に華弥は含まれていない。
僕はあの事件以降、華弥には会えていなかった。
肩にかけているショルダーバッグの紐を左手で掴み、グッと力を入れて握る。
華弥のことで落ち込んだままの僕に気を使ってくれているようで、あれから瑠璃川も両親もあまり華弥のことは口にしなかった。
その様子から彼女たちが自然に華弥のことを諦めてくれるよう僕に望んでいることも何となく気づいている。
けれど、僕は諦めなかった。
必ずまた、彼女に会ある日が来ると信じていたからだ――。
***
高校二年の冬にあった事件後、マスコミ関係者に追われ、僕は退院してからもしばらく登校できない日々が続いていた。
そのせいもあって進級も危ぶまれたが、瑠璃川が直々に家庭教師をしてくれたおかげで、どうにか無事に進級することができたのだ。
そして三年生の春。ほとぼりが冷め始めた頃、僕はようやく登校できるようになったのだった。
久しぶりに歩く通学路は驚くほど変化はなく、途中みえたファストフード店もファミリーレストランも僕たちの身にあったことなど知る由もない顔で営業していた。
もしかしたら、ひょっこりと華弥がいるのではないかと少しだけ立ち止まって店内を眺めてみたものの、その姿はない。年配の店員から訝しそうな視線を投げられ、僕はそそくさとその場を後にした。
最寄り駅で電車に乗り、二駅目で降りる。その当たり前の動作は意識せずとも自然にできた。
降りた駅の改札でICカードをタップしようとした時、僕はハタと手を止める。それから誰に声を掛けられたわけでもなく振り返り、周囲を見渡した。
ここでよく華弥に声を掛けられていたことをふと思い出したのだ。
しかし華弥の姿はない。若いサラリーマンの怪訝そうな視線が目に入って、僕は前に向き直り、改札を出た。
しばらく歩みを進めていくと、桜並木に囲まれた長い坂が姿を現す。思わずため息を吐いてから、僕はその坂を上り始めた。
吹雪のように舞う桜の花びらが目の前をちらつく。しかし悠々と風情に浸っている余裕もなかった。この長い坂はずっと家に籠っていた身体に堪えるのである。
「だいぶ体力落ちたな。入院している間もほとんど動かなかったし、家にいる時はずっと読書しているだけだったしな」
くじけそうになる心を何とか鼓舞しながら、僕は校門までの試練を終えた。
「去年のクラス替えは心が弾んでいたのにな。一年で環境も心も変わってしまうものか」
そう呟きながら、クラス名簿が貼り出されているであろう昇降口に向かう。
全てに目を通したが、どのクラス名簿にも『彌富華弥』の名前はなかった。分かっていたことなのに、僕は露骨に肩を落とす。
それから今年度のクラスメイトになった人間の名前をろくに確認することもなく、僕は教室に向かった。
白い廊下には、窓から四角く陽光が差している。多少の温もりを感じてはいたが、あまり心が温まることはなかった。
華弥のいない新学期が始まる。その事実を受け入れることがこんなに難しいなんて知りもしなかった。
教室の扉を開けると、中にいた数人のクラスメイトたちがこちらを見た。すると、急にコソコソと話し始める。
仕方ないか。少し前までお茶の間のネタの渦中にいた人間がそこに現れたんだから。
クラスメイトたちの異様な視線を無視して、名簿にあった番号の順になるよう席に座る。
すると、
「おはよう。速水君」
そんな聞きなれた声がして、その方に顔を向ける。
するとそこには――瑠璃川紗月の姿があった。
「どうして」
「今年も同じクラスじゃない。気が付かなかったの」
怪訝そうな顔で瑠璃川は僕を見ていた。
唯一の友人のことをすっかり忘れてしまっていた。華弥のことばかり考えていた自分に今更ながらに気付く。
進級できたのは、瑠璃川の尽力があったからなのに。僕はなんて恩知らずな奴だ。
「ごめん。知らなかった。でも、瑠璃川がいてくれてよかったよ」
「そう」と嬉しそうに瑠璃川は笑ったのだった。
それからは僕は淡々とした日々を送っていった。
日曜日にやっていた瑠璃川とのお出かけも再開し、華弥と付き合うより前の時間に戻ったようにも感じていたが、華弥がいない事実だけは変わらないままだった。
華弥からもらったしおりを見るたびに、開いたままの胸の穴に冷たい風が吹き抜けていく。暖かい季節になっても、その冷えが治まることはなかった。
駅やファストフード店を通るたび、僕は無意識に華弥の姿を探していた。しかし、どれだけ探しても華弥が見つかることはなかった。
どうしようもなく寂しくなって、とうとう瑠璃川に弱音を吐いた。そして瑠璃川の優しさにつけ入ろうと本気じゃないのに交際を持ちかけたりもした。
でも、瑠璃川は僕の考えを理解していたのだろう。その申し入れをその場で断った。
正直、ホッとした。受け入れられても、僕はずっと瑠璃川に華弥を重ねてしまっていたと思う。瑠璃川をひどく傷つける結果になっていたかもしれない。
ふとファミリーレストランのガラス戸に映る自分の顔が目に入った。生気はなく、陰気な顔だ。
「前に華弥が言ってたっけ。笑って、って。いつまでもくよくよしてても仕方がないよな。華弥に再会した時、見捨てられるような人間にはなりたくない。僕らしく。これまでの僕でいよう」
それから僕は今までらしさを取り戻し、無事に高校を卒業したのである。
***
電車に揺られながらスマートフォンを見ていると、瑠璃川からのチャットの通知が入った。
『今日から大学生ね。どうせ友達なんて作る気はないのでしょうけど、せいぜい頑張りなさい。私も頑張るわ』
「もっと他の言い方ないのかよ」
瑠璃川からのチャットを見てクスリと笑い、『ありがとな。瑠璃川もせいぜい頑張れ』と返した。
それから車窓の外に目を転じると、遠くに薄桃色の塊が見えた。桜祭りで有名な公園がある場所だ。
桜。春――それはアネモネの咲く季節。
華弥と一緒に花壇のアネモネを見るという約束は今も叶っていない。けれど、またチャンスはあるはずだ。そんな希望的観測をする。
そう。この鞄の中にある、アネモネのしおりを持って入れば必ず――。
僕は再び、ショルダーバッグの紐を強く握ったのだった。
それから駅を降り、キャンパスに向かって歩いていると、道の途中にある花壇の前で座る女の子を見つけた。
長いまつげ、高い鼻筋。短い髪の下に綺麗なうなじが見える。そして、そのかばんには、バッグチャームがあった。
色とりどりの花びらと金箔が封入されている雫型のガラス玉。アネモネに似ているシンプルな創作された五弁の花。それは、以前瑠璃川が用意したもの。
僕はその女の子の背後に立ち、ショルダーバッグに入っている本から一枚のしおりを取り出して、女の子の顔の前にやる。
「アネモネの花言葉の一般的な意味は『悲しい恋』だ。でも、アネモネには色ごとに花言葉が異なるんだよ。
そして。紫のアネモネの花言葉は――『あなたを待っています』って言うんだ」
何も言わず、女の子は座ったままだった。それでも、僕は続ける。
「待たせたね、華弥」
僕がそう言うと、女の子は立ち上がり、こちらを向いた。
「そんな意味だったなんて、ね」
「僕は信じてたよ。そういう意味で贈ったわけじゃなかったとしても」
「もしも待ってなかったら、どうするつもりだったわけ?」
「そこまで考えてなかった」
「君らしいね……正直君」
華弥はそう言って笑ったのだった。
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