喧嘩
文化祭二日目。
朝一で受付の当番―― 一日目と違って、二日目の当番班の順番はあみだくじで決めたのである――だった私は、昨日よりも少し上機嫌で教室内を徘徊していた。
私の当番のあとに速水君の当番があって、それが終わったら二人で校内をまわることになっているのだ。
「彌富、お疲れ」
交代でやってきた速水君は、私と目が合うとそう言って微笑んだ。
「ありがとう。速水君も頑張ってね」
「ああ。ありがとな。それと――」
速水君はこちらに歩み寄り、私の耳元に顔を近づける。
それから「一時間後に体育館の前で集合で」という約束を速水君とこっそりしてから、私は教室を出た。
約束の時間までどうしようかと廊下を少し進むと、
「華弥。一緒に見てまわらない?」
さっきまで速水君と一緒にいたであろう紗月が、教室を少しいったところで待っていた。
「いいよ! 今日は誰とも予定がないからねえ」
息をするように、私は紗月に嘘をつく。
速水君とのことはあとから本当のことを言えばいいよね。今から紗月と過ごすのに、ギスギスはしたくないもん。
嘘をついたことに対して、私はそんな言い訳をしていた。
「どこに行きたい?」
「華道部の部室がいい! 紗月以外の生け花も見てみたいから」
「わかったわ」と紗月は笑い、私もそんな紗月に笑い返す。そして私たちは華道部の部室のある部室棟を目指した。
「ほうほう。これが、生け花……」
並べられた作品たちを見たけれど、私にはさっぱりわからなかった。紗月の生けた花を見た時は、もっとぐわって体内にある細胞が沸きたったのに。
「どう?」
「私は紗月が生けた花の方が好きかも」
こそっと紗月に伝えると、紗月は恥ずかしそうに笑って「ありがとう」と頬を赤く染めた。
紗月のこういう純粋なところはすごく共感が持てるし、可愛いと思う。速水君はこんな紗月をいつも見ているのだろうか。
「次はどこへ行く?」
華道部の部室を出た私と紗月は、目的なく廊下を歩いていた。
廊下にはたまにすれ違うほどの生徒しかいない。おそらく今日も体育館は多くの生徒で賑わっているだろう。たしか今日は外部からのゲストが来るとかなんとか聞いている。
わざわざ人の多い場所に行く必要はないと感じた私は、このまま閑散とした部室棟を徘徊するのもいいなと思った。
「うーん。お料理研究会とかどう? お菓子の販売をしているみたいだよ」
文化祭の前日に配られていたパンフレットを開き、紗月に見えるように指さす。
「いいわね。行ってみましょう」と紗月は笑った。
「ついでに美味しいクッキーの焼き方とか教えてもらえるといいね! 速水君、喜ぶかもよー」
あえて速水君の名前を出し、紗月の興味を誘う。
最近、笑う紗月を見られていなかったから、少しでも私は紗月を笑顔にしたいと思ったんだろう。
しかし、これが失敗だった。
「速水君は甘いものが好きなの?」
きょとんとした顔をする紗月。
そんな紗月を見て、実際はどうだったかなと速水君と食事をしているときのことを思い出す。
そういえば食事の後にホットコーヒーをよく飲んではいたものの、デザートを食べているところは見たことがなかった。
「あまり甘いものを食べてるところなんて――」
「へえ。華弥って速水君とご飯に行ったりするのね」
紗月は突然あしを止め、私の言葉を遮るように言った。
冷たいわけではないはずなのに、その言葉は私の心臓をひやりとなでていくようだった。
毎晩夕食をともにしていることを紗月には言っていない。
私が言わなくとも、てっきり速水君が話しているものだと思っていたけれど、どうやらそうでもないようだ。
「えっと……その、一回だけだよ! ほら、試験勉強みてもらってた時にね」
上手く笑えていたかはわからないけれど、私はその場で作り笑いをしながら誤魔化した。
「そういえば、そんなことがあったわね」
「うん」
それはほんの数か月前。初めて速水君と二人で出かけた日。
いつも日曜日を紗月のために使っていた速水君が図書館へ行こうと誘ってくれて、私は有頂天になっていた。
しかし、そのことを紗月に知られてはいけないと感じ、細心の注意を払って紗月の行動圏外であろう場所を選んだのだ。
「実はね、華弥が速水君と二人で街中を歩いていたのを見かけていたのよ。日曜日の昼頃ね」
「そう、だったの?」
行動圏外まで出たはずなのに、それでも並んで歩く姿を紗月に見られていたなんて。
額に変な汗がにじみ出し、こめかみ、頬へと伝い落ちる。
「ええ。並んで歩く二人を見ていて、すごくお似合いだなって思った。彼の隣を歩くのは、私じゃなく華弥なんだなあって」
紗月は寂しそうに呟いた。そんな顔は見たくなかったのに。私の考えが甘かったせいだ。
そもそも穢れた私が人並みの幸せを願ったことが間違いだったのかもしれない。私は、自分が知らないうちに紗月を傷つけていたんだ――。
紗月のことを友達だと、親友だと言っておきながら、私は最低な人間だ。
こんな私に、彼はふさわしくない。
「そんなことないよ。お似合いなんかじゃ、ない」
「――華弥はもっと自信を持った方がいい。向けられている好意にちゃんと気付いた方がいい。分かっていて知らないふりをするのは残酷だと思わない?」
「それ、どういう意味?」
そんなつもりはなかったのに、私は思った以上に紗月へ冷たく返していた。
しかし、紗月はそんな私にひるむどころか、態度も語気も少し強くなる。
「本当に、分からないの?」
紗月の美しい切長の瞳に睨まれた私は、思わずたじろぎ、目を伏せていた。
「分からないよ……紗月が何を言いたいのか、全然分からない」
向けられている好意? 残酷? それって何のこと?
「――自分がどれだけ恵まれているのか、幸せなのか分からないんだ」
ぽつりと言った紗月の言葉を聞いた途端に、私の周囲は無音になった。
本来、聞こえているはずの音が、すべてミュートになったという方が正しいのかもしれない。
「なに、それ」
無音の中で聞こえた唯一のその音が、自分の声だと気づくのに少し時間を要した。
そして、自分の感情を抑えていたはずの仮面が砕け散り、溢れていた想いがあふれ出す。
「恵まれてるのは、紗月のほうじゃん。速水君と好きな時に一緒にいられて、ちゃんと好きだってことを伝えられて。この先だって、彼を好きでいられる……私よりもずっとずっと紗月の方が恵まれてるし、幸せじゃん! 紗月こそ、全然分かってないよっ!」
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言えばいいじゃない。一緒にいたいなら、一緒にいたいって素直に彼に伝えなさいよ! 華弥がいつまでも嘘を吐いたままじゃ、私も速水君も辛いじゃないっ! なんで華弥にはそれが分からないのよ!!」
「なんで私がちゃんと言わなきゃ二人が辛いの? 意味わかんないよ!」
私が彼を好きなったら紗月が傷つくじゃん。私の秘密を知ったら速水君が失望しちゃうじゃん。何も分かっていないくせに、紗月は勝手だ……。
「速水君の気持ちをちゃんと聞いた? 彼が華弥に何を思っているのか、本当に知らないわけじゃないんでしょ!」
「――え?」
「……これ以上は私の言うことじゃないわね。教室に戻るわ。もう交代の時間だから」
「う、うん」
それから紗月は一人で教室棟に歩いていってしまった。私はその背中を見つめながら、ただ茫然と立ち尽くす。
私たちを避けて歩いていた生徒たちは、何事もなかったかのように動き始めていた。それでも私はその場から動けずいる。
「速水君の、気持ち――」
ぽつりと呟いてみたけれど、速水君の気持ちはよく分からなかった。てっきり紗月といい関係になってきていると思っていたのに。
でも、違うの?
何かに気づいたような気がした。でも、私はそれに気づかなかったことにした。
「あ、速水君と約束してるんだった。行かなきゃ」
ハッとした私は廊下を進む。これから楽しい時間になるはずなのに、その足取りは重かった。
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