遠慮はなしに

 私は紗月に連れられ、実習棟に来ていた。


 化学準備室の前に着くと、紗月はポケットから鍵を取り出し、それを鍵穴に挿してくるっと回す。


「ねえ、勝手に入って大丈夫なの?」


 鍵を抜き取って引き戸をあける紗月に、私は尋ねた。


 紗月は涼しい顔をして化学準備室の中に入りながら答える。


「先生に入室の許可はもらっているわ。といっても、昨日の話だけれど」


「鍵、返してないの!?」


 化学準備室に身体を入れた紗月の背中ごしにそう言うと、紗月はその場で俯いた。


「だ、だって……文化祭の間、行く場所がないでしょ? 速水君がいないと私は一人だし……」


「え、私もいるじゃん?」


「でも、その……」


 狼狽える紗月を見て、私はようやく気づいた。


 紗月は私にそっけなくしていたことを謝りたかったのに、素直になれなくてなかなか言い出せなかったんだな、ということを。


「もう、紗月は相変わらず可愛いな~」


 そう言いながら、私は紗月の頭をクシャクシャと撫でる。


「や、やめてよ華弥! そんなにお子様じゃないわ」


「はいはい」


 それから私たちは、化学準備室の奥にある窓の下に並んで腰を降ろした。


 照明をつけていないため、室内は窓の光だけで薄暗い。なんだか幼い頃にしていたイタズラを思い出して、今の状況に懐かしさを感じる。


 紗月はどう思っているのだろう、と隣の方を見やると、膝を抱えて座っている紗月は少し強張った表情をしていた。


 紗月はまだ、ここ数日の私への態度のことを気にしているのかもしれない。


「速水君とどこを見てきたの?」


 私はいつもの紗月にしているように、いつも通りに話しかけた。もう、今まで通りでいいんだよと紗月に伝えるように。


「華道部の作品をね。やっぱり普段から生けている人たちは違うわね。すごく上手だった」


 それでようやくいつもの調子を取り戻したようで、紗月もいつも通りにそう返してくる。


「紗月だってうまいじゃん。さっき展示の案内をしていた時、いろんな人が紗月の作品を見て感動していたよ」


「華弥の写真がうまいからよ。だって、プロのお墨付きなんでしょう?」


 少し不貞腐れたような顔で紗月はそう言った。


「速水君から聞いたの?」


「まあ、ええ」


 本当に紗月は速水君のことが好きなんだな、と改めて思う。


 彼に褒められた私に対しての嫉妬なんて、可愛いじゃないか。


「まったく。いつもいつも大袈裟なんだよね、速水君は。私はそんな大した人間じゃないのにさ」


 わざと呆れて見えるように私はそう言った。


 速水君に褒められて嬉しいことは間違いないのに、私はその感情を紗月には隠さなきゃと思ったからだ。


「華弥がそう思っているだけで、彼の中ではそうでもないのよ。華弥の存在は彼の中でとてつもなく大きい。必要な存在なの」


 と紗月はまっすぐな瞳で言った。


 紗月の言う言葉が真実かどうかを証明するものはない。だから私は、その言葉を素直に受け取ることはできなかった。


「それって紗月の推測でしょ?」


「分かるのよ。一緒にいればいるほど、痛いほどに――ねえ華弥。本当に速水君のことを狙ってないの?」


「え……」


「答えて」


「私は」


 私はどうなんだろう。


 確かに速水君は特別だ。でも、私は彼の隣にいちゃいけないと思っている。こんな穢れた私なんかが。


「私は……狙ってなんか、ないよ。だって速水君は、ただの、友達だもん」


 言葉がうまく紡げない。なぜか否定しようとしている自分がいることに気づく。


「その言葉は本当?」


 紗月はじっとこちらを見つめていた。黒い瞳からは、真実のみを聞き出そうという気概が見られる。


「ごめん、やっぱり……わからない」


 嘘を、吐くことはできなかった。


 紗月は友達。私にとって大切な存在であることに変わりない。


 いま噓をつくと、その関係が壊れてしまうような気がした。


「そう――もしも彼のことを好きなら、私に遠慮なんてしないで。華弥には同情なんてされたくない。ちゃんと華弥と競って、それで彼の隣にいたいの」


 紗月はまっすぐな瞳でそう告げた。その強さに、私は気圧され言葉が出なくなる。


 そこまで彼のことを思っているんだ。私は、紗月のようには思えないや――


「うん」


 私はそう返すことが精一杯だった。


「真面目な話はこの辺にしておきましょう。それで。華弥はさっきまでどう過ごしていたのかしら?」


 今さっきまでの会話がなかったかのように、紗月はケロッとした顔で言う。


 たぶん、紗月のこういうさっぱりとしたところも私は好きなんだと思った。だから紗月を嫌いにはなれないのだとも。


 それから私たちは和やかに他愛ない会話をして、速水君の当番が終わる時間に教室へ戻っていった。


 その後は速水君をくわえ、三人で校内をまわり、文化祭一日目を終えたのだった。




 最寄りの駅を降り、私はいつものようにファストフード店に入った。


 何を頼もうかとカウンターの前でメニュー表を見ていると、


「彌富!」


 と後ろから呼ばれ、私は振り返る。


 そこには手をあげて微笑む速水君がいた。


「偶然? だね!」


「彌富がここに入るのが見えたから追いかけたんだよ」


「ストーカーめ」


 クスクスと笑うと、速水君は本当に困った顔をして「ごめん」といった。


「冗談だよ」


 それから私も速水君もハンバーガーとドリンクを注文して、空いていた窓寄りの四人がけの席につく。


「今日もご両親遅いの?」


 ハンバーガーの包み紙を剥がしながら、私は尋ねた。


「今日と明日は帰れないって。帰ってきても僕が学校に行っている時間だろうしさ」


 速水君はそう言って、ハンバーガーを手に取る。


「そうなんだ。それじゃ、寂しいね」


「夜はこうして彌富といるから寂しくないけどな!」


 速水君はそう言ってニッと笑った。


 考えなしにそんなことをいうのはやめていただきたい。心が弱っている女子は勘違いしちゃうでしょ。


 ハンバーガーにかじりつく速水君を見ながら、そんなことを思った。


「速水君はすぐにそういうことを言うんだもんなー。紗月に言いつけてやるしかない」


 紗月の名前を出すと、速水君は明らかに困惑した顔をする。


「それはちょっと……。彌富を口説いたって怒られそうだ」


 速水君のその言葉に胸の奥がモヤモヤとした。


 それって、なんだかんだで紗月のことが気になるってことだよね。


「そっか」


 私は感情が表に出ないように、嘘の笑みでそう返す。


 そして沈黙を恐れた私は、話題を文化祭のことに移すことにした。


「ああ、そういえば! 写真展さ。意外と評判いいみたいだね」


「そうだな! 彌富の提案のおかげだよ」


 そう言って笑う速水君の顔を見られなくて、つい顔を逸らした。そして頬をかきながら、照れ臭さを誤魔化す。


「それはどうもです」


「あ、そうだ!」


 といかにも今ひらめいたかのように振る舞う速水君。しかし、それが嘘だと言うことは見ていてすぐにわかった。


 しかし、そうまでして私に何を伝えたいというのだろう。


「明日のことなんだけどさ……」


「え、うん?」


「彌富が良ければ、一緒に文化祭をまわりたいなあと思って」


「今日もまわったじゃん?」


 私がそう言うと、速水君は過剰なほど目を泳がせる。


「そ、そうだけど……その。二人で、というか。瑠璃川が当番の時でいいから、僕と一緒にまわってくれないかなあって」


 尻すぼみになるように、速水君はそう言った。


 申し訳なさというより、別の感情があるように見える。けれど、今はその感情を見なかったことにした。


「それって紗月がいない時間を私で埋めようって話? 意地悪だねえ」


 おどけるように私は言う。すると、


「ち、違うって! 瑠璃川は彌富が空いていたら彌富と回りたがるだろうし。それに、僕が彌富と二人で回りたいって思ったから……嫌、かな」


 速水君はそう言って俯いた。


 また速水君は勘違いを生むような言い方をする。


 そう思いながらも私は困惑しながらも、内心はとても嬉しく感じていた。


 しかし、その感情が上がってこないように、壊れかけている仮面でしっかりと押さえつける。


 それから彼にどう返答しようかと少しだけ逡巡していると、紗月が化学準備室で言ってくれたことをふと思い出した。


 ――遠慮はしなくてもいいんだったよね。

 じゃあ。たまには嘘の仮面を無視して、本心に従ってみようじゃないか。


「別に、嫌ではないよ」


 私は笑顔で答えた。

 嘘偽りのない本当の笑顔で。


「え……じゃあ!」


「いいよ、一緒にまわろうか」


「ああ、ありがとう!」


 速水君は満面の笑みをしながら小さく頷いていた。そして胸の前でガッツポーズもしている。


 そんな彼を見て、私はまた嬉しくなった。


 この決断で誰が傷つくかということは理解しているつもりでいる。


 けれど――


 ほんのひと時の幸せを、人間らしさを味わってみたい。私はそう思ったのだった。

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