『見放す』

「これでよし、と……」


 家の前に着くと、私は約束通り速水君に帰宅したことを連絡した。


 今さっき送ったばかりのメッセージだったけれど、すぐに既読がついて『了解。安心した』と返信がある。


「本当に優しいんだから。ダメだってわかってるのに、つい甘えたくなっちゃうじゃん」


『ありがとう。じゃあまた学校でね』とおやすみのイラストスタンプを送って、私は背負っているミニリュックにスマートフォンをしまう。


 それから憂鬱な気持ちで玄関扉に手をかけ、「ただいま」と言いながら家に入っていった。


 それへの返答がなかったことから、たぶん誰にも聞こえなかったのかなと思い、私はそのまま二階の自分の部屋へと向かう。


 リビングには灯りがついていた。おそらく両親がテレビを観ているのかもしれない。


「おかえりぃ、華弥」


 階段を上りきったところで、そう声をかけられた。じっとりとした嫌な汗が額から流れる。


「ただいま、兄さん……」


 私の部屋の手前にある一室――兄の部屋――の前で、兄さんは不敵な笑みを浮かべながらこちらを見ていた。


 今なら踵を返して一階のリビングに向かうことはできるはずなのに、足の裏に接着剤がついてしまっているんじゃないかというくらい足は微動だにもしない。


「遅かったじゃん。どこ行ってわけ」


「と、友達と夏祭り。別にいいでしょ、私がどこで何をしていようと」


 この言い方が今日の失敗だったのかもしれない。

 私はやっぱり馬鹿だ。紗月なら、もっと上手くやれるかもしれないのに。


 兄さんの表情はふっと消え、その手がゆっくりと私の方へ伸ばされる。


「ずいぶんと生意気な言い方するなあ。そんなに躾けてほしいのか?」


 兄さんはそう言いながら私の左肩にそっと手を置き、握りつぶすつもりなんじゃないかというほどの強い力でその肩を掴んだ。


「痛っ……」


 私が顔をゆがませると、兄さんは嬉しそうに笑う。そして左肩を掴んでいた右手を、今後は右肩に回して私の肩を抱いた。


「ほら、行こうぜ。今夜もたっぷりと躾けてやるからさあ」


 私の耳元で囁くように兄さんは言った。その言葉には甘さなんてない。粘着質で耳障りな言葉。


 それでも私は抗えない。兄さんに言われるがまま。されるがまま。


 こんな私を、誰も愛してくれるはずはない。

 そう。穢れた私のことなんて。


 本当のことを話せば、どうせ君も私のことを『見放す』んでしょう。




 心の隙間にしみる風が吹き抜ける。もうすぐ秋が来るんだ――。

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