夢でしかない物語
すべてを見て回ったあと、私は会場の入り口付近に待機してあった黒い車に乗り込んだ。その車は我が家の私用車であり、私専用のものだ。
「お嬢様。次はどちらに?」
シートに座ってその声のした方に顔を向ける。
七三分けにされた白髪。太くくっきりとした眉毛。黒のスーツを着用している運転手の
彼は私が生まれる前からずっと瑠璃川家の運転手をしており、私が中学生になった時から私の専属になったのである。
両親よりも長く一緒にいることが多いため、面倒見の良い祖父のような感覚だった。
そんな鬼頭には長年連れ添ってきた素敵な奥様がいて、大事に育てていた一人娘は数年前に嫁にいったと聞いている。そして先日、お孫さんが五歳になったと喜んでいた。
「帰りましょう。まだ勉強をしなくてはならないし」
「かしこまりました」
鬼頭はそう答え、車を出す。
「そういえばお嬢様。本日はいつもの方とお出かけはなさらないのですね」
「ええ。今日はね」
速水君とのデートの時も鬼頭がいつも現地に送り届けてくれていた。だから鬼頭も彼の存在は知っているのである。
「そうなのですか。てっきり交際されているものだと思っていたので、本日は一緒にご勉学に励むものかと思っておりましたのに」
鬼頭の衝撃的な一言に、私は思わず運転席の方へ身を乗り出す。
「な、何を勘違いしているの!? 彼はただのクラスメイト。日曜日になると遊んでくれるだけよ! こ、交際なんて、そんな――」
「さようでございましたか」
クスリと鬼頭は笑うと、
「毎週日曜日のお嬢様はなんだか楽しそうでらしたので、てっきり。ご学友であり、大切なお方であることは理解致しました」
となんだか嬉しそうに言った。
「もう。からかわないでよ!」
私は後ろの座席シートに勢いよくかける。
でも、大切な存在ということは間違いではない。たった数回デートの送迎をしただけでそれだけのことを見抜くなんて、さすがだわ鬼頭。
それからふと窓の外を見遣ると、ぐうぜん見知った二人が歩いているところを目にした。
ポニーテールを揺らしながら楽しそうに話し掛ける華弥と、そんな華弥の話を幸せそうな顔で聞く速水君だ。
幹線道路沿いの歩道。その歩道を囲むように、いくつもの飲食店や雑貨屋が立ち並んでいる。日曜日の今日は、家族連れやカップルがその場を多く行き交っていた。
そんな中でなぜ、二人の姿を見つけてしまったのだろう。
私はすぐに視線をそらし、俯いた。
あんな二人の姿を見たくない。そう思いながら。
そして膝に置いている両手は、拳を作ったまま震えていた。
分かってるわよ。彼が華弥にしか興味がないことくらい。でもこの三カ月、私は毎週彼とデートを重ねてきた。だから少しくらいは気が変わってくれていると思っていたのに――
再び窓の外に目を向けると、もう二人の姿は見えなかった。私はほっと胸を撫で下ろし、座席シートにそっと背中を預ける。
「せっかく忘れていたのにな……」
なんでこんなに空しく思うの。どれだけ彼に手を伸ばしても、その手は触れることさえできない。掴めたと思ったら、それは蜃気楼のようにふわっと姿を消してしまう。
私って、本当に惨めね。
「お嬢様。少し、昔話をしましょうか」
そんな鬼頭からの言葉に私は目を見張り、鬼頭の方を見た。
しかし、鬼頭は前方を見据えたままでこちらに振り返ることはない。運転中なのだから、当たり前なのだけれど。
鬼頭がなぜ唐突にそんなことを言い出したのか、まったく見当がつかない。
もしかしたら、さっきの速水君と華弥をみて落ち込む私を、励まそうとしてくれているのかもしれないと思った。
私は赤信号で停車したタイミングで小さく頷き、「ええ、お願い」と鬼頭に答える。
バックミラー越しに鬼頭と目があった。おそらく、はじまりの合図のようなものなのだろう。
それから鬼頭は
「もう何十年も前の話です。当時大学生だった金もない学もない、人望も秀でた才能もない男がおりました」
誰の昔話を始めたのだろう。そう思いながらも、無言で鬼頭の話に耳を傾けた。
「彼はそれまで一度として恋にうつつを抜かすことなく、勉学に励むことだけが取り柄の男でした。
ところがある日のことです。彼は一人の女性に恋をしました。一学年後輩の素朴な女性です」
そこで信号が青に変わり、車はゆっくりと動き出した。それでも鬼頭は止めることなく、そのまま話を続けていく。
「正義感が強く真面目で優しい彼女は、彼だけではなく、さまざまな男たちをとりこにしていきました。
しかし彼女は、多くの男たちに言い寄られても、誰かを選ぶことはありませんでした。
もしかしたら、心に決めている人がいるのかもしれないと彼は思ったのです」
叶わないとわかっている恋なのに。その人は辛くなかったのかしら。
私は、今の自分が辛いのに。
また信号が赤になり、車は停車した。鬼頭は変わらない口調で、今も私に話し続けている。
「彼女をどうしても振り向かせたかった彼は、あれやこれやと作戦を実行することにしました。それは本当に馬鹿みたいな作戦です。
しかしそれが功を奏したのか、彼は少しずつ彼女の心に棲めるようになったのです」
私が毎週繰り返しているデートも、彼のような結果を生まないかしら。
そんなことは無理だと分かっていても、つい期待してしまう。
「しかしそんな時。彼の前には強敵が現れました。彼女の幼馴染を名乗る男です。
当然のようにその男は彼女の隣のポジションを獲得し、誰も彼女の隣には寄り付かせまいとしました。
もうダメかもしれない。彼がそう思いかけたとき、奇跡のようなことが起こりました」
奇跡、という言葉に私は思わず目を見張った。
それから信号が青になり、再びゆっくりと車が動き出す。
「彼女は先輩である彼を呼び出し、交際を申し込んできたのです。あなたの隣が心地よかった、と。
それには彼もびっくりで、幼馴染のことはいいのかと彼女へ尋ねると、彼はただの古い友人ですからときっぱり答えたのです。
それから数年の時を経て、彼は彼女の隣に居る権利を得たのでした」
沈黙を確認して、きっとここで話は終わりなのだろうと私は察した。
とある男女が困難を乗り越えた末に幸せになった、というどこにでもあるお話ね。そんな感想を抱く。
鬼頭は何を思って、私にそんな話を聞かせたのだろう。
バックミラー越しに映る鬼頭の顔は先ほどと変わらない笑顔だった。その表情から想いを読み取ることは難しそうだなと思う。
もしかしたら深い意味なんてなく、ただ慰めるだけのつもりだったのかもしれない。
ドアウインドーに頭をつけ、ふぅと小さなため息をつく。
そんな酷な話、聞きたくなかった。
だって。そんな話はただの夢物語でしかないじゃない。
私には奇跡なんて起こるはずがないんだもの。
移り変わる景色をただぼうっと見つめているうちに、私たちを乗せた車は瑠璃川邸に到着したのだった。
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