惨めな、私
鬼頭の昔話を聞いた翌日。私と華弥は速水君の机に集まって、いつものように三人で過ごしていた。
ときおり速水君と華弥から私に対する何らかの想いを感じてはいたものの、私はあえて素知らぬふりに徹する。
後ろめたいことがあるのなら、自分の口で言うべきだと思っていたからだった。
それからも速水君と華弥は昨日一緒に過ごしていたということを私に話すことはなく、私も速水君と華弥が一緒にいたところを見たという事を告げていない。
なんとなく、互いに嫌な感じだ。
「さっきの化学の授業、よくわからなかったな……」
華弥はため息混じりに呟いた。
「彌富って真面目に授業聞いていそうなのに、意外とそうでもないんだよな」
揶揄うように速水君は言う。その目は華弥だけを見つめていた。
「分からないから真剣に聞いているんだよ! 勉強できない分、少しでも授業態度は良くしなくちゃってね」
「彌富は真面目なんだ不真面目なんだかわからんことを言う」
私は真面目だよ、と華弥は速水君の額を突いた。速水君はなんだか嬉しそうである。
「でもなあ。紗月くらい頭が良ければなあ」
「それは確かに」
目の前で楽しそうに話す二人の会話を私は終始黙って聞いていた。
その会話に入る隙はいくらでもあったけれど、私はあまり気分が進まなかったのだ。
時々、気を遣われて声を掛けられることもあった。しかし私がそっけない返答をすると、二人は困ったような顔をして、また二人だけで話を続けたのだった。
華弥は胸が痛まないのだろうか。私が速水君へ好意を向けていることを知っているのに、なぜ彼女は平然と彼の隣にいられるのだろう。
そもそも二人は、私にどんな想いを抱きながら同じ時間を過ごしているの?
そんなことを思い、つい目を細めて二人のことを見てしまう。
でも、その視線に二人が気付くことはなかった。
ああ、そっか。二人でいる時に私のことなんて頭の片隅にすらないのよ。
だって。私も彼と過ごしている時、華弥のことなんて頭にはないもの。
なんとなくそこにいるような気がすると意識はされつつも、結局その目には映らない。
つまり二人にとって私は、透明な邪魔者ってことなのね――。
それから数日後。期末試験はついに始まった。
試験期間中、速水君と華弥との関係に心が乱されることはあったけれど、その出来はまずまずといったところだった。
これならきっと私は速水君に勝てる。試験後はそんな自信もあった、けれど――
勝ちを確信していても、心が晴れないのはなぜ? どうして不安でたまらないの?
そんな疑問が脳内を駆け巡る。
どれだけ考えても、試験の出来とは相反するような悪い結果しか想像できなかったのだった。
期末試験を終えて数日。すべての教科の返却が終わり、勝敗が明らかになった。
「さすが瑠璃川……圧勝だな」
私と速水君は合計点数の書かれた用紙を互いに見せ合っている。
速水君の合計は基本五教科で432点。私の合計は496点で今回も学年一位だった。
「当然ね」
これで私は、彼に何でもいうことを聞かせられる権利を得たということになる。
彼にお願いしたいことは、もうずっと前に決めてあるのだ。それは――
「あ! 勝敗は決まったの?」
伝えようと口を開いたタイミングで、華弥が笑顔で駆け寄ってきた。
そんな華弥を見て、速水君は満面の笑みをする。それはいつものように華弥だけに向ける、特別な笑顔。
その顔を見て、胸の奥に激しい痛みが走った。
今にも握りつぶされそうと思えてしまうほど、苦しくて不快な痛み。
痛みに苦しむ私に気づかないまま、速水君は肩をすくめて言う。
「僕の惨敗。やっぱり瑠璃川はすごいな」
「紗月、今回すごく頑張ってたもんね!」
華弥はいつもと変わらない明るい口調でそう言って微笑んだ。
なんだ。いつもと同じことじゃない。だったら私もいつも通り、速水君へ嫌味の一つでも言ってやらなくちゃ。
胸の痛みに耐え、口を開こうとした。けれど、それよりも先に速水君が口を開く。
「僕ももっと真面目に勉強すればよかったかなあ」
「ごめんね、私が時間奪っちゃったから」
「そんなことないよ! 僕は彌富と勉強できて楽しかったし」
「そう? そう言ってくれるなら私も嬉しいよ」
私の存在なんて忘れてしまっているかのように、速水君と華弥は楽しそうに話し始めた。
まるで二人だけの時間を見せつけるように。
もしかしたら、二人して私のことを嘲笑っているのかもしれない。
叶いもしない恋に浮かされて馬鹿みたい。お前のことなんて誰も眼中にないのに、と。
みじめで悔しくて、その場に居たたまれなくなった私は教室から駆けだした。
背後から呼ばれる声に振り返ることなく、私は無我夢中で走る。早くここから逃げ出したい。そんな気持ちで。
荒くなる息を整え、足を止めた先にある扉を見つめる。
私は化学準備室の前にいた。
授業がなければ閉まっていることは分かっていたけれど、他に隠れられそうな場所に見当はなかったのだ。
扉のノブに手を掛け、少し引くと扉が開いていることを確認できた。
それから人一人分くらいが通過できるくらいに扉を開け、私はそっと中に入り、後ろ手で静かに扉を閉めた。
開錠されていたのにも関わらず、化学準備室は誰の姿もないどころか、電気すらついていない。おそらく花城先生か他の化学の先生が施錠を忘れてしまったのだろう。
何かの薬品の匂いが鼻をつく。電気がついていない薄暗い化学準備室は、なんだか怪しい研究室のようだった。
「今まで優等生で通してきたのにね。こんなところを先生方に見られたら、なんて言われるのかしら」
自嘲するように、私はぽつりと呟く。
それから部屋の奥にあるカーテンの閉められた窓の下に、私は腰を下ろした。
「ここならしばらく隠れられそうね」
窓の外からは運動部の声が聞こえていた。期末試験を終え、ようやく思いっきり部活動ができることを歓喜しているような声がここまで響く。
「本当に惨めね……儚い恋、敗れたりって感じなのかしら」
ひざを折り、私は額をぴたりとその膝頭につけた。
「はあ」
苦しい……どうしてこんな想いをしてまで、私は彼を好きのままなのだろう。こんなの馬鹿げてる。すっぱり諦められたら、良かったのに。
遠くの方から誰かが駆けてくる足音が聞こえた。
もしかしたら、彼が来てくれたのかもしれない――と私はわずかに期待し、顔を上げる。
しかし、その足音は化学準備室の前を通り過ぎ、またどこかへ走り去ってしまった。
「私、何を馬鹿なことを考えていたんだろう。きっと彼はまだ華弥と仲良く話しているに違いないのに。今ごろ私を笑いものにしているに決まっているのに」
ここまで、か――
ふと鬼頭が聞かせてくれた昔話を思い出す。
鬼頭の話の中にいた彼も好きな子に強敵が現れた時、こんな苦しんだのだろうか。
諦めたほうが痛みも少なくて済むとそう考えたのではないだろうか。
それでも彼は諦めず、彼女へのアプローチを続け、とうとう隣に居る権利を得た――
「私にはとうてい無理な話ね。これ以上、傷つきたくないわ」
その時、ガラッと扉が開く音がする。
私がハッとして扉の方に顔を向けると、そこには息を切らした速水君の姿があった。
「ここにいたのか……探したよ」
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