『待ち望んでいる』
花城先生の車を降りた僕と瑠璃川は、教職員用の駐車場から校門に向かっていた。
瑠璃川は不慣れな活動に疲れたのか、車を降りてからずっと無言でいる。
何か話をしようかと口を開きかけたが、川に落ちて体力をだいぶ削られた僕も瑠璃川にならい、黙って歩いた。
そのせいもあって、右手にあるビニール袋のシャリシャリと擦れる音が妙に大きく響く。
朝には手に持ってなかったこのビニール袋は、車に乗る時に花城先生からもらったしたものだった。
この袋にはもともと着ていた学校指定のジャージが入っているのである。
そしてそのジャージの代わりに、僕は今、花城先生が着ていた赤いジャージを着ている。
ジャージは月曜日に返してくれればいい。花城先生はそう言って、赤いジャージの上着を僕に寄越してくれたのだった。
さすがに下のジャージをその場で、というのは難しそうだったので、とりあえず上のジャージだけを借りたのである。
長袖Tシャツになってしまった花城先生は少し寒そうだったが、その優しい心に僕の心は温かくなった。
花城先生が担任教師で良かったと心から思う。
校門前に着くと、瑠璃川は持っていた学生鞄からスマートフォンを取り出し、「終わったわ」と電話で一言そう伝えていた。
内容的に、きっといつもの専属運転手の男性に連絡したのだろう。そんなことを思いながら、瑠璃川の電話が終わるのを待つ。
「瑠璃川は家の迎えを待つのか」
「ええ。電車には、乗りたくないから」
俯きながら瑠璃川はそう呟いた。
「そっか」
やっぱりお嬢様は電車になんて乗らないものなんだな。物騒な世の中だし、瑠璃川くらいの容姿だと、一人にしておくのは親も心配だろうし。
確か昔、痴漢被害に遭う女の子をみたことがあったっけ。
助けたつもりだったのに、逃げられたんだよな……顔はよく思い出せないけれど、結構かわいい子だなと思った記憶がある。
まあ、そんな過去の女の子のことはいいか。きっとどこかで元気にやっていることだろう。
そんなことより、今は目の前にいる瑠璃川だ。
「じゃあ、瑠璃川の迎えが来るまでは僕もここで待つよ。今日はこの後の予定もないしな」
「速水君の予定がないのはいつものことじゃない」
瑠璃川は顔を上げてクスクスと笑った。
せっかくかっこいいことを言ったのに、台無しである。
「なんだよー。じゃあ待ってやらないぞ」
「あら、いつから速水君はそんな強気なことを言えるようになったのかしら」
「――まさか、こんな時でも僕を脅すつもりか!?」
「冗談よ。ありがとう」
そう言って瑠璃川はふわりと笑う。普段はあまり見せてくれないその笑みに、僕もつられて笑顔になっていたのだった。
それから数十分後、瑠璃川の迎えが来た。いつもの黒い車である。
校門の前に停められた車の窓から、運転手の男性の顔がのぞく。四十代くらいでとても誠実そうな顔つきをしている人だった。
「今日はありがとう、速水君。それじゃあ、また明日。映画館に十時ね。遅刻厳禁よ」
車に乗り込んだ瑠璃川は、窓を開けて淡々とそう言った。
僕は『遅刻厳禁』と言った瑠璃川に、思わず肩をすくめる。
「遅刻について瑠璃川にとやかくは言われたくないな」
「――明日は、遅れないよう努めるわ」
瑠璃川は、目を伏せながら悔しいそうに言う。
さっきは意地悪なことを言ったが、普段の瑠璃川の遅刻について僕は本気で咎めるつもりなんてない。
出かける日の女の子は何かと大変だということくらい僕だって知っているからだ。
「無理はしなくていいさ。瑠璃川の遅刻癖にはもうなれたからな」
笑いながらそう伝えると、瑠璃川は唇を尖らせる。それを見た僕は、瑠璃川にもあんがい子供っぽいところもあるんだなあと思った。
「私だって、別に遅刻したくてしているわけじゃ――」
「はいはい。頑張って準備してくれてるんだろ? 明日も期待してるよ。運転手さんを待たせても悪いから。ほら、行けよ」
「ええ。じゃあ、また……明日ね」
「また明日な」
僕がそう答えると、瑠璃川は少しだけ笑って窓を閉めた。それからすぐに車は動き出す。
そして瑠璃川の車が完全に見えなくなってから、僕は校門前の坂を下り始めた。
「今日は疲れたけど、濃い一日だったなあ」
と、言ってもまだ昼前だけど。
ふと足を止めて空を見上げ、数日ぶりの太陽の眩しさを全身に浴びる。
「明日からはまた、雨続きだって予報で言ってたっけ」
太陽とは、またしばらくお別れか。
少し寂しく感じたが、今年も暑いだろう夏のことを考え、つい苦笑いをしてしまう。
この坂を上るのは今年もしんどそうだ。
それからまた、僕は坂を下り始めた。
「昼ごはんを食べたら、読書でもしよう。せっかくの晴天だし、たまには窓辺で」
五月晴れの空の下。僕はこの空のように晴れやかな気持ちで家路を急いだのだった。
***
家についた私はまっすぐ自分の部屋に戻ると、着替えもせずベッドに横になった。
きっと着替えることが億劫なほど、今日は疲れたのだと思う。
「よかった。速水君に何ともなくて……」
目を閉じると、岩に掴まっていた速水君の姿が頭に浮かんだ。
本当は自分だって不安であるはずなのに、速水君は一緒にいた男の子を励まそうとしていた。その姿はとても勇敢で素敵だと思った。
「やっぱり速水君は、あの時の――」
緩む口元に気付き、頬をマッサージするようにフニフニと触れる。こんな顔を彼の前でするわけにはいかない。
「直接確かめてみたい。でも……」
私は昔、速水君に会っている。
けれど、速水君はそのことに気付いていない。こんなに近くにいるのにも関わらず。
「今は華弥のことしか見えていないのでしょうね」
小さくため息を吐いてから身体を起こし、窓辺に立った。
窓から見える空は青一色に染まっている。本当に見事な五月晴れ。
どんよりしていたはずの私の心は、そんな空のおかげで陽光が差したようにパッと明るく温かくなった。それだけ綺麗な空模様だったのである。
「明日も速水君に会えるのね」
それは華弥が知らない私と速水君の時間。速水君が私だけを見てくれる時間。
意地悪な考え方だということは承知の上だけれど、そう考えずにはいられない。それほどまでに、私は『待ち望んでいる』のだから。
「明日も楽しみだわ」
梅雨時期に訪れた晴天。まだからりと晴れる日は遠いけれど、暑い季節が近づいている予感がしていた。
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