夏
ずっと、あなただけを
速水君と参加した雨季のボランティア活動から二週間。季節は巡り、夏になった。
三限目の数学IIの終わり際。熱気がこもる教室には、白のカットソーを着た男女が均等に同じ方向を見つめながら座っている。
中には手を団扇のようにヒラヒラとしたり、襟を掴んで胸元をパタパタとする生徒もいた。
そんな行動に恥じらいはないのだろうかと少々思ってしまう。二の腕も胸元も丸見えだ。
制服が半袖になり身軽にはなったものの、体の露出範囲が増えるのはあまり好ましいとは言えなかった。
こんなこと、私以外は思わないのでしょうね。きっとあの時のことが、まだ弊害になっているんだ。
「はあ」
私はふと窓の外に広がる空に目をやる。
「本日も晴天なり」
ボランティア活動に参加したあの日も、良い天気だったわね。あれはほんの数日前のことなのに、もうずいぶん前のことのように感じるわ。
そんなことを思っていると、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「じゃあ、帰りまでにプリントを回収して、クラス委員が職員室まで持ってくるように」
数学の
残されたクラスメイトたちは席を立ったり、自席で読書や次の授業の準備など、さまざまだった。
私も次の授業の準備をしようと、机の中に右手を入れようとした時。
「瑠璃川。さっきのプリントの件だけど」
と聞きなれた男の子の声がした。
顔を上げ、声のした方を向く。するとそこには、こちらを見据える速水君の姿があった。
私はまっすぐ見つめてくる彼のその瞳に動揺してしまい、咄嗟に言葉が出てこない。
何か、返さないと――
そう思った私は「ええ」といつものようにそっけない返事をした。
そっけなくなってしまうのは、なにも速水君のことが嫌いだからというわけじゃない。ただ――恥ずかしいだけなのだ。
その先の言葉が思い浮かばなかった私は、ただじっと速水君を見つめていた。
相変わらず前髪が目に少しかかっていて、視界が悪そうだった。
普段メガネはかけていないようだけれど、いつか視力低下でメガネ男子になるかもしれない。
少し知的でいいじゃない。そんなことを思う。
入学当初から見かけるたびにずっと目を追っていた彼が、こうして当たり前に話す間柄になっていることが実は未だに信じられなかった。
四月にあったクラス替えで彼と同じクラスだと知った時は、天にも昇る心地だったのである。
そうそう。始業式の日に恥ずかしくて、ついそっけなくなってしまったことを少しだけ後悔したんだった。
けれど、ちゃんとこうして私たちの関係は進んでいっている。
初めて彼に出会った日はこんな運命があるだなんて思いもしなかったものなのに。
「瑠璃川? ぼうっとしてるけど、どうした?」
その言葉でハッと我に返った。
速水君のことを考えていると、つい時間を忘れてしまう。それは私の悪い癖だ。
「い、いいえ。それで、プリントの件が何だっていうの?」
ああ、まただ。どうしてこんな物言いをしてしまうのか。
私はそんな自分の天邪鬼な性格を面倒に思う。
「あ、いや。僕が男子の分を集めるから、瑠璃川が女子の分を回収してほしいなって思って。僕、女子とはあまり話したことないし」
きっと速水君の言うことが嘘ではないことくらいはわかる。
他の女の子とは違う関わり方をしてくれるのは、実のところすごく嬉しい。けれど、素直になれないのが瑠璃川紗月という女の子なのだ。
「私や華弥は女子としてカウントしていないという悪口と受け取っていいかしら?」
私はいつもの意地悪な言葉を、いつものように意地悪な表情で速水君に告げていた。
素直になれない自分に、私は勝てない。
果敢に挑もうと立ち向かうも、言葉の刃で胸をグサリと一突きされる。それ以上の痛みを恐れる私は、行動することを諦めてしまうのだ。
速水君は私の比じゃないくらい、この刃を受けているだろうに。
「そうじゃなくてだな! なんというか……その、苦手なんだよ。関わりのない女子と話すことが……だから、頼む!」
速水君は顔の前で両手を合わせてそう言った。
どうやら本当に困っているらしい。ここまで頼まれてしまったのなら、断りようはない。
それに、華弥ではなく私を頼ってくれているということに優越感もあった。
「わかったわよ。その代わり、男子の方は頼んだわ」
そう言って私はわざとため息をついてみせた。
喜んでいる姿を悟らせないため。
仕方なくやってあげるのよ、と恩を着せるために。
「ありがとな」と満面の笑みで速水君は答えた。
その笑顔に、私は思わずひっくり返りそうになる。幸せの風圧というのか、心の奥を暖かな何かが吹き抜けていったのだ。
そう。速水君は普段あまり笑わない。
だからその笑顔を独占できている今、私はとても幸せなのである。
しかし。そうは思っていても、ここでその気持ちを顔に出してしまえば、彼に笑われかねない。
私は必死にその想いを心の奥底に詰め込んだ。
それからまた、速水君の顔を見つめる。すでに満面の笑みは消えており、用事は済んだとばかりに体を自席の方へ向けていた。
このままでは、ここで会話が終わってしまう。せっかく速水君が来てくれたというのに、これで終わらせてしまうのはもったいない。
彼がここに留まらせるにはどうしたものかと逡巡し、私はいつもの意地悪を思いついた。
そう、あの日のこと。いつもの脅迫である。
「そうだ速水君。請け負ったからには必ず全員から回収しなさいよ。もし、出来なければ――」
私が言いかけたところで、速水君は勢いよく振り返る。その目には焦りが浮かんでいた。
「わ、わかったよ。だから、アレの件は!」
「ええ。分かっているならいいわ」
それから二言三言ことばのキャッチボールをしてから、速水君は自分の席に戻っていった。楽しい時間は本当にあっという間である。
私は速水君の後ろ姿を目に焼き付ける様に見つめた。
遠ざかっていく背中には、見えている以上の距離を感じていた。
手を伸ばせば触れられるはずなのに、私の手は速水君には一生届かないような気がする。
それは私と彼との心の距離。関係性の度量。
今の彼と私を繋ぐものは、あの日の脅迫しかないのだ。
もっと彼を知りたい。仲良くなりたい。
でもそれが難しい事くらい、私にだって分かっていた。
「だって彼は、華弥のことを……」
私は頬杖をつき、前方の席でクラスメイトと楽しそうに話す華弥を見つめた。
華弥の周りはいつもキラキラと輝いている。彼女の明るさがカタチになったものなんだろうなと思った。
「私も華弥みたいに明るい子だったら、良かったのかしら。あの時、笑顔でお礼が言えていたら――」
過ぎ去ったあの時間を、私はふと思い返していた。
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