『未来』
しばらくロープに引かれていると、水位がひざ下ほどの浅瀬まで辿りついた。そこからは立ち上がり、助けた子を背負って歩く。
「速水君! 大丈夫!?」
いつにないほど取り乱しながら駆け寄ってくる瑠璃川を見て、本気で僕のことを心配しているのだと察した。
友達っていいもんだな。素直にそう思う。
「僕は大丈夫。ありがとな、瑠璃川。助かったよ」
「私は何も。でも、本当に良かった」
「君、無茶をしてくれたじゃないか!」
瑠璃川が連れてきた警備員の男性は、眉間に皺をよせながらこちらに歩いてくる。
「すみません。この子が流されたから、なりふり構っていられなくて……」
こうして注意を受けているものの、僕はあの時の選択を後悔していない。もしもあの時、僕が動かなければ、この子は――
僕は背負っている少年に目だけを向ける。
彼はほっとしたような、疲れたような顔をしていた。意識はあるようだが、早く病院に連れて行ってもらった方が賢明かもしれない。
「あの、この子をよろしくお願いします。僕よりも長く水に浸かってたんで、早めに医者に診てもらったほうがいいかもしれないです」
「ああ。そうだな」
返事をしながら、警備員の男性は僕の背にいた少年を背負う。
「そうだ。これだけは伝えておく。君はこの子の命の恩人だ。よくやったね」
その一言が、やけに僕の胸に響いた。
他人と関わることを避けていた自分が。
他人を助けるようなことをやめていた自分が。
その他人のために行動していた、という事実を教えられたからだろう。
なんだか、とても懐かしい感覚だった。
「ありがとう、ございます」
僕は少し照れながら、そう答えた。
それから警備員の男性はニッと笑うと、乗って来ていたであろう黒いボックスカーまで少年を運び、病院へと向かって走り出す。
僕と瑠璃川はその車が青空の向こうに消えるまで、進行方向を黙って見据えていた。
「来て、よかったじゃない。速水君はあの子の未来を繋いだのよ」
瑠璃川は笑顔を見せながらそう言った。
未来を繋いだ――その言葉が妙にむず痒く感じる。
そして僕は瑠璃川から視線を逸らすように、空を見上げた。
「そんな大げさなもんじゃないさ。僕はただ居合わせただけだよ。僕じゃない他の誰かなら、きっと上手くやっていたさ」
例えば、彌富とかな。
「もっと素直に喜べばいいのに。まったく。速水君は素直じゃないわね」
「瑠璃川にだけは言われなくない言葉だな」
「今のは聞かなかったことにしておくわ」
僕と瑠璃川がそんなやり取りをしていると、花城先生が柳澤議員を連れてやってきた。
「大丈夫か、速水」
「ええ、僕は」
「君が溺れていた少年を救ったんだってね! ありがとう」
柳澤議員はそう言って深々と腰を折り、頭を下げる。
有名な政治家に頭を下げられるなんて、人生で二度とない経験かもしれない。そして、なぜか申し訳なくも感じる。
「頭を上げてくださいよ。僕も一緒になって流されたわけだし、救ったというのなら、ここにいる瑠璃川さんのおかげであって」
そう言って隣にいる瑠璃川の方を見た。
「速水君。さっきも言ったでしょう。こういう時、厚意は素直に受け取るべきよ」
と瑠璃川は先ほどの心配そうな表情などなかったかのように、いつも通りの淡々とした口調で答えた。
そんなに笑顔を他人に見せたくないのだろうか。なんだかもったいない。
笑っている方が瑠璃川は可愛いのに、と実はこっそりと思っているのだ。
「いやあ。でも本当に助かったよ。もしもこのイベントで事故死なんてことがあれば、来年以降の開催が危ぶまれたわけだからね。本当に君たちには感謝だ」
柳澤議員はそう言って鷹揚に笑う。
「きょ、恐縮です」
しかし来年の開催が危ぶまれたのか……未来の自分のためでもあったなんてな。そう思えば、今回あの子を救ったことを素直に喜べそうだ。
「よかった、よかった。ああ、そうだ! 何か要望はあるかい? ぜひ君にお礼がしたいんだ」
「柳澤、そこまでしなくても」
「いいや、花城。させてくれ。私のキャリアに傷がついたかもしれなかったんだからな」
「お前は昔から変わらん奴だな。あまり外でそういうことを言うなよ? いつか刺されるぞ」
「わかってるよ」と柳澤議員はニカッと歯を見せて笑う。
「まったくお前は……」
やはり花城先生は問題児の扱いを心得ているらしい。
「本当に昔から変わらないな」
そう言ってやれやれといった顔をしながらも、柳澤議員を見つめる目には優しさと温かさがこもっていた。
「だ、そうだが、速水。何かあるか?」
「何かって……急にそんなことを言われても」
そんなつもりであの子を助けたわけでもないしな――と首を傾げて考える。
「なんでもいいよ。私にできることならば」
両手を広げ、莞爾な笑みをする柳澤議員は、さながら恵比寿様のようなオーラを感じた。
本当になんでも願い事を叶えてくれそうだ。
とは言っても。こういう時になんでもいいって言われることが一番困ったりする。
有名な政治家だし、金銭関係は論外。食事? それもあまり良くないだろう。
僕が困り果てていると、
「速水君、速水君」
瑠璃川はそう言いながら、手招きをしていた。
その招きを受けるように僕は瑠璃川の隣に行く。すると瑠璃川はそっと僕の耳元で囁いた。
「速水君の小さい脳みそで考えてもきっと答えはすぐに出ないわ。私がありがたく助言をしてあげましょう」
「却下」
「まだ何も言っていないじゃない」
「どうせ、ろくでもないことなんだろ」
瑠璃川はいつも僕をからかって遊んでいる節があるからな。
僕は目を細めて、瑠璃川を見る。すると瑠璃川は不服そうな顔をして、腕を組んだ。
「華弥にも関係があると言ったら、少しは耳を貸してくれるのかしら?」
彌富にも、関係が……? そんなことを聞いてしまえば、ノーとは言えない。
「わかった。聞くよ」
「なんだか嫌な感じ」
「は? 自分から持ち掛けたことだろう」
「そうだけど……もういいわ! とりあえず――」
それから瑠璃川は、そっと僕に耳打ちをする。
――確かに。それなら誰にも迷惑がかからず、双方納得のいく答えだ。さすがは瑠璃川。
「話はまとまったかい?」
柳澤議員が僕らの方に視線をむけながら問う。僕は大きく頷くと、柳澤議員にこう答えた。
「来年も、このイベントを開催してください」と。
「え、そんなことでいいのかい?」
拍子抜けだとでも言いたげな表情で、柳澤議員はまばたきを繰り返す。
「僕にとっては大事なことですから」
「そうか……わかった。それならお安い御用だよ。来年も必ず開催すると約束しよう」
「ありがとうございます!」
「いや、しかし。きっと君のようなまっすぐな若者が『未来』を創っていくんだろうな」
柳澤議員は遠くを見つめながらそう呟いた。
彼が見ているのは遠い未来のことか、それとも在りし日の己の姿かどちらなのだろうとそんなことを僕は思う。
大人になれば、僕も同じことを思って懐かしむ日が来るのだろうか。
そんな『未来』があったりするのだろうか。
それはまだ、今の僕には分からない。
その後、柳澤議員の挨拶でボランティア活動が終了した。
僕らは花城先生に来た時と同様に学校の前まで送ってもらい、花城先生とはそこで別れたのだった。
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