命がけの選択

「誰か! 誰か来てください!」


「瑠璃川の声だ。何かあったのか」


 僕は声のする方へと急いで向かう。草をかき分け、視界が開けた先に異様な光景があった。


 川から少し離れた位置にある岩に、少年が掴まっているのだ。


「瑠璃川、これは?」


「私が来た時にはもう流されていたのよ。私たちより上流でゴミ拾いをしていた子じゃないかしら。手に軍手をしているもの」


 確かに。少年の右手には軍手があった。左手には何もついていない。川へ落ちた時に流されてしまったのだろう。


「どうしましょう」


「瑠璃川は大人の人を呼んできて。たぶん柳澤議員の警備に来ている人がいるはずだからその人がいいかもしれない」


 ボランティアに参加する大人ではなく警備員の方が、この場にいる誰よりも体力があり知識があると思っての選択だった。


「わかったわ」


 瑠璃川はそう言って頷き、大急ぎで草むらをかき分けながら進んでいった。


「僕はどうする」


 このまま瑠璃川が大人を連れてくるのを待つ方が無難だとは思う。しかし、もしもあの子の体力が先に尽きてしまったら?


 何かできたかもしれない自分に後悔をしながら生きる未来が、僕の脳裏をかすめる。


 それは、誰にとっても最悪な未来だ――。


 昨日までの雨で河川はまだ少し増水しており、やや流れも早い。だが、あの少年よりは僕の方が体力はあるだろうし、なんとかできるかもしれないと思った。


「命がけになるけど……行くか?」


 こういう時、彌富ならどうする。


 考えるまでもなく、すぐに答えが出た。


 彼女ならきっと――こうするだろう、と。


 僕は川に足を入れ、岩につかまる少年の元に向かった。


 増水していると言っても、水に浸かっているのは身体の三分の一程度だ。きっとこのままあの子を助けることができる。


「今行くから! ちょっと待ってろよ!」


 声を掛けたが、少年からの反応はない。すると、少年の手は掴んでいた岩から離れた。


 川の流れに従うように、その少年の身体は流される。僕は咄嗟に駆け寄った。


 手を伸ばし、流され始めていた少年の腕を何とか掴む。足に力を入れて引き上げようとすると――足元が崩れるような感覚があった。


 そのまま何かに引きずり込まれるかのように、僕は水中へと沈んでいく。


 そして、気がつけばあっという間に頭まで浸かっていた。


 動揺と困惑が全身に駆け巡る。もがくように右手を伸ばすが、誰もその手を取ることはなかった。


 このままはまずい……。


 それから、うっすら見える光が視界に入った。その光は輪郭のはっきりしない円状の形をしている。


 あれは太陽光なのではないか。そう思った僕は、うっすら見えるその光を辿った。


 それから僕はなんとか水面に顔を出し、「ぷはっ」と息を吐き出してから、今度は大きく息を吸い込んだ。


 こんなに空気がうまいと思うことも稀である。


「驚いたな……ん?」


 左手に何かを掴む感覚がある。


 ハッとした僕は、右手も使って左手に掴んでいる小さな体を引き上げた。そこには流されていた少年の姿がある。


 そうだ。僕はこの子を助けようとして……。


「おい、大丈夫か!」


 僕が訊くと「ゴホッ」と少年は水を吐き出してから、「うん」と小さな声で答える。その目は閉じているが、一応意識があることは把握できた。


 少年の反応に、ホッとしたのもつかの間。この状況が芳しくないことは僕にも分かった。


 そう。今まさに助けに入ったはずの僕もすっかり肩まで水に浸かってしまい、少年と一緒にゆっくりと流されているのである。


 川岸から気づかなかったこの川の深さに、僕は少々驚いていた。


「なるほど。この子があそこから動けなかったのは、この辺りがこんなに深くなっていたからなのか」


 今更そんな事実に気が付いても遅いことはわかった。とにかく早く何かに掴まらなければ――


 少し進んだところに、先ほどこの少年が掴まっていた岩と同じくらいの岩が見えた。


 あれなら、この子だけでも上に座らせられる。瑠璃川が助けを呼びに行ってくれたんだ。僕は少しくらいなら大丈夫だろう。


 あまり水泳は得意ではないが、バタ足くらいは僕にでも。


 そして両手で少年を抱えたまま、水中でバタ足をし、岩まで到達する。


「もうすぐ助けが来るから! 君はこの岩で座って」


 そう伝えると、「うん」と小さい声で返答があった。


 そして、少年には何とかその岩の上まであがってもらい、僕はその岩に掴まる。


 岩の上に目をやると、少年は両手で身体を擦っていた。


 このままでは、彼は低体温症になるかもしれない。時間は一刻を争う。


「瑠璃川、まだか……」


 かくゆう僕も、だいぶ体力を消耗していた。あとどれくらいもつのか、僕にも正直わからない。


 だが、今は目の前にいるこの子の命だ。


 見上げるように少年の方を見て、僕は笑顔をつくった。


「もうすぐ助けが来るからな。あと少しだから、頑張れ!」


 意識を保たせるためになるべく声を掛けたほうがいい、と何かの番組で観た記憶があった。


 その記憶を頼りに、僕は笑顔のまま少年に語り続ける。


「どうして今日のボランティアに参加したんだ?」


「……先生が行きなさいって」


 少年はおずおずとそう答えた。


「なんだ。僕と同じだな」


「ほんとは嫌だったんだ。クラスに仲のいい子はいないし、家で読書はしたかったし」


「それも、僕と同じだ」


 まるで幼い自分と話しているようだと感じた。


 この子も無理な性格を演じ、クラスから弾かれた経験があるのかもしれない。


 かつて僕が経験したように――




 それは小学六年生の時だった。


『速水って、本当に八方美人だよな。男だけど』


『それ、わかるわー。誰にでも良い顔してるけど、結局は自分だけが傷つかないためってのが見え透いてんだよなあ』


 その言葉たちは、今まで懸命に取り繕ってきた僕の仮面を一瞬にして破壊したのである。


 みんなにとって都合の良い自分を演じていたつもりだったが、どうやらそれはみんなにとってお気に召さないものかったらしい。


 そして僕は、人と距離を取るようになったのだ。


 みんなの人気者でなくていい。

 誰かといるよりも一人でいる方が気楽だ、と。


 しかし。彌富と出会い、僕は変わった。


 本当の僕を見て、それを好きだと言ってくれる人が一人でもいてくれればいいんだ。


 そう思える僕に。




「お兄ちゃんはさっきのお姉ちゃんがいるじゃないか」


 その少年の言葉でハッと我に返る。


 今は過去を追想している場合ではなかった。この少年の命がかかっているのだから。


「今は、な。でも僕も昔は君と同じだったよ。友達もいないし、家にこもって読書ばかりしていた」


「そうなの? じゃ、じゃあ僕も……いつかお兄ちゃんみたいになれる? 溺れた僕みたいな子供を助けるような人間に」 


 少年は澄んだ瞳で僕の目を見ていた。


 今日の出来事――僕との出会いがこの子の未来を変えられたのなら、僕がこのボランティアに参加した意味はあったのかもしれないと思える。


「なれるさ。だからここから生きて帰らなくちゃな」


「うん」


「速水君!」


 川岸の方で顔を真っ青にして叫ぶ、瑠璃川の姿が見えた。どうやら間に合ったらしい。


 瑠璃川と一緒に来ていた警備員の男性は、先端に石をつけたロープをこちらに向かって放り投げる。それは僕の数センチ手前のところに落ちた。


 僕はそのロープを掴んで手繰り寄せ、自分の体に緩く縛りつける。そして岩の上にいた少年を背負うと警備員の男性に合図を送り、ロープ引いてもらった。


「お兄ちゃん。僕、頑張る。今すぐには無理かもしれないけれど、いつかきっとお兄ちゃんみたいなかっこいい男になるからね」


 ロープで引かれている今、そんなことを言われてもなあ。僕はそう思いながら苦笑いをする。


 しかし、少年のその想いは素直に嬉しくもあった。


「じゃあ僕も、そう言ってくれる君に恥じない自分であるように努めるよ」


「うん。約束だよ!」


「ああ、約束だ」


 また命がけになってでも、救いの手を求められたら助けられる自分であるように。

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