第二章:女王の瞳(5)

居室に帰ったブライは、頭を抱えて嘆きました。


「我が神、我が神! どうして、こんな非道な仕打ちをお見過ごしになるのだ?」

その場にヒザまづき、開いた窓から空をうやうやしく仰ぎ見ましたが、星は静かにまたたくばかりで、何も答えてくれません。


「ああ、もはや、非道な神など知るものか! いっそのこと、悪魔に魂を売ってやる」

ブライは、怒り狂って、石づくりの床に拳を叩きつけました。

何度も何度も叩きつけるうちに、皮膚が裂けて、床が血で汚れました。


それでも怒りがおさまらず、いっそう激しく床を殴り続けているうちに、「ピシャッ」と、血しぶきが自分の目元に跳ね返ってきました。


ブライは、反射的にハッと目を閉じました。ほんの一瞬。

それから、また、パッと目を開けたとき、もう目の前には、背の高い深紅の髪の悪魔が立っていたのです。


なぜ「悪魔」だとすぐに分かったかといえば、黒衣に身を包んだその男の背中に、真っ黒い大きな翼が広がっていたからです。

それに、天使のように品のいい美しい顔には、浮き世ばなれした真っ赤な双眸そうぼうが、至高のルビーのごとく妖しくキラキラと輝いていたのです。


ブライは、ギョッとして身をのけぞり、後ろ手にシリモチをつきましたが、

「そうか、私の祈りを聞きとげてくれるのは、やはり悪魔しかないのか」

と、喜びとも落胆らくたんともつかない口調で言い捨てました。


不条理なまでに美しい悪魔は、少し鼻にかかった低い声で、おどろくほど柔和に口を開きました。

「そうだとも、ブライ。私は、闇の王子アルミルス。我が名を呼べば、オマエの願いはかなえられる」


「では、アルミルス。オレの頼みを聞いてくれ」


「よかろう。契約は成された。望みを申せ」


「じつは、オレの大切な妹シスレが、女王陛下の宝石を盗んだというヌレギヌを着せられて、牢獄に入れられてしまったのだ」


「ほう。それで?」


「女王陛下は聡明で慈悲深いお方なのに。妹の無実の訴えに、いっこうに耳を貸してくださろうとしないのだ」


「それはまた、どうした理由で?」


「知るものか! こっちが聞きたい」


「ふむ、なるほど。……女王は、オマエの妹に嫉妬しているのだ」

と、悪魔は、色の淡いクチビルの片方の端だけニンマリと引き上げました。


整った美貌であるほど、皮肉めいたその微笑みは氷のように冷たげで、ブライは今さらながらにゾクリと身震いしました。


「ま、まさか。高貴で美しく、この王国すべてを支配しておられる陛下が、たかがメイドに嫉妬などと」


「シスレの清らかな緑色の瞳は、女王のそれに勝る。そのことが女王には悔しくて仕方ないから、あらぬ罪をかぶせて、シスレを処刑したいのだ」


「そんなバカげた理由で、処刑だと!? ウソだ!」


「悪魔はウソはつかぬ。ヒトの子より、よほど正直だ」

悪魔は、心外そうに小さく鼻を鳴らしました。


ブライは、あわてて悪魔のスソにすがりつき、深々と頭を下げました。

「では、誠実な悪魔よ。妹が処刑をまぬがれるように、どうか助けてやってくれ。頼む。これがオレの願いだ」


けれども、悪魔は、酷薄な冷笑を浮かべたまま、さも困ったように肩をすくめました。

「叶えられる願いは1つきりで、もう終わりだ。この欲ばりめ」


「なにをいう? まだオレは、何も願いごとを叶えてもらっていないぞ!」


「いいや。ついさっき、オマエは、『女王陛下が妹の無実の訴えに耳を貸してくれぬ理由を、』と、私に願ったぞ。そして、私は、その答えをオマエに教えてやった」


「あっ……、そ、それは……」


「取り引きは完了したのだ。いずれ冥府の門で再び会おう、ヒトの子よ」


「待て、この汚いペテン師め!」


ブライは、立ち上がりざま、悪魔に殴りかかろうとしましたが、悪魔の姿は一瞬で見えなくなってしまいました。

熟れたバラのような甘美な残り香と、ブライの手の中に握りしめられた黒い大きな羽根1枚を、置きミヤゲにして。

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