第2話 人間は死人となんら変わりが無い

 今日はたまに来る心臓の痛みが今も続いている。明日は祝日にも関わらず自分はどんよりと全く気持ちが晴れないのだ。

 やることと言えばゲームしかないのだ。宿題も勉強もしたくないからしないのだ。

 ある人は.....いや、ほとんどの人が自分の事をわがままだと言い、少しは遠慮しろと言う。しかしそいつらを見ると授業中に騒ぐ奴はいるわ、下品にもわざとゲップを出すやつはいるわで何故そんなことが言えたのだろうと気になるのだ。

 わがままで何が悪いのかと言えば自分に不都合はないからデメリットは特に浮かばない。しかし周りの喧騒や物音はとても不愉快だ。何をしようとも周りがうるさいと自分にまでそれが飛んでくるので小説を読もうものなら集中できず、勉強をする人もいる中で最悪の環境と言えるだろう。

 何故そんな空間に3年間もいないといけないのだろうか?いや実質最低でも12年間という長い間をその環境で過ごすこととなるのに対し、国や教育委員会などのお偉いさんは何もしない、いや、する気が無いのだろうか? 奴らもまた金に目がくらんだ屍なのかもしれない。自分だって金が欲しいのだ。しかし、ここから貰ったところで嬉しくないのだ。自分は何かを成して、実績を得て、それから貰いたいのだ。

 やつらはその逆で先に貰ってテキトーにこなし、毎日のうのうと生きているのだろう? それでは死人と変わらないではないか。そこにやりがいは無く、ただ金が欲しいためにやっているのだからそれは何度も言うが死人と変わらない。

 なぜなら死人は何も話さず何も表情を変えず。ただ土の中で骨だけが長い年月を経つものだからだ。

 何かおかしいか? それならこんなのはどうだろうか? 

 例えば、今読んでいるあなたにも父親や母親がいるのだろう?いない人なら頭で想像してみてほしい。

 彼らが毎日仕事へ行くとき、その顔を見たことはあるか?その顔を思い出してほしい。みないい顔して行っていたら自分は笑いながら拍手しよう。しかし自分にはその顔が苦痛に歪んだような、嫌な顔をしているような気がしてならないのだ。

 みな金さえ手に入ればそれでいいのではないか?そうすれば毎日働かずになんでもできるしどこへでも行ける。だから今、必死に金を稼ぎに嫌かもしれない仕事をしてるのではないか?自分はまだ子供と言われる年齢なので何も分からないが。自分なら嫌だと思う。毎日、嫌いな上司に顔を合わせて、機嫌を伺いながら自分の仕事もこなさないといけないのに貰える額は少ないとなればどこに楽しさがあるのだろうか?

 見方を変えればどうとでもいえるのは分かってるのだ。しかし見方を変えればという時点でおかしなことだと思わないか?見方を変えるという事はその見方がダメと否定しているという事だろう?それではただ嫌な部分を隠しているだけで問題の根本をそのままにしておくだけなのだ。

 人間とはどこまでも愚かな生き物だと自分は思う。しかし決してすべてを否定するつもりではない。自分も人間、その結果は変えられないのだ。

 自分はアニメや小説は大好きだ。実に素晴らしいと思っている。小説は読む人によって見方が違い、実に興味深い。じっさいこれを読んだ人の中には大きく二つに分かれるのではないか?1つ目 その通りだなと開き直る者 これは多かれ少なかれ確かにいるのだろう?いないとなればそれまでだという事だ。

2つ目 いやそんなことはないと真っ向から否定する者 これが多ければまだマシだと自分は思う。その理由は言うまでもないと思うが念のため言う。

 簡単なことだ。1つ目は自分の意見に賛成する人で2つ目は否定する人、賛成が多ければ多いほどこの社会に不満を持つものが多いという事。違うとは言わせない。

 実際に人は必ずなにか不満なことがあるはずだ。無い人などそうそういないだろう。自分だって嫌なことは沢山あるのだ。自分は関心が低いほうで行動力に極振りしただけの者だからこれも興味本位で書いている。しかし関心は低いのであきればすぐにやめようとするから気を付けてほしい。いつの間にか音信不通になることなど当たり前にあるのだ。

 2つ目が多ければそれだけ不満が無いという事とは一概には言えない。上で説明した通り人は必ずと言ってもいいほど何かしら不満を抱えているのだから不満が無いなど断じて言えないのだ。では別の事に言い換えて説明しよう。2つ目が多ければ多いほど、幸せだという事だ。

 これでは分かりにくいかもしれないが実際そうなのだ。仕事にも前向きに取り組むことができ、なおかつ懐も温かいからその人はなんでもできるのだ。そんな人が多ければ幸せだと感じるのは必然で、自分もそれを望んでいるのだが、なかなかそれは叶わない。人は生まれながらに平等など言われているが確かに生まれは平等だ。しかしその後はどうだろうか?自分の場合はみんなが当たり前に知っていることが分からず、いろんなことをした結果、小学校6年間ずっと特別支援教室にいた。最後の1年はなんら強制的に普通教室へ行かされるものの自分は怖くてなかなか行きたくないと何回も言ったものだ。それは当然の事だと自分は思う。なぜなら5年ものあいだみんなと同じように学ぶことなどしないで遊んでいたから今までの生活が一気に変わることは恐怖のほかに何があるのだろうか?自分は異常だと保育園の人から言われたらしい。だが自分はなんら異常など無いのだ。身体のどこにも無いのだ。なのに特別支援教室に入れられたのだ。これは本来裁判沙汰にしてもいいと思っているのだが時効でそれは叶わないと思い、やめた。何回も恨んだ。そのせいで中学はじめの役員決めでもそれが響いたのだ。何回も恨んだ。殺してやりたいと何回も思った。でも今はそれすらどうでもよくなったのだ。自分は最初のふるいにかけられたときから落ちているのだ。そこからいくら頑張ろうと自分にはまともと呼ばれている道は歩けないことなど分かっているので努力すらもしないのだ。この自白癖のせいで中学2年生のころは酷く苦労したのだ。担任にはたくさんの迷惑をかけてしまった。この問題児を扱うことのできる人間などこの世にいるのだろうか?これは結婚さえできないだろうなと苦笑している。デブでわがままでなんもとりえのない自分はここで一人愚痴を書くのだ。これも愚痴とは言えないかもしれないが自分にとっては愚痴なのだ。

 そういえばまだあの理由を言っていなかったね。

 答えはいつでも単純なのさ。俺がなんら死人と変わらないからだ。

 生きる意味もなくのうのうと生きている人間は死人となんら変わりのない。

 これこそ、太宰治が言う人間失格なのかもしれない。この時点で俺は人とは違うのかもしれない。そんなこと知る奴などいると思うか?君はどう思う?自分の暗い作品を読んでくれる読者様は何を思う?

 

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