第38話 前を見ろ

 病院に着いた。急いで中に入る。

 順也は受付でしおりの親族を名乗り、居場所を聞いている。

 ふとロビーを見ると、そこには憔悴しきったじいさんが、1人でぽつんと座っている。俺はとぼとぼと歩き、じいさんの前に立つ。


 言葉が出ない。怖くて出せない。

 受付から順也が戻ってきた。無言のまま、じいさんの隣に腰を下ろす。

 なんとなくは分かる。だけど聞きたくない。聞くのが怖い。

 この間は、ほんの数秒だっただろう。だけど俺には、それが永遠と感じる。


「がんばったな……」


 順也が震える声を絞り出し、その握りしめた手に涙が落ちる。


「ああ、一生懸命生きたよ……あの子は……」


 じいさんも口を開く。まるで別人のように生気がない。


「しおりは……」


 俺は出したくなかった言葉を紡ぎ出す。震えが止まらない。


「――翼君か、来てくれたのか」


 じいさんは今やっと、俺に気付いた。


「おじいさん……しおりは……」

「……ついさっきじゃった。会ってやってきてくれ」

「…………」


 涙以外何も出ない。全く動けない。

 順也は立ち上がり、俺の腕をがっしりと掴む。


「行くぞ。……じじい、悪かったな」


 順也はそう言って俺を引っ張り、去り際にじいさんに一言残すと階段を上がる。そして、病室の中に入る。


 そこにはしおりがいた。

 すごくきれいな顔だ。朝見たままの、いつも俺に笑いかけてくれてたしおりだ。

 きっと眠っているだけだ。そう、眠れる森の美女のように。俺が横に来たら、きっとネタバレするに決まってる。ドッキリだったって。翼くんひっかかったって、きっとまた笑ってくれる。

 いいよ、どんなにドッキリにひっかかっても、泣き虫だって言われても。大笑いされてもいいよ。だから早く言ってよ、しおり。

 順也がしおりの前に立って、髪を撫でる。


「しおり、ごめんな。安らかにな」


 順也は大粒の涙をこぼしてる。

 随分手の込んだドッキリだな。もう大丈夫だよ。俺はもう十分騙されてるよ。もういいんだよ。

 順也はしおりから離れると、俺の背中を押す。


 近くで見るしおり。朝まで普通に会話していたしおり。早く動いてよ。早く話してよ。

 しおりの手を握った。まだ温かい。

 分かってるよ。最初から。これは現実だって。分かってたよ……。


「しおり、しおり、しおり――――」


 しおりの名前を連呼し、どうしようもないくらい泣いた。大声で泣いた。誰の目も気にならない。しおりだけしか見えないから。


「しおりちゃん……」

「――しーちゃん!」


 真由美さんと真理かな。分からない。誰か入ってきた。俺の反対に立って泣きながら、しおりとお別れをしている。

 俺はどうだったろう……どのくらい、そこにいただろう。あおはると夜野やのさんも、そのあと来たのだろう。全く覚えてない。そこで誰が何を話したかも、全く分からない。




「じゃあこれとこれが翼の荷物で、こっちはあたしが渡しておきます」

「おじいちゃん、今日はみんな連れて帰るからね」

「みなさん、わざわざすまんかったの」

「真理、荷物は俺が持つよ」

「ありがと、あおはる」

「結果は写真に撮って、一応ラインで送っておきました」


 誰が何を話してるのか。俺には分からない。




 ここはどこだ? 俺の部屋か? あれ、しおりは?

 朦朧もうろうとする意識の中、目に映った場所は自分の部屋に似ていた。


「じゃあ、ここに置いておくからね。あたし帰るから。翼、あんたは1人じゃないからね。みんなを見てね……」


 あれ、誰か何か言ったか? 俺はどうやってここまで来たんだ。何も覚えてないや。

 バタっという音。ドアが閉まったのか……やっぱり誰かいたのか。まぁどうでもいいや。




 翌日しおりの通夜を終え、またその翌日葬儀も終えた。

 俺ももちろん行ったのだが、記憶がない。どうやって行ったのか、誰と行ったのか。

 涙はもう枯れ果てていた。俺はただ呼吸をするだけの廃人になっていた。




「翼、ご飯置いておくからね。少しは食べるのよ」


 母さんが俺の部屋に、ご飯を運んでくれた。ありがとう母さん、でも反応できない。

 俺は母さんが好きだ。無視したい訳じゃない。ただ、体が動かないんだ。声が出ないんだ。見ることができないんだ。

 ――あれ、兄さんが亡くなったときって。


 俺の口が動く。


「母さん……」

「翼、話せるようになった?」

「ごめん、ありがとう」

「丈志のとき、きっとお母さんもそうだったから。気にしちゃだめ。気持ちは分かるわ」


 そうだ、兄さんのとき、母さんもこんな気持ちだったんだ。


「おばさん、こんばんは」


 玄関で声が聞こえる。母さんは階段を降りる。


「翼、話せるようになった?」

「真由美さん……」


 真由美さんが入ってきた。


「ほら、真理ちゃんも入って」


 真由美さんに促され、真理があとから入ってくる。


「久しぶり、翼……」

「真理……」


 そうだ、真由美さんも兄さんを亡くしたとき、こうだったのだろうな。


「真由美さんは、兄さんが亡くなったあとって……」


 そのあとの言葉に詰まってしまったが、真由美さんは俺の質問を察して答えてくれる。


「そりゃ、落ち込んだに決まってるでしょ。毎日毎日泣いて。どんなに泣いても涙が出てきて。何もやる気が起きなくて、もうこのまま死んでもいいって思ったわよ。」


 そうか、真由美さんもやっぱり同じだ。


「でもね」

「でも?」

「あるとき、丈志の言葉を思い出したの。『前を見ろ』って。よく言ってたよ、あいつ」


 前を? それって確か……。


「そしたらさ、丈志はちゃんと生きてるんだよ。私の中で。いつも私を見守って、励まして、叱って。どんなときもあいつはいたよ、私の隣に。翼の全日本のときだって、見守ってたよ」


 そうだ、あのとき兄さんが来てくれたんだ。兄さんはちゃんと、俺たちの中に生きているんだ。


「翼、覚えてないかもしれないけど。これ、全日本のときの翼の荷物。あとこっちは、おじいさんから頼まれた、しーちゃんから翼あての荷物。こっちのは、あたしから翼への……」


 真理は俺の気持ちを気に掛けながら、丁寧に言葉を選び伝えてくれた。


「真理ありがとう」

「ううん。あたし、これから練習だから。よかったら翼も……ううん、行ってくるね」


 練習? そっか今日は土曜か。あれから1週間近く経つのか。


「真理ちゃん、送っていくよ。じゃあね翼。誰かと話したくなったら、いつでも言いなよ」

「うん、ありがとう真由美さん。真理」


 俺はそう言って、2人に別れを告げる。


「そうか、真理がさっき言ってた荷物」


 俺は自分のボロボロの楽器ケースを、押し入れにしまう。


「これは、真理からとか言ってたな」


 そのかわいらしい紙袋を開けると、中からマフラーが出てきた。


『翼、誕生日おめでとう。あたしの手編みだよ。ありがたく使いなよ!』


 特徴的な文面のカードが添えてある。

 はは、いつもの真理らしいな。ありがとう。


「こっちは、しおりからか」


 俺は恐る恐る、しおりからの「荷物」を見る。


「これって全日本のとき、しおりが持ってた……」


 あの大きいバッグだった。

 中にはラッピング袋が入ってた。俺はそれを丁寧に開ける。


『ハッピーバースデー翼くん♪ 私からの初めてのプレゼントだよ。気に入ってくれないと泣くからね』


 そこにあったのは、真新しいサックスケースだった。


「しおり……」


 枯れたはずの涙がこぼれると、バッグにはまだ何か入っていた。


「手紙……?」


 俺は夢中でそれを読んだ。




 そして涙はやっと底を尽き、俺はその新しいケースにサックスを入れて、階段を降りる。


「母さん、練習行ってくるよ」

「翼。いってらっしゃい」


 母さんは驚いた顔をしながらも、余計なことは言わず、笑顔で送り出してくれた。


 外に出ると、風花が舞っていた。


「ちょうどよかった。こんな寒い日には」


 首には真理が編んだマフラーを、しっかりと巻いている。

 1人冬の夜空を見上げながら、あおはるの家に向かう。


「兄さん。しおり。ありがとう」


 俺は夜空の2人に言った。




 ずっと思い出せなかった、兄さんの最後の言葉。俺に伝えようとした、兄さんの言葉。やっと思い出したよ。




 練習場の、地下室のドアの前で目を閉じる。手を伸ばして、ゆっくりとドアを開ける。

 そして兄さんの言葉を思い出しながら、ゆっくりと目を開く。


『前を見ろ、翼』

「うん、兄さん」






そこには、優しく俺を迎えてくれる、いつもの仲間たちの笑顔があった。

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