最終話 君がくれた翼

 7か月後。


「兄さん、行ってきます」


 仏間で、兄さんに線香をあげる。


「じゃあ、行ってきます」

「翼。無理ならいつでも、帰ってきていいんだからね」

「あはは、ありがとう母さん」


 母さんは突然、俺を抱きしめる。


「体に気を付けるのよ。寂しくなったら、いつでも電話しなさい」


 母さんの声が震えている。

 ごめんよ、また1人にしちゃうね。でも大好きだよ、母さん。

 しばらくそのまま抱きしめたあと、母さんは言った。


「本当に、空港まで見送りいらないの?」

「うん、みんなが来てくれるから」

「そっか、いい友達に恵まれたわね。お父さんにもよろしくね」

「うん」


 母さんにも挨拶を終えた。


「ちょっと、翼。もう行くよ」


 車で待っていた真由美さんが、急かしに来る。


「おばさん、翼いなくても私遊びに来ちゃっていい?」

「もちろんよ、真由美ちゃん」

「ってことで、おばさんのことは任せなさい」

「はいはい、どうも」


 真由美さんはすっかりお姉さん面だ。まぁ確かにそれだけ、いやそれ以上に世話になってる。真由美さん、母さんをお願いします。

 楽器ケースを背負い、俺は真由美さんの車に乗る。


「翼。パスポート、ちゃんと持ってきた?」

「あぁ、もちろん」

「ほかに忘れ物ない? 書類とか」


 車内では真理が、俺の身の回りの心配を始める。


「もう真理ちゃん、いい奥さんになるわね」

「茶化さないでください……」


 真理は、顔を真っ赤にして下を見る。




 真由美さんに車で送ってもらい、成田空港に着いた。


「お~、やっと来たかお主たち」

「お待ちしておりました」


 空港では、あおはると夜野やのさんが出迎えてくれた。


「あれ、あいつは?」


 真由美さんが、あおはるたちに聞く。


「あちらで、搭乗手続きをしております」


 夜野さんが答える。


「そうだあやつ、電車の乗り方が分からぬから一緒に来てくれと、某をこき使いおって」

「ボス、お言葉ですがわたくしが全部……」


 どうやらあおはるは、役に立たなかったらしい。


「おう、やっと来たか翼。お前も早く手続きしろ」

「待ってよ順也さん。手続き終わったなら教えてよ。俺初めてで……」

「ったく」


 俺と順也さんは、搭乗カウンターに向かう。




「あいつら、もう兄弟みたいね」

「あはは真由美さん、あたしもそう思う」


 真由美さんと真理が、俺たちを見ながら言う。


「でもまさか、2人とも留学決まるなんてね」

「本当にわずかの、僅差だったみたいですね」

「某も出場しておれば、今頃飛行機に乗っていたであろうな」

「僅差でも優勝とは、先輩方さすがです」


 あおはると夜野さんも会話に混ざる。


「でもいいの? 真理ちゃん。翼が行っちゃっても」

「はい。あたしもいつか、翼に追いつきます。きっと」


 真由美さんは優しい目で、真理を見つめる。




「みんなお待たせ」


 無事に搭乗手続きを終えた。


「あれ、そういえばじじいはどこに消えた?」


 順也さんがあおはるたちに聞く。


「『かわやに行く』と、おっしゃっていました」


 夜野さんが答える。


「なんだ、あの世じゃないのか」

「なんじゃと?!」


 順也さんが笑いながら言うと、その背後からじいさんが現れ、順也さんの耳を引っ張った。


「いててて、やめろじじい。悪かった。冗談だって」

「ふん、恐れ入ったか」


 いつの間にかこの2人も、普通に接するようになっていた。普通……だと思う。


「まぁなんじゃ、翼君も順也も。わしの弟子たちが一緒に巣立つのは、感慨深いのう」

「俺、じじいの弟子かよ……」

「何言っとる、当たり前じゃ。フランス語まで手ほどきしてやったじゃろう。お前と丈志君と翼君は、みな兄弟弟子じゃ」

「そういうことみたいなので、よろしくお願いします」


 俺は苦笑いしながら、順也さんに言う。


「ふん、まったく。仕方ねえな」


 順也さんも笑い返す。


「そうだ真由美、お前は俺と一緒に来なくていいのか?」


 唐突に順也さんは、真由美さんに言う。


「はぁ? なんで私があんたと一緒に行くのよ」

「なんでって、お前俺と一緒に来たいのかなって? モージュナ?」


 順也さんはたじろぎ始める。


「そんな台詞は、丈志以上の実力付けてから言いな。まぁ無理だろうけどね、丈志は天才だから」


 真由美さんは自慢そうに言う。


「お前、見てろよ。帰国したときの俺の演奏聴かせて、惚れさせてやるからな」


 すごいストレートな人だな……。


「ふん、期待しないで待っててやる。男を見せてみなさいな」


 真由美さんが一枚上手だ。




「じゃあ最後、みんなで記念撮影しましょ」


 真由美さんの号令で、俺たちは集まる。


「これか? これを押せばいいのだな……?」

「そうよ春人君、それ押したらここにダッシュね」


 真由美さんは、カメラのタイマーをあおはるに託した。いささか不安ではある。


 あおはるはカチっとボタンを押して、こっちに走ってきた。

 そして派手に転ぶ。

 倒れ込む体は夜野さんの方向に流れ、そのままキスをしてしまった。同時にカメラのシャッター音が響く。


「あ……」


 真理は次の言葉が出ないようだ。


「春人君やるわね」


 真由美さんは笑顔を見せる。


「ほう、これは見せつけられたな」


 順也さんもにやついている。


「ばあさんを思い出すのう」


 じいさんは感傷に浸っている。


 俺はポカンと口を開けて、そんなみんなの反応を見ていた。

 それぞれの注目を集め、あおはるは慌てる。


「ちょ、これは……」


 必死に離れようとするあおはるであったが、その顔は夜野さんの両手で、しっかり固定されてしまっている。


「ボス、みなさまの前で……」


 うっとりする夜野さんであったが、むしろあおはるが襲われているようにしか見えない。まるで蜘蛛の巣に捕らわれた、毛虫のように。




『エアーフランス205便、間もなく搭乗を開始いたします』


 アナウンスが流れる。


「しっかりね」


 真由美さんは俺たちに言う。


「某に追いつけるよう、精進せい」

「ボス。むしろわたくしたちが、追いかける側です」


 あおはると夜野さんも、餞別の言葉をくれる。


「寂しくなるのう」


 寂しがるじいさん。そして最後に真理が口を開く。


「翼! これ持っていきな」


 そう言って渡してきたのはお守りだった。


「え、これなんのお守り?」


 見ると恋愛成就と書いてある。


「いい? しっかり腕を磨いて、そして無事に帰国して、それをあたしに返すこと!」

「あぁ。って、なんだよそれ……」


 そう言いかけると、真理は俺に寄ってきて首に両手を回す。


「え?」

「それ以上、言わせないで……」


 真理は俺にキスをした。

 突然の出来事に、他のみんなも唖然としている。

 体が離れると真理は言った。


「あがいてやるから。あたし必死にあがくから!」

「ああ」

「帰ってきたとき、あたしのピアノで翼を驚かせてやるから!」

「うん」

「――だから、あたしを忘れないで……」

「もちろん」


 真理との別れも終え、俺は順也さんと飛行機に乗り込んだ。




「真理ちゃん、やったね」

「真由美さん、あたしがんばる……」


 真由美さんは泣いている真理の頭を、優しく撫でていた。




 座席に座ると、手荷物からマフラーを出して首に巻く。


「さすがに夏は暑いな。ったく、真理のやつ。ちゃんと連れてきたっつうの」


 頬に肘をつきながら、窓の外に向かって微笑む。


 まるで昨日のようだった。

 君に出会ってから、もう1年半以上経った。

 ずっと孤独の中にいた俺。周りを見ようとしなかった俺。なんの希望もなかった俺。

 そんな俺の心の扉を、君は見事に破ってくれた。こんなにも素晴らしい景色を見せてくれた。俺にたくさんのものをくれた君は、1人で旅立った。


 どんなに離れていても、みんなはいつも俺の中にいる。

 みんなが。しおりが。君がくれた翼で、俺は今大空へ羽ばたく。

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