第37話 しおりのもとへ!
「しおり……」
しおりはにっこりと、俺の目を見る。満面の笑み。すごく幸せそうで、すごく楽しそうに。
そしていつものように、真理に目で合図を送る。真理はしおりの合図に頷き、伴奏を始める。
しおりは指先から、ゆっくりと動きだす。そしてすぐに、俺にも合図を送る。情景のスタートだ。
柔らかなタッチから入る。しおりのダンスも、優雅に湖上を歩く。
『おい、なんだよ……なんで俺は、湖にいるんだよ……』
椎名優は、雄大な湖を見ている。
『あり得ない……でも、確かにそこにいるわ。美しい白鳥が』
田部井里佳子は、湖上の白鳥を見つめる。
『丈志、ありがとう……翼は羽ばたくよ、ちゃんとできたよ。彼の世界が』
真由美さんは、俺の音を見る。
『しおり……お前は……そうか、イャ プニマャユ。これが「お前のやりたいこと」だったんだな』
天川順也は、そこに舞うしおりを見る。
表情から誰が何を見ているのか、感じ取れた。
湖上を自分のものにして、しおりは舞う。ずっと見たかった、しおりのダンス。ずっと見せたかった、しおりの舞台。
俺は、いや。俺と真理は、持てる全ての力を持て余すことなく、むしろ自分たちの表現の限界を超えた音を出す。
ときにゆっくり歩いたかと思えば、今度は力強く湖上を跳ねる。しおりは白鳥そのものだ。
世界一のダンサーだ。そのダンスは俺を魅了し続ける。俺はしおりに釘付けだ。
必死に演奏を続ける。音を出し続ける。しおりを羽ばたかせるために。大粒の涙とともに。
――――だってしおりの足は、義足じゃなかったから。
自由になった白鳥は、まるでなにもかも知り尽くしているように、湖を、森を、草原を、これでもかと言うくらい好きに飛びまわる。
その顔は本当に幸せそうで、一片の曇りもない。
曲がクライマックスに近付いたとき、しおりは俺の前に降り立った。
嬉しそうに楽しそうに俺を見つめ、俺の涙を手で拭うと両手を握る。
「しおり……」
俺の言葉に笑顔で返事をする。そして俺の手から翼を抜き出すと、それを自分の体に取り込んだ。
もう曲は終わる。しおりは俺に笑顔を見せながら、その翼で空に羽ばたいていく。
「……くな……いくな……行くな、しおりぃぃぃぃ!」
叫ぶ俺に最後、しおりの口元が動いたのが見えた。
『ありがとう』
渾身の演奏だっただろう。同じ演奏をしろと言われても、二度とできない。それくらい、色々な思いが混ざった音になった。
曲が終わると客席は、いや舞台裏も含めて、その会場全てで、これ以上ない拍手が起きた。みな立ち上がり、涙を流す人、息を荒くする人、目を大きく開ける人、口が閉じない人。
そこにいたみんなが、俺たちを称えた。
それらを感じ取ると、俺たちは涙を隠すことなく、客席に一礼した。
控室に戻ると、すぐにスマホを手に取り、しおりに電話する。
何度コールしても応答がない。もちろん、しおりが会場内にいたら電話に出れないだろうけど、さっき見たあおはるたちや、演奏中に現れたしおりのことがあるので、不安しかない。
「翼、これ……」
真理がバッグから何か出して、俺に渡そうとしてきた。
「ちょっと待って」
「うん……」
すぐにあおはる、そして夜野さんにも電話する。両方反応がない。ラインを送っても、既読が付かない。
「真理ごめん、ちょっと先に行ってる」
「あ、つば――」
真理は何か言おうとしてたが、今はそれどころではない。俺はあおはるたちを探して、会場内を走り回った。
「翼」
名前とともに、後ろから誰かに肩を掴まれる。
「あおはる……」
振り返ると、探していたあおはるがいた。
「おい、何があった?! どうしてここにいる? しおりはどこだ?!」
あおはるが俺のことを、「翼」と呼ぶなんて子供の頃以来だ。それだけ深刻な、何かがあったはずだ。俺は周りなど気にせず、取り乱しながらあおはるに迫る。
「落ち着いて聞いてくれ……」
あおはるは俺に、事情を話し始める。
それによると、ダンスのリハーサル中にしおりが倒れ、AEDまで使う事態で搬送されていったと。そして、身内のじいさんを病院に向かわせるために、ここに来たと言う。
「…………」
俺は腰から崩れ落ちる。しおりの病気は知っていた。命が長くないことも知っていた。知っていたのに、いざそれを知らされると、どうにもならなかった。
「ならなんで……ならなんで、俺に連絡してくれなかった?!」
俺は立ち上がり、あおはるの胸ぐらを掴んで怒鳴り散らす。
「すまん……」
あおはるはぐっと、唇を咬む。
「ごめんなさい。翼先輩に連絡をしないように言ったのは、わたしです」
「なんでだよ……なんで、俺に言ってくれないんだよ……」
「大会が終わるまで、出番が終わるまでは言わないほうが。演奏に響くと思ったので、ごめんなさい。本当に……」
夜野さんが泣き出した。彼女の涙を初めて見る。
そうだ、2人とも俺を気遣って、俺の演奏の邪魔をしないようにしてくれていたんだ。それは分かってるんだ。分かってるんだけど……。
突然目の前に、パチンと火花が飛んだ。いや、誰かが俺の頬をビンタしたのだ。
「真理……」
「目を覚ましなよ翼! あんたしかいないでしょ? しーちゃんのとこ、行ってあげられるの……」
真理は泣きじゃくりながら言う。そうだ、こんなとこにいる場合じゃない。しおりのところに行かないと。
「あおはる、病院は?」
「そこだ」
あおはるがロビーの出入口を指す。
「翼、早く乗って!」
そこには、車を出入口前に横付けした真由美さんがいた。
「お前たちの荷物は、俺が責任をもってまとめて持っていく」
「結果発表も確認して、写真に撮って報告します。だからこちらのことは気にせず、行ってください」
あおはるも夜野さんも、こんな俺に言ってくれた。
「翼、行こう!」
あおはるたちに一言礼をして、真理と一緒に真由美さんの車に乗り込む。
「真由美さん、お願いします!」
「飛ばすわよ」
車は猛スピードで発進する。みるみる会場が小さくなっていった。
「くそ……全然進まない」
しばらく進むと、車は渋滞に捕まってしまう。
「真由美さん、なんとかなりませんか……」
どうにもならないのは分かっているが、俺は真由美さんに言ってしまう。
「そんなこと言われたって、前見なさいよ。こんな状態で……」
真由美さんが俺のほうを見て、そう言いかけたところで不敵に笑う。
そして真由美さんは、助手席の窓を開け始める。
「ちょっと真由美さん、なんで窓を?」
そう言って開けられた窓を見ると、1台のバイクが俺の真横に止まっていた。
「あとはよろしく」
真由美さんがそのライダーに言うと、バイクにまたがった人物はヘルメットを脱いで、それを窓越しに俺に渡してきた。
「早く乗れ」
「順也、さん?」
ヘルメットの下のその顔は、天川順也だった。
「翼、早くバイクに。あたしは真由美さんと、あとから行くから」
真理が俺を急かす。
「お先に行かせてもらいます」
俺は真由美さんと真理に言うと、ヘルメットを被ってドアを開け、バイクの後部に跨る。
「しっかり捕まってろよ」
順也の腰に両腕を回すと、バイクは勢いよく急発進する。体も意識も、後ろに置いて行かれそうだった。
「真由美さん、今日翼の誕生日なんだ……」
一瞬、残された車内を振り返ると、真理が真由美さんに何か話しかけていた。
「順也さん、どうして……?」
吹き付ける風に抗いながら、俺は順也に聞く。
「は? なにが」
「どうして俺を乗せてくれ……たのですか……?」
一呼吸明け、順也が答える。
「どうしてって、お前しかいないだろうが」
「え?」
「しおりの隣にいてやれるのは、お前しかいないだろ!」
「順也、さん」
「認めたくないけどな、お前の演奏はしおりを連れてきた。あいつは幸せそうに踊ってた」
「…………」
言葉が出ない。この人にもしおりが見えていたのだ。俺の運んだ音が。
「って、ノーヘル大丈夫なんですかー?!」
順也の頭を見て、慌てて言う。彼のヘルメットは、俺が被っている。
「知らねーよ。アメリカじゃこれが普通だ」
「ここは日本ですー」
俺の言葉は、風にさらわれないようにするのが精一杯だった。
待ってろよしおり。みんなが俺に渡してくれたバトン。今、届けに行くから。
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