第36話 兄弟セッション
ステージの上に立った俺は、演奏どころではなかった。さっき目にした映像が、俺の心を不安で支配している。
一方、観客席には――――
『俺は全力を出した。あとは黒井、お前の全力を見せてもらうぜ』
椎名優。
『さぁ、あなたたちの音楽を、本気を見せてもらうわよ』
田部井里佳子。
『お前は丈志にはなれない。俺を超えることはできない。その身でとことん思い知るがいい』
天川順也。
『翼、私がここにきたのは……順也の伴奏をしたのは。丈志、翼を見守ってあげて』
飯島真由美。
――――ライバル達の姿があった。
だがすぐに、俺には何も見えなくなる。視界はどんどん暗くなる。それは、順也のプレッシャーのせいではない。
いるはずのないあおはるたち。あるはずのないロビーの光景。不安だけが重く重く、俺の心と体を支配している。
硬直する体、力が全く入らない。マウスピースを、口に運ぶこともできない。
(翼、あたしだめだよ。緊張とプレッシャーで、体がガチガチで動かないよ。せっかくあたしを選んでくれたのに、あたしのせいで。ごめんなさい……)
真理は鍵盤の前で、震える唇を咬む。
白鳥の湖 序曲~ワルツ~情景終曲
曲がアナウンスされる。でもだめだ、だって前が見えない。体が動かない。もうこの場から逃げ出したい。
兄さんはなんで……なんでこの場を目指したの? なんで真由美さんを残して、1人で行こうとしたの?
『おいあれ、黒井って黒井丈志の弟か?』『あの黒井?』『なんかさ、始まらないよな……』『どうした、演奏は?』『まったく動かないぞ』
会場の雑音さえも、もう俺の耳には届かない。真っ暗な視界、無音の世界。
『なんでって、決まってるだろ。前に進むためだ』
「……兄さん?!」
兄さんの声が聞こえた。俺は目を開く。
『翼。お前がどこまで上達したか、見せてみろ』
隣には笑顔の兄さんがいた。
『おいおい、さすがに演奏始めないとまずくないか』『時間大丈夫なのか?』『これ失格とかあるの?』『黒井丈志のような演奏、期待してたんだけどな』
さらにざわつく客席。
「兄さん……」
兄さんはサックスを構え、俺に向かって微笑む。
俺も慌ててサックスを構える。
兄さんが俺に合図を送り、俺と兄さんとの初めてのセッションが始まる。
「え、翼……うん、わかった」
サックスを構えた俺を見て、真理もすぐに伴奏を開始する。
兄さんとは初めてなのに、全く重なったハーモニーを奏でた。兄さんの技術がそうさせたのか、俺の成長がそうさせたのか。それは完璧な音色を作り出す。
「兄さん、来てくれたんだね」
『翼、大きくなったな~。よく、ここまで来たな』
「兄さんが目指した場所だから」
『ありがとうな、翼。でも、後ろの子にも感謝しなきゃだぞ』
そう言って、兄さんは真理を見る。
『あんなに一生懸命。お前の音を、こんなにも広げてくれるピアニストなんか、他にいないぞ』
「真由美さんがいるじゃん」
俺は兄さんに微笑む。
『そうだな、真由美と同じだ』
俺たちは、初めてのセッションを楽しんだ。笑って会話しながら。全力で楽しんだ。
『丈志……ありがとう……』
真由美さんは口を抑え、大粒の涙をこぼす。
『ボージュ モイ! バカな、黒井丈志だと。なんで俺にお前が見えるんだ……』
天川順也は、驚いたような眼差しで、ステージを見つめる。
『なんだよこれ……サックス1つなのに。なんで、二重奏に聞こえるんだよ……』
椎名優は驚愕に包まれている様子だ。
『これは……これじゃまるで、黒井丈志君そのもの。いいえ、それ以上……』
田部井里佳子は絶句している。
兄さんのおかげか、会場を見る余裕も生まれた。
「でも兄さん。前に進んでも、真由美さんが残されちゃうじゃん」
『それはお前が、目で見てるからだろ』
「当たり前だよ。そのために目があるんだから」
『……当たり前か。翼、これを見てみろ』
そう言うと兄さんは、俺の視線を客席に向ける。
観客たちはみんな前を見ている。距離はあるはずなのに、顔がよく見える。だけどその目は、どこを見るということもなく、ただ漠然と前を向いている、という感じだ。
『ほら、みんなお前を見ているぞ』
「見てるって……前は向いてるけど、みんなの目は、色んなほうを見てるじゃないか」
『目じゃない。耳で見ている。体で見ている。心で見ているんだ。お前の演奏を、お前の音を』
「?!」
それを聞いた瞬間、俺の目の前にも湖が広がった。
『お前にも見えたか。観客の見ている景色、お前たちの作った景色が』
「そうか、俺たちの音楽がこれを作ってるんだ。そうだ……兄さんの演奏を聞いてたときもそうだった。俺たちがみんなで演奏したときも、順也や椎名の曲を聞いた時も。俺は音を見ていたんだ」
『思い出したか、翼』
「うん、兄さんありが――」
兄さんはどんどん、遠くに消えて行く。
「待って兄さん、俺を残して行かないで」
『残してないだろ。俺はお前の中にいる。お前も俺の中にいる』
「そんな、俺まだ分からないよ……」
『真由美もいつも俺の中にいた。だから離れていても、いつも一緒だった』
「詭弁だよ、それは……」
『そう思うのか? お前も見えてるはずだぞ? お前の大事な人が』
そう言い残して、ワルツが終わるとともに兄さんは消えた。
俺はマウスピースを口から離す。
兄さんが来てくれた。素直に嬉しかった。でも、心の中にいるというのが分からない。それは夢のことなのか、信念なのか、思い出なのか。
次の入りを合わせるため、俺は真理を見る。
目を大きく見開いた真理の視線は俺じゃなく、俺の後ろに向いている。
俺は、真理の視線の先に目をやる。
そこには、飛びっきりの笑顔のしおりが立っていた。
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