第34話 2人の全日本

「おはよう」

「おはよう翼くん。よろしくお願いします」


 翌日から、俺としおりの新聞配達が始まった。晩秋の冷える早朝だったが、周りに誰もいない。しおりと2人だけの時間を、俺は心底楽しめた。

 いつも通り昼は音楽室で過ごし、夜は河川敷でしおりと2人で、演奏とダンス。週末は、あおはるの家でみんなと練習。

 朝から晩まで毎日頑張ったが、疲れどころか幸せで胸がいっぱいだった。


    *****


「あっと言う間だったな」

「翼くん、ほんとに毎日ありがとう。いよいよ、明日が最後だね」


 いつものようにあおはるの家でみんなで練習したあと、しおりと2人で河川敷に来ていた。

 毎朝続けた新聞配達も、明日で終わりだ。眠さと寒さなどどこ吹く風で、しおりと過ごした時間はとても充実していた。俺たちはその一月を振り返り、笑顔で語り合った。


「1つ、いいかな?」


 しおりは不意に、俺に聞いてくる。


「一曲、リクエストを」

「うん? もう1回?」


 全日本に選んだ曲「白鳥の湖」かと思い、しおりに確認する。


「ううん。翼くんに初めてお願いした曲」

「あぁ、いいよ。オッケー」


 すぐに分かった。ここで初めてしおりと出会い、そしてリクエストされた曲。

 俺はしおりの目を見ながら、丁寧に演奏を始める。

 しおりは深く目を瞑ってから、ゆっくりと手を動かしていく。

 初めて吹いたとき、俺の自信を引き出してくれた君のダンス。今は余裕を持って音を出せる。奏でながら一挙手一投足、しおりの動きを追う。

 切ない表情から、優しく踊る。音に合わせて、次第に力強く、激しくなる。

 そして、笑顔で舞った。いや、飛んだ。

 楽しそうに空を羽ばたくしおり。俺の音は彼女に風を送り、一緒に高く高く飛んだ。


「やっぱり、全然違うよ。すごく上手。私本当に空を飛んだ気がする」


 演奏が終わり、踊り終えたしおりは俺に微笑みかける。


「しおりこそ。しおりのダンス、表情からなにから、俺に色んな景色を見せてくれた。これなら全日本、楽勝だな」

「んもう。お世辞ばっかり」


 俺たちは見つめ合い、2人で大笑いした。




「はい、お疲れ様でした。1か月ありがとうね、しおりちゃん」

「ありがとうございます」


 あっという間の1か月が過ぎ、最後の新聞配達を終えた。社長のおじさんはそう言って、しおりに茶封筒を手渡す。


「それと、彼氏もありがとうね。給料とまではいかないけど、これはおじちゃんからほんの気持ち」

「あ、いえ。そんな俺は……」


 おじさんは俺をしおりの彼氏だと思い込み、俺にも茶封筒を差し出す。しおりもそこを否定しなかったのは嬉しかった。


「そう言いなさんな。中身をみてがっかりされると、おじちゃん悲しいから、さっと受け取ってよ」

「あ、はい……ありがとうございます」


 俺ももらってしまった。すごく気さくな社長さんだった。


「予定外の収入だ……そうだ、これで俺おごるから、朝飯食って帰ろう」

「え、いいの? じゃあお言葉に甘えちゃうよ?」


 今日は日曜なので、このあとはゆったりと過ごせる。




「もう来週だね、全日本」

「あっと言う間だったな」


 マグドナルドで朝マッグを食べながら、俺としおりは全日本のことを話した。


「どう? 手ごたえは」

「まぁ、やれることはやったかな。しおりは?」

「私もバッチリ。翼くんのおかげで、もうこれ以上できないってくらいのダンスが出来そうだよ」


 そう言って力こぶを作ったしおりだったが、気のせいかか細く見える。


「俺も、しおりがやるって言うから決めた曲だし。だから、しおりのおかげだ」


 俺たちが選んだ曲は、ともに白鳥の湖。古典バレエの名曲だ。ただ、それ故にしおりの足や体への負担を心配したけど、やりたいというしおりの強い意志を尊重した。


「来週の土曜が、最後の練習ね」

「そうだな。真理もかなり上手くやってくれてるし、優勝は分からないけど、普通にやれば上位は目指せそうだよ」

「椎名さんだっけ、出るのよね? 伴奏者は、田部井さんかしら?」

「まぁ、そうじゃないかな?」

「あとは、お兄ちゃんね……」

「伴走者、聞いてないの?」

「あの人、変に秘密主義で教えてくれないの……」

「あはは、なるほど」


 サックスのほうは、椎名と順也が出場してくる。順也のピアノ伴奏者が分からないのが、少し不気味だけど。今までやられたお返しもしたいし、是が非でも勝ちたい。

 その後、他愛もない話に花を咲かせ、俺たちは店を出た。




 そして練習最終日。


「よし、真理オッケーだ。この調子なら明日いけるぞ」

「ふぅ~、あたしもちゃんと頑張ったでしょ?」

「ああ、さすが俺が選んだピアニスト」


 そう言って、俺は真理の頭を撫でる。真理は照れ臭そうに下を向く。


「やるではないか、ロシアンブルーよ」

「しおり先輩完璧です。ただ、お疲れのようなので明日の本番に備え、帰ってすぐに横になるのがよろしいでしょう」


 リハーサルを終えたしおりは、いつも以上に汗をかいている。


「うん、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えてお先に失礼するね」


 しおりはそう言いながら、タオルで汗を拭く。


「明日は別会場だから、途中までしか一緒に行けないけど、こっちが終わったらすぐ、しおりの会場に行くからな」

「しーちゃん、お互い頑張ろうね」

「うん、ありがとう。また明日ね」


 そう言って、出て行くしおりの後ろ姿を黙って見送る。


「じゃあ、最後にもう1度、リハーサルして終わりにしよう」


 真理にそう言って、リハーサルを完了させた。




 迎えた、大会当日の朝。


 俺はいつもより早くセットした、目覚ましのアラーム音で起きる。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。

 楽器をチェックしてから、着替えて階段を降りる。


「おはよう」

「おはよう、ちゃんと起きれたのね」


 母さんが、もうご飯を用意してくれていた。

 それを食べ終えると、俺は兄さんに線香をあげる。


「兄さん、行ってくるよ」


 玄関で靴を履く。そこにはもう、500円玉は置いてない。


「行ってきます」

「頑張ってね翼、気を付けていってらっしゃい。帰ってくる頃には、ご馳走用意しておくからね」


 全日本の前祝いなのか、俺の誕生日のお祝いなのか、どちらにしても晩御飯が楽しみだ。そんな母さんに笑顔で見送られ、家を出る。


「今日はいい天気だな」


 自転車に跨って見上げると、空には雲一つない青空が広がっていた。




「おはよう、翼」

「翼くん、おはよう。いい天気だね」

「漆黒卿よ、寝坊せずに来たか」

「おはようございます。翼先輩」


 俺もみんなに挨拶を返す。


「おはよう、みんな」


 駅で全員揃った。出場は3人だけど、あおはると夜野やのさんは、しおりの応援と会場までの案内役だ。


「しおり、なんか荷物大きくないか?」


 しおりのバッグは、衣装だけにしてはやたら膨れている。


「あはは、見た目より中身は軽いから」


 そう言って、しおりは笑う。


 電車が来た。爽やかな朝の空気の中、俺たちは電車に乗る。

 真理は白鳥の湖をイヤホンで聞きながら、鍵盤を弾くイメトレをしている。あおはるは追われている犯罪者のように、辺りをやたらと警戒している。夜野さんは静かに読書。しおりは俺の横でうとうとしている。

 みんなの様子を確認すると、俺はゆっくり瞼を閉じる。


「――ばさ、翼」


 真理が俺をゆすって起こす。どうやら寝てたらしい。


「乗り換えだよ」

「あ、そっか。サンキュー」


 隣を見ると、しおりはまだ寝ている。しおりの会場の最寄り駅はまだ先なので、あおはるたちには駅に着くまで、そのまま寝かせてあげるようお願いした。相当疲れが溜まっているのだろう。




 俺たちは会場の、東京国際フォーラムに到着する。

 突然スマホが鳴った。画面を確認すると、しおりからの着信だ。


「どうした?」


 電話に出ると、しおりは言う。


「翼くん、私たちも今会場に着いたよ……」

「そっか、よかった。こっち終わったら、すぐ行くからな」

「ありがと。頑張ってね、翼くん……」

「あぁ、ありがと。しおりこそ、頑張れよ」

「うん……このまま、電話繋いでいたいな……」

「あはは、バカ言うな。会ったら、好きなだけしゃべれるから。じゃあ」

「じゃあね翼くん……」


 電話を切ると、すぐにしおりから画像が送られてきた。

 しおりのダンス会場。代々木体育館をバックにした、自撮り写真だ。頭にはお祭りのときに射的で取った、うさぎのカチューシャをしている。

 かわいい……。俺はにやけてしまう。そして真理は隣でなぜか、不機嫌な顔をしている。

 その無言の圧力に俺は目をそらし、東京国際フォーラムを正面に見る。

 兄さんが出場することのなかった全日本。俺が兄さんの夢を叶えるんだ。密かな思いを胸に秘め、会場に入る。


 ここから、本当の戦いが始まるんだ。

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