第29話 心配は杞憂?
『兄ちゃんは、もし優勝したらどうするの?』
『ん? あぁ、全日本のことか』
全日本サクソフォンコンクール。毎年12月に開催される、国内サックス奏者の最高峰の大会。一般はもちろん、学生上位者の多くが、海外の名門音楽大学への登竜門としている。
『兄ちゃんなら、優勝は間違いなしだけどさ、留学するのかなって』
『あぁ、そうだな。せっかくのチャンスだしな』
そう言うと、兄ちゃんは僕を見つめる。
『なんだ翼、寂しいのか?』
『違うよ! ……うん、寂しいけどさ。僕よりも、真由美さんはどうするの?』
『そんなの心配してたのか?』
『当たり前だよ。だって僕、兄ちゃんも真由美さんも大好きだもん。2人はずっと一緒にいて欲しいもん……』
『ばーか』
兄ちゃんは笑ながら言う。
『バカってなんだよ! 僕はただ……』
『安心しろ。もし俺が留学しても、真由美とはずっと一緒だ。それくらいで切れる仲だとでも思ってたのか? 明日、真由美が来たら翼の前で言ってやろ』
(ありがとな、翼)
『やめてよ兄ちゃん、僕が恥ずかしくなるじゃん!』
『あははは』
『笑わないでよ!』
そうだ、兄さんが亡くなる前日の夜。俺は兄さんと布団を並べて、こんな話をしたんだ。
俺が全日本で優勝したら、しおりはどうする? しおりも優勝して2人一緒に留学したい。そう、それが1番だ。でももし、しおりだけ優勝したら。しおりは行くのかな……。
「しおり、しおり……」
俺は誰かの肩にもたれかかってる。その人は優しく俺を撫でてくれている。そうか、夢を見ていたんだ。
意識を取り戻し、その人に抱きつく。
「しおり、ごめん!」
目を開けるとそこにはしおりではなく、しおりのじいさんがいた。
「なんじゃ、しおりじゃなくて悪かったのう」
「げっ!」
慌てて抱きついた手を離す。
「『げっ』、はないじゃろう。翼君から抱きついてきたのに。それとも、いつもしおりとこんなことしとるのかの?」
じいさんがいやらしい目になっている。
「し、してません。あの……しおりは?」
「もう目が覚めておるよ。翼君が、しおりを運んでくれたんだとな。本当にすまんかったの」
「いえ、俺も無我夢中で、あまり覚えてなくて……しおりは大丈夫なんですか?」
しおりは一体どうだったのか……。
「ほっほ、213号室じゃよ。会ってきてやってくれ。君が1番の薬じゃろうて」
「面会できるんですね? ちょっと失礼します!」
病室に急いだ。早く顔が見たい。声が聞きたい。
病室の扉をガラっとをくぐると、しおりはベッドの上で、窓の外を眺めていた。
「しおり……」
「翼くん」
俺の声にしおりが振り向く。
「俺、俺。しおりが倒れて、慌てて。でもそのあとどうしたか、どうなったか、ほとんど記憶なくて……」
そう、その後の記憶は混濁している。
「ありがとう翼くん。私を病院に運んでくれたんだってね」
「うん……」
そう、俺が運んだのだが、どうやってなのかが思い出せない。
「しおり、大丈夫なのか? 何か怪我や病気でもあったのか?」
恐る恐る聞く。
「私ね……」
次の言葉までが、ものすごく長く感じる。
「軽い熱中症だって」
「え?」
「はりきりすぎちゃったかな? 日本の夏をなめてたのかも、あはは」
「そうか、よかった……」
そう、俺の本心だ。今までの不安が、一気に解消されるのが分かった。
「点滴打って、午後には帰っていいみたい」
「ふぅ~。もう、超心配したんだぞ」
よかった。よかった。
「ごめんね、でもありがとう。そうだ……」
「ん、どうした?」
しおりが思い出したように言う。
「昨日、最後くらくらしてて……私、何か変なこと言わなかった?」
「いや、特には」
「そっか、よかった~」
胸を撫でおろすしおりだったが、昨日のしおりの最後の言葉の意味は問えなかった。
「天川さん、検温です。そのあと最後の点滴に変えますね」
看護師さんが入ってくる。
「じゃしおり、1度出るね」
「うん」
看護師さんに会釈して、俺はロビーに戻った。
「お~、どうじゃったしおりは?」
「はい、普通に会話できました」
じいさんの横に座り報告する。
「ちゅ~したの?」
「はい……?」
唐突なじいさんの言葉に、耳を疑う。
「だから~、しおりとちゅ~したのかって、聞いとるんじゃよ~」
「し、してません。俺たちそんなんじゃ……」
なんだこの好色じいさん……。
「ん~、しおりもいけずじゃのう~」
え、やだこの場所。じいさんの声で、周りの視線が集まってくる……。
「ほら、バカなこと言わないの、おじいちゃん。翼が困ってるじゃない」
後ろから聞こえる声に振り向くと、真由美さんがいた。
「なんじゃ真由美ちゃんだって、いつも丈志君と――」
真由美さんは容赦なく、じいさんの頭をパコンとスリッパではたいた。
「いたたたー、真由美ちゃん相変わらずじゃのう……」
相変わらずとは、このじいさんは兄さんがいた頃も、こんな感じだったのか……。
「真由美さん、どうしてここに?」
じいさんを放って、俺は真由美さんに当然の疑問を投げかける。
「あんた、何にも覚えてないの?」
真由美さんは、少し驚いたように話し始める。
それによると、運転中にたまたましおりを連れた俺を見かけ、事情を察して、そのまま車で病院に運んで来てくれたらしい。そしてそのあと、しおりのじいさんにも連絡をして、ここまで連れてきたと言う。
「ありがとう、俺何も覚えてなくて……」
俺は真由美さんにお礼を言った。
「じゃあ、あれ?」
真由美さんが、何か思い出したように聞いてくる。
「翼がしおりちゃんを、お姫様抱っこして歩いてたのも覚えてないの?」
「そ、そんなのしてないし」
「ふ~ん」
真由美さんは嬉しそうな目つきで言う。覚えてないけど、きっとそうだったのだろう。
「お姫様抱っこってなんじゃ?」
じいさんが食いついてきてしまった。
「あ、俺。母さんに連絡しないと!」
これ以上この話を深掘りされたくないので、必死にこの場を離れようとした。
「おばさんには、ちゃんと連絡しておいたわよ」
真由美さんぬかりない。ただ、今はそれを言わないで欲しかった。
「あ、ども。そうだ、自転車取りに行ってくる。じゃあ真由美さんおじいさん、また」
自転車はあとでもよかったのだが、ここにいると危険な香りしかしなかったので、俺は理由を見つけ病院をあとにした。
歩きながら、しおりとたくさんラインを交わした。病室じゃなかったら、きっと通話をしただろう。でも、言葉を伝えあえるだけで満足だった。
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