第28話 しおりは僕の友達
それは圧倒的な演奏だった。
真理もあおはるも精一杯演奏しているが、もはやそれらは聞こえない。
「テキーラ!」と叫ぶ観客の顔の楽しそうなこと。このサクソニアンは、1人でこれだけの観客を魅了してしまっているのだ。
その存在感の前に、後ろの3人はもはや引き立て役以外の何物でもなかった。
「なんなんだこれ……もうあの、イアン・パブロフという男しか見えない。あの男の奏でる音しか聞こえない」
俺の口は自然と言葉を発する。
そしてその壮大な演奏が終わると、観客は惜しげもなく盛大な拍手を送る。
「翼くん……ちょっと、待ってて」
俺が圧倒されている中、しおりは一言だけ残し走り去る。
「しおり?」
横を向くと、しおりの姿はもうそこにはなかった。
ステージ上の3人も、格の違いをこれでもかと見せつけられ、その場で意気消沈したまま動けないようだ。
イアンは後ろの3人に向け、不敵な笑みを浮かべると、すぐに幕の裏に消えた。
「あ、ありがとうございました……」
司会者でさえ、この有様だ。それはイアンの演奏が、異次元だということを証明していた。
立ち尽くす3人に、なんとか労いの言葉をかけようと、俺は舞台裏に向かう。
「エイ、アトプスチ ミーニャ……プリクラチーエタ……」(ちょっと、離して……やめてよ……)
そこには信じられない光景があった。さっきのイアンが、嫌がるしおりの腕を掴んで離さないのだ。
「プチュム トゥ ニ プニマィエシュ ア チェム ヤ グヴァリュ、シオリ!」(なんで俺の言うことが聞けない、しおり!)
俺は沈黙したまま、2人の元へ進む。怒りに全身が震えあがっている。同時に怖くもあった。ロシア人。しおりの彼氏とかいう可能性もある。
そう、そういった色恋話は、しおりとしたことがないのだ。もしそうだった場合、俺はどうすればいいのかも分からないまま、脳の指令を待たずに、体が勝手に動きだす。
なぜなら、しおりが嫌がっているから。それが俺の体を動かすには、十分な理由だった。
俺はイアンの胸をドンと小突き、しおりの肩を引き寄せる。
「オイ! お前、いきなりなんだ!?」
「翼くん……」
イアンは俺を睨みつける。
「しおりから離れろ」
俺も睨み返す。
「ヤ プニマャユ。お前が、翼か」
さっきしおりが、俺の名前を呼んだのを聞いたのだとしても、イアンはなぜか俺を知っている風だった。
「しおりが嫌がってる。
溢れそうな怒りを必死に抑える。しおりとの関係が分からない以上、努めて冷静に言葉を選ぶべきだ。
「ヴィクリクヌゥチ、お前に俺たちの何が分かる?!」
イアンが声を荒げている。
「分かりませんよ。でもあなたにも、俺としおりの何が分かる?!」
考えて言葉を出す余裕なんてない、どれも反射的に出た言葉だ。
その瞬間だった。しおりが俺の胸に抱きついた。
「しおり?!」
イアンは信じられないと言った顔になる。ざまあみろ。
「翼くん、ありがとう。もう、行こう」
「あ、うん」
しおりにそう言われ、頭の上った血が下がる。
「ティオ イヴェレン、シオリ? ディスティヴティエルノ フショー フ パリィアドゥケ」(いいんだな、しおり? 本当に)
言葉の意味は理解できないが、しおりはイアンに反応せず背を向け、俺に身を寄せてくる。
「翼くん、お願い。このまま進んで」
小声で言ったしおりの言葉を受け止め、俺はしおりの肩に手を回して、そのまま歩きだす。
イアンを振り向くことはなかった。イアンからの言葉もなかった。ただ、しおりの体温だけを感じ、俺は歩き続ける。
そのまま歩き、野外ステージからも随分離れたとき、
「あ」
俺としおりは、思い出したように目を見合わせる。
「3人のこと忘れてた」
同時に口に出したところで、何かおかしくなってきて、思わず2人とも笑いが込み上げる。
「でも、戻れないしね」
「ラインで『先にパークの出口で待ってる』って送っとく」
俺たちはそのまま、もうしばらくの道のりを身を寄せ合い歩いた。
帰りの道中、真理はあおはるにさんざん文句を言っていた。しおりは終始、ぐっすりと寝ていた。色々疲れたのだろう。
こうして俺たちは、バスと電車に揺られた。
駅に着きしおりを起こそうとしたけど、体が熱を持っていたようだったので、そのまま起こさずに、しおりをおぶって駅を降りた。
「しおりちょっと熱っぽいから、俺おぶって連れて帰るよ」
熱っぽいのは本当だ。だけどそれ以上に、2人きりでいたかったのだと思う。
「大丈夫? じゃああたしも一緒に」
真理が心配そうに言う。
「真理先輩、大勢で行ってもご迷惑をかけてしまいます。ここは翼先輩に任せましょう」
空気が読めるというか、勘が鋭いというか、ともかく
それでも真理は不服そうにぶーぶー言っていたが、最後はうまく夜野さんがおさめてくれた。
「悪いな真理、みんな。またな」
そう言うと俺は、しおりをおぶって歩き出す。自転車は明日取りにくればいい。
「――翼くん」
「しおり、起きてたのか?」
少し進むと、しおりの声が耳元でささやかれた。
「実は、翼くんがおんぶしてくれたときから、起きてたんだよ」
「なんだよそれ」
「ごめんね、このままでいたかったから」
「うん」
熱のせいか素直なしおりに、俺はそれ以上余計なことは言わない。
「お化け屋敷でも、ステージ裏の時も、そして今も。いっぱいいっぱいありがとう」
「あはは、俺だってこれでも男だしな」
「うん、翼くんはすごく素敵な男の子だよ」
「いや、照れるから」
しおりの吐息が耳にかかる。
「……聞かないの?」
「うん?」
「ほら、私とイアン・パブロフの関係」
「うん」
「気にならないの?」
「気になるよ。すごく」
「じゃあ、なんで?」
「言いたくなったら、しおりが言ってくれると思うから」
「――優しいね。でもそういうところ、チェビヤー リュブリュー」
「え?」
最後は声が小さくて、聞き取れなかった。
「もう大丈夫、歩けるよ」
「あ、あぁ」
地面に足をつけると、しおりは俺に言う。
「イアン・パブロフは天才サクソニアン。そして」
「そして?」
次の言葉を覚悟して、ぐっと構える。
「本名は
「え、お兄ちゃん?」
正直安堵した。だって恐れていた言葉ではなかったから。
しおりはポシェットから何かを出す。
「がぉ~」
「がおーって、アヒルじゃん? それ」
おかしくて笑いながら聞く。
しおりは小さな指人形のようなぬいぐるみを出し、それを自分の口の前に持っていき、照れ臭そうに上目遣いをしながら鳴き声を出す。きっと遊園地で買ってきたのだろう。
「失礼だな。僕はアヒルじゃないよ」
「なんだよ、ベタに白鳥だとでも言うのか~?」
またおかしくて笑う。
「僕には白鳥のような大きな羽はないんだよ」
「アヒル、だもんな?」
しおりはにっこりする。
「僕はずっと探してたんだ。空に舞うための翼を」
「――見つかったのか?」
「僕の友達のしおりが、見つけてくれたんだ」
「そうか、よかったじゃないか」
ゆったりと流れる時間。ほのぼのとした空気に包まれながら、俺は幸せを噛みしめていた。
「しおりが君に言ってるよ」
「ん、なんて?」
「翼をありがとう。私のこと、忘れないでねって」
「――え、なんて?」
しおりは地面に、バタっと倒れた。
「し、しおり。しおりぃぃぃぃぃぃ!!!」
夜空の月は雲に隠された。突然起きた目の前の出来事に、俺の視界は真っ暗になる。
そこには、俺の絶叫だけが響き渡った。
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