第18話 母さん
「結構広いんだね~」
会場に着くと、真理が感心したように言う。
俺は兄さんの応援で何度か来たことはあるが、初めて見るとそう感じるのだろう。
芝が生い茂る広大な広場の中には、きれいな噴水がある。それまでの市民ホールから、10年ほど前に建て替えられた。コンクリートの外観はとても綺麗で、ガラス貼りの側面は、ロビーに解放感を与えてくれる。ホールの中も広めの座席に高い天井、奥行きのある空間はとても快適だ。
「みなのもの、決してはぐれるでないぞ」
「かしこまりました。でははぐれぬよう、ボスの腕を掴ませていただきます」
「わぁ、
しおりは興味深そうに夜野さんを見る。思ったよりみんな落ち着いているようだ。
ロビーの中に入ると受付を済ませ、課題曲の順番が来るまで、控室の通路でみんな1か所に集まっていた。
「よし、入場のときは某が先頭だな……」
「ボス、腕と足が一緒になっています」
音出しをしながら周りを見る。
あおはるは入場のリハーサルをしているらしい。カチカチだが。
真理は簡易キーボードを出して、盤面を弾くイメトレをしている。
しおりは目を瞑ったまま、肩を震わせている。
緊張しているのかな。そう思うと俺もだんだん緊張してくる。体が硬直して顎がガクガクする。このままではまずいと思ったときだった。
「よぉ、お前たち出るの?」
それは見覚えのある顔だった。忘れるはずがない。こいつのせいで、俺たちのダンスパーティの舞台が台無しになったのだから。
「椎名、優……」
俺の口は勝手に言葉を放つ。
「あんた、しょうこりもなくまた!」
真理が突っかかろうとすると、
「待て待て、お前たちと揉めるつもりはねーよ。怪我させられたらたまんねーしな」
椎名はそう言うと、しおりのほうをチラっと見てニヤける。
「…………」
しおりは前回のこともあり、黙ってぐっと悔しさをこらえているようだ。
そしてあおはるたちは入場の練習で、こっちをまるで見ていない。それはそれでよかった。
「ほら、優。絡むのやめなよ」
誰かが椎名の腕をぐいっと掴み、俺たちから遠ざける。
「ごめんなさい。こいつバカなだけだから、気にしないで」
高校生にしては妙に落ち着きのある、大人の雰囲気を漂わせる女の人だ。
「あら、あなたが黒井翼君?」
その人は俺を見ると、そう聞いてきた。
「はい。あなたは?」
「私は
そういえば、最後に兄さんの応援に行ったとき、この人が伴奏を……。
「じゃあまた。お互い全力出しましょう」
「は、はい……」
そう言って、椎名優と田部井里佳子は去っていった。
ってことは、あの人かなり上手いはずだ。椎名は未知数だけど、これは厄介な相手がいたな……。
「あれ、しおり肩の震えはおさまった?」
「あ、ほんとだ。あの人見たら頭にきて、緊張してたのどっか行っちゃったみたい」
「なんだそれ、あははは」
かくいう俺も、そのおかげで緊張がほぐれたのだ。
「あ、あいつらの番だよ」
真理の言葉に通路のモニターを見ると、さっきの椎名と田部井さんの演奏が始まるところだった。
「お手並み拝見といきますか」
俺たちの視線はモニターに集まる。
そして演奏が始まると、すぐにくぎ付けになった。
それは荒々しく、かと思えばときに穏やかさを醸し出す。その音は硬質から軟質へとスムーズに移行する。ピアノの音は緩やかに広がり、サックスは鋭利にリズムを刻む。そのうねりをもたらす緩急自在なリズムは、ピアノとの絶妙なハーモニーを奏でる。
「すごい……」
圧倒され、この言葉しか出なかった。
「見なきゃよかったかな……」
真理も珍しく弱音を吐く。
「できるよ」
「え?」
「私たちなら出来る。あれ以上の表現を出せるよ!」
しおりは唇をまっすぐにして力強く言う。そう、俺たちは今まで一生懸命練習したんだ。それを「やる前から諦めてどうするんだ!」という、しおりからの檄以外の、なにものでもなかった。
「では続きまして『ダークエンジェル』の皆様、お願いします」
いよいよ俺たちの番になる。
ステージに上がり、それぞれ楽器を準備する。いよいよだ。
しおりが客席に背を向け、真理を見て頷く。演奏開始の合図だ。
出だしは順調。真理のピアノ、あおはるのコントラバス、夜野さんのフルートも問題ない。俺も練習通りに吹けている。しおりも素晴らしい演技をしている。だんだん波に乗ってきた。俺の視野も広がり始める。
「?!」
広がった視界はそのとき、客席と審査員席にいる2人の顔を見つけ、俺の時間は止まった。
「母さん、真由美さん……」
客席のそれは母さん、審査員席には真由美さん。まるで仮面でも付けているように、俺には2人の表情がまるで分からない。
なんでいるの……。今更俺を否定しに来たのか。ずっと俺を見てこなかったくせに。俺はもう、放っておいてくれ……。
「翼……」
「どうした」
「翼くん……」
「翼先輩」
みんなの視線が、時間の止まった俺に集まる。
『あれ、サックスどうした?』『演奏止まってる?』『なにかあったのか?』
観客席はざわついている。それはそうだろう。1人勝手に、演奏をやめてしまったのだから。
『翼、しっかり。私の息子……』
『どうした翼、見せてよ。丈志じゃない、翼を』
だめだ、動かない……体が動かない。
立ち尽くす俺は、ぎゅっと手を掴まれる。掴んだ手の主のしおりが、俺に微笑む。
「みなさん、ごめんなさい。忘れ物をしたため、課題曲はここまでにさせていただきます。パイドョム」
しおりは客席に大声で言うと、俺にそっと一言放ち、手を引っ張ってステージから一緒に引き揚げた。
「あ、し、失礼します~」
「みなの者、某はすぐ戻る!」
「ボス、それは死亡フラグです」
ざわつく会場を背に、他の3人とも演奏を中断し、客席に一言断ってステージ裏に引き揚げた。
「ごめん、本当にごめん……」
俺のせいだ。震える声で、みんなにそれしか言えない。
「ごめん、翼!」
突然、真理が頭を下げ謝ってくる。そんな真理を見て、俺はただ唖然とする。
「おばさん、だよね? おばさんを見たから、だよね……。あたしなんだ。あたしが招待したんだ……」
「真理、なんで……」
「だっておばさん、いつも1人だったから……。1人でご飯食べて……」
「それは俺も同じだ」
「違う! おばさんね、いつも翼のこと心配してた。いつも翼を気にかけてた!」
「何言ってるんだ?! お前に何が分かるって――」
「分からないよ! けど、おばさんのことは分かる。ずっと話してくれてたから!」
俺は言葉に詰まる。
ずっと話してくれたって、どういうことだよ?
横目にあおはると夜野さんが、そっと控室を出るのが見える。
「毎日ね、翼のためにお弁当作ってたんだよ。でもいつも持って行ってくれないから、お弁当の他にお金も置くようになったの。お弁当、いつもテーブルに用意してたんだよ」
あの弁当箱……。
「いつも置き去りになったお弁当が、毎日おばさんのお昼ごはんになってたんだよ。1人ぼっちで」
「…………」
「翼、今日が何の日かわかる?!」
「今日は――」
「おばさんの誕生日でしょ?! あなたのお母さんの。だからあたし、おばさんにあたしたちの、翼のかっこいい姿を見せたくて、成長した姿を見て欲しくて……」
「真理……」
「去年の翼の誕生日。あの日のお弁当はね、翼の大好きな唐揚げだったんだよ。いっぱいいっぱい、おばさん愛情込めて……」
そこまで言うと真理は涙にむせ、言葉を続けることが出来なくなる。
俺も涙で視界が霞む。その場に残ったしおりも、目に手を当てていた。
そんな中、前触れもなくドアがガラっと開き、ゆっくりと誰かが入ってきて口を開く。
「翼……」
ずっと一緒にいたのに、ずっと見ようとしてなかった顔がそこにあった。
あれ、母さん……なの? 涙でぼやける視界の中、真理としおりがそっと退室していくのが見える。
「翼、ごめんね……本当に。今まで、母親らしいこと何も……」
涙を拭うと目の前には、間違いなく俺の母さんがいる。
「母さん……」
「翼……」
母さんは思い切り俺を抱きしめる。力強く、だけど優しく。
「ごめんね、ごめんね……」
そう言いながら俺の頭を撫でる。それはそう――あのとき俺を抱きかかえて、ずっと頭を撫でていてくれた感触と同じ。兄さんの葬儀のあと、倒れた俺をずっと介抱してくれていたのは、間違いなく母さんだった。
母さん、あの頃のままだ。そうだ、見ていなかったのは俺のほうだったんだ。全く遠慮せず、俺は母さんの胸で、これでもかというくらい泣きじゃくった。
母さんは言った。さんざん俺にごめんねした後に。「翼が元気でいてくれることが、最高の誕生日プレゼント」だと。
言いたいことはたくさんあった。話したいことは山ほどあった。今の俺にはただ泣いて、謝罪の言葉しか出てこない。だけど満足だった。
「翼、お母さんちゃんと見ているからね。いつもの翼を、普段通りの翼を見せてくれればいいんだよ」
俺の涙が枯れるまで抱きしめてくれた母さんが、最後にそう言葉を残して控室を出た。
部屋に1人になる。誰も入ってこない。
でも大丈夫。俺はもう待たない。自分から行くよ、みんなの元へ。
ドアを開けると、そこにはみんながいた。
「翼……ごめん、あたし余計な事を……」
真理。
「ありがとうな、真理」
「え……」
真理は驚いた顔を見せる。
「やっと来たか」
「翼先輩、もうよろしいのですか?」
あおはると夜野さん。
「お前たちが、母さんを客席から連れてきてくれたんだな」
「ふっ」
「恐縮です」
この2人が母さんを控室に連れて来てくれた。
「あとは、翼くん次第だよ」
そしてしおり。
「しおり、支えてくれてありがとう。もう大丈夫、自分で立てるよ」
しおりは俺の目をしっかり見つめ、笑顔を見せる。
「続きまして『ダークエンジェル』の皆様、ステージにお願いします」
自由曲の出番を告げる、係員のアナウンスが聞こえた。
「みんな!」
真理の掛け声に、みんな輪になり右手を重ねる。
「ダークエンジェル~」
「ファイッ!!!!!」
さぁ、リベンジだ。
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