第16話 弟子入り志願
「兄さん、兄さん……」
いつもと違う夢だった。俺はあのとき、そのまま意識を失って倒れたらしい。あの温かい枕も、誰かに撫でられた感触も、夢の中の出来事だろう。夢の中で夢を見るなんて……。
だけど枕の温かさや、頭を優しく撫でられる感覚は続いている。
夢なのか現実なのか分からないまま、俺はゆっくり
「目が覚めた? まだ夜は冷えるんだから、風邪ひいちゃうよ?」
「しおり……?」
それは現実だった。河川敷で俺はいつの間にか寝ていた。そして今、その俺をしおりが膝枕して、頭を優しく撫でてくれている。
「ごめんね。みんな翼くんに期待しちゃって。どんなに重荷になっていたかなんて、考えてなかった」
「どうして、ここに……」
目の前の光景が信じられなかった。
「すごく焦ったんだよ。翼くんの表情、全く
「しおり、俺……」
「いいよ。言わなくてもわかる。怖いよね、苦しいよね。私もよく、お兄ちゃんと比べられた」
「…………」
「まぁ、お兄ちゃんはダンスじゃなかったし、私が小さい頃には家を離れて、おじいちゃんと一緒に住んでいたけどね」
しおりはとても優しい口調で続ける。
「私も怖い。こんな足で踊れるのか、すごく怖いよ。でもね、どんな演奏でも、翼くんが吹いてくれる限り、私は踊る。失敗してもいいんだよ。私なんかいつも失敗だらけ」
ただただ黙って、それに聞きいる。
「でも楽しめないなら、辛いなら逃げていいんだよ。そのときは1人じゃないよ。私も一緒に逃げるから」
「しおり、なんで……?」
「だって約束したじゃない。翼くんは私の先生だから。先生と患者はいつも一緒にいないと、治らないでしょ?」
「あ、あれ……?」
涙が止まらなかった。全身の水分が無くなってしまうんじゃないかっていうほど、涙が溢れる。プライドも恥じらいも無い。しおりの膝に顔をうずめ、
その日も空からは、満月が優しい顔をのぞかせていた。
「翼、ごめん。昨日は……」
翌日、昼休みの音楽室。俺の顔を見るなり、真理は謝ってきた。
こっそりラインで説明してくれた
「いや、ありがとな真理」
「え……」
そう言うと真理は赤面して、下を向き口を抑える。女らしい一面もあるのだなと、少し驚く。
「昨日は、言い過ぎた……すまぬ」
「え、いや……お前悪いものでも食ったか?」
「なんだと!? 某はマリーに脅され仕方なく……」
「落ち着いてくださいボス。また真理先輩にやられますよ」
あおはるは意外にも素直に言ってきた。あおはるは「あおはる」じゃないとどうも調子が狂うが、根はいいやつなのだ。
「翼くん、笑顔になったね」
しおりがとびっきりの笑顔で言う。そして昨日の記憶がよみがえり、俺は恥ずかしさ余ってうつむいて返す。
「俺こそ、ごめん。迷惑かけて。今度の練習はちゃんとやるから、ほんとごめん」
「気にしないの。そして無理はしちゃだめだからね」
しおりの言葉は本当に救いだった。
「翼、またみんなでやろう」
「まぁ、某のような天才と比べてしまうのは、かわいそうだからな」
「翼くん、私も一緒にいるから」
「翼先輩、お望みの情報ありましたら、いつでもサーチ致します」
みんないつも通りだ。俺は安心した。
その日の帰り道。
でもなぁ。ああは言ったものの、次の練習までになんとかなるのか俺……。自転車を漕ぎながら、自分の演奏技術の限界という問題と向き合っていた。
「ん?」
前方に楽器ケースを背負った老人が、ふらつきながら自転車に跨っているのを目にする。
「あれ、危なっかしいな……」
案の定老人は、自転車ごとガチャンと道に倒れた。
「大丈夫ですか?!」
周りに車が走っていなかったのが幸いだ。
「あ~、すまんね。若い頃のようには体が動かなんだ」
「無理しないでください。家まで送りますよ」
特に用事もない俺は、ふらふらするじいさんを家まで送ることにした。
「すまないね。お若い人、世の中まだまだ捨てたもんでは……」
じいさんはお礼を言いながら、俺にしがみついて涙を流して喜ぶ。
「おじいさん、人目があるので。行きましょう……」
傍から見れば俺がじいさんをいじめているようにも見えなくもないので、早くその場を去りたかった。
俺が2台の自転車を両手で引き、楽器ケースを背負って、じいさんに家まで案内してもらう。年寄りの歩みなので結構時間はかかった。
「いや~、助かりました。お若い人、お名前お伺いしても?」
じいさんの家に着いた。なんか見覚えがある。そういえばこのじいさんも、どこかで見た気がする。
「
「黒井……あ~丈志君の?」
「兄をご存じなのですか?」
「知ってますとも。わしは
「う~ん……」
「翼君はまだ小さかったからのう。もしお時間あるなら、ちょっと上がっていきなさい」
「いえ、お構いなく。そういうつもりじゃないですから」
時間はたっぷりあったが、何か見返りを求めてやったわけじゃないので、丁重にお断りした。
「なんじゃ翼君、年寄りの申し出を邪険にするもんじゃないぞ」
「いえ、そういうのじゃなく……」
そう言いながら、じいさんの家の中を見渡す。
あれ……? 見覚えがあると思ったのは、先日見かけた商店街の中の一角だったからだ。天川楽器店。それがこのじいさんの家であり店なのだ。
「楽器に興味あるんかね?」
店の中に並んでいる楽器は種類は少ない上、骨董品レベルの年代ものばかりだ。
「兄さんと来たかも……」
「思い出したかい。うんうん、丈志君がよく君を連れて、リードを買いに来てたのう」
「おじいさんもしかして……」
「久しぶりに聴いていくかね?」
思い出した。このじいさんは楽器店の店主であり、兄さんのサックスの師匠だった人だ。
「よっこらしょ、さぁこっちじゃ」
じいさんは楽器ケースからサックスを取り出すと、演奏スペースに俺を誘導する。
「さぁ、そこに腰かけて」
俺が座るのを確認すると、じいさんは音出しを始める。小刻みなタンギングからトリル。そしてポルタメントと、流れるように続く。
すごい……。基礎の基礎だが、俺にはこんなに滑らかに出来ない。
感心するまま演奏が始まる。それはまるで兄さんそのものだった。目を閉じると、本当に目の前に兄さんがいる気がした。
「おじいさん、俺にサックスを教えてください!」
数曲聞いた後、俺の口はいてもたってもいられず、じいさんに弟子入りを志願した。
「翼君はわしの恩人じゃ。断る理由はないじゃろう。こんな老いぼれが若い人に求められるとは、長生きするもんじゃな」
「老いぼれなんてそんな……」
「ふはは、5年ぶりじゃよ。丈志君とわしの孫以来の弟子じゃ」
「お孫さんも、サックスやってらしたのですか?」
「そうじゃよ、丈志君に負けたまま海外留学なんぞしおって。今は向こうで天狗になってるらしいぞ。まったく……」
じいさん、寂しかったんだろうな。1人になって寂しいのは俺も痛いほど分かる。
「おっと、しんみりしてすまなんだ。翼君サックス持っておるね? 明日から持ってきなさい」
「はい!」
その後の、俺の音楽の道しるべとなる出会いは、ひょんなことから生まれた。
そして翌日から、俺のサックス特訓は、天川のじいさんの下で始まるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます