第15話 立ちはだかる壁

 アンサンブルコンクール。課題曲と自由曲の2曲構成で行われる大会。課題曲は「協奏曲ハ長調 K.314 第1楽章」。自由曲は、俺がしおりのバレエを見たいと、珍しく意見を押し通し、「眠れる森の美女~ワルツ~」に決まった。




 コンクールに合わせ、あおはるは楽器をコントラバスに変更した。

 日曜であったが、事前に大会へデモテープを送るため、昨日決めた楽曲の音合わせをしようと、夕方あおはるの家に集まった。


「初めまして。いつも春人様にお世話になっております。軽音学同好会1年の、夜野やのあかりと申します。以後よろしくお願い致します」


 すげぇ挨拶、社会人顔負けだな……。俺は真理やしおりと目を合わせ、意見を共有する。


「あらまぁ、ご丁寧に……」


 それはおばさんも、言葉に詰まるほどであった。


「ところでお姉さま。お母様はいらっしゃいますでしょうか?」


 頭の中にガビーンと言う音が響く。まさにこの擬音が正しい。あからさまな世辞文句に俺と真理、しおりはお互い見つめ合い、目を丸くしたまま開いた口が塞がらない。


「あら、いやだ……まぁ。私が、母です……」


 俺たち3人は、そのまま全身が震えだす。なぜこのおばさんは、この言葉をそのまま受け止め照れるのか、理解に苦しんだからである。


「失礼しました。あまりにお若かかったもので。こちらはつまらないものですが、どうぞお嬢様とお召し上がりください」


 そう言うと、夜野さんは菓子折りという賄賂を差し出す。

 え、なにこれどっきり? カメラどこなの……。俺たちはこの訳の分からない状況に、有りもしないカメラを探し始める。


「あら、なんて素晴らしい娘さんなんでしょう……。今すぐにでも、春人のお嫁さんに欲しいくらいだわ……」


 おばさん、陥落……。昔の人は言った「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」と。その馬が今まさに、目の前で予後不良となってしまったのだ。

 が、そのときおばさんの後ろから、ひょっこり小さい影が出てきた。

 亜矢だ!

 そう、馬はもう1頭いる。正直、夜野さんが青木家に好かれようが好かれまいが、俺は全くどうでもいいのだ。だが自分の眼前で、こんなあからさまで古典的な戦法によって、人が落ちていくのが見るにえられないのである。

 亜矢よ、いつも通り毒を吐くのだ! そして夜野さんに教えてやるのだ。世間の厳しさというものを!

 いつの間にか俺の中では青木家VS夜野さんという構図が出来上がり、そして前者を応援していたのだ。


「あら、お嬢様」

「な、何か用かしら?」


 いいぞ、そうだ警戒するんだ亜矢。簡単に心を許してはだめだ。そして毒を! 俺はもはや、自分でも何を言っているのか分からないくらい混乱している。


「……申し訳ありません。お話には伺っていたのですが、春人様の妹様が、まさかこんなにお美しかったとは。つい見惚れてしまいました」


 夜野さんは亜矢をじっと見たまま、しばらく沈黙した後に言った。

 いや、すげー露骨だよ? 思い切り演技ってわかるよ?


「あの、もう1回言ってくれる? お嬢様って……」

「はい、お麗しいお嬢様」

「――ママ、この人私のお姉さんになる人だよね?」


 亜矢は赤面し、照れ笑いを浮かべながらおばさんに顔をこすり、手足をじたばたする。


 2頭目落馬。ちょろい。ちょろすぎる、青木家……。俺たちは三文芝居を見せつけられ、人生の厳しさを痛感した。ショックからの脱力感で、全身に力の入らないまま、あおはるのいる地下室へふらふらと歩を進める。




 ――あれ?

 地下室で練習をしていた俺は、微妙な音の違和感に気付く。

 しおりのバレエを見たいと思って自由曲を選んだ俺は、やっとその原因が分かった。

 課題曲もそうだが、独学で兄さんの見よう見まねでやってきた俺にとって、クラシックは大きな障害となって立ちはだかっているのだ。


「あれ、翼大丈夫?」

「卿よお主、またさっきと同じところではないか」

「翼くんリラックス」

「翼先輩、落ち着いてください」


 あおはる以外は心配してくれたけど、何度やっても進歩なく、同じところでつっかえる。クラシック特有のリズムやテンポ、音の強弱等、基礎が出来ていない俺にとっては、越え難い壁でしかなかった。


「翼ならできるって、ほら、お兄さんだって出来てたんだから」

「所詮お主はその程度だったか」

「ちょっと春人君、それは言い過ぎ」

「翼先輩、深呼吸しましょう」


 同じことを繰り返す俺の前で、その場はギクシャクしてくる。

 なんだかな、なんで俺はサックスをやってるんだろう。また兄さんと比べられるだけなのに。俺は兄さんじゃない。兄さんになれないのに……。


「翼、ただのスランプだよ。ほら誰にでもあるから」

「そもそもスランプになるほど、お主に実力があるはずなかろう」

「翼くん、無理しちゃだめだよ。ゆっくりでいいから」

「翼先輩、お飲み物でもいかがですか」


 分かってる、みんな俺を気遣ってくれているのは。あおはるだっていつもの調子で激励してくれている、たぶん。そんなのは分かっている。でもそのすべてが俺を追い込んでいく。


「みんなごめん……今日は、帰るよ」

「翼!」

「ふん」

「翼くん……」

「翼先輩」


 玄関を出ると、全力で自転車を漕いだ。いや、全力で逃げた。




 誰にも追って来て欲しくない。追ってくれるかもわからない。ただ1人になりたい。そう、いつも俺は1人だったじゃないか。

 気が付くと河川敷に来ていた。俺と兄さんの場所。いつも兄さんとの思い出を語っていた場所。ただ、振り出しに戻っただけ。

 考えているうちに、いつの間にか俺は眠りに落ちていった。




『まったく、なんでよりによって丈志のほうが』

『弟を助けたんだと。なんで……あんな日に川に行くなんてよ』

『翼に丈志の才能の、ほんのわずかでもあればよかったのにな』

『期待するだけ無駄だって』


 あれ、みんな何言ってるの?

 兄ちゃんの通夜の席、酒の入った大人たちは、僕に聞こえてるとも知らずに言いたい放題だ。

 そんな、兄ちゃ……僕はただ、大好きな兄ちゃんに……。


『翼、まだ起きていたのか。早く寝なさい』


 お父さん、せっかく帰ってきたのに。久しぶりに会うのに。待ってよ、僕を1人にしないで。そうだ、お母さんなら。

 僕は、兄ちゃんに付きっ切りだったお母さんの元へ向かう。1人が嫌だった。


『お母さん、お母さん』


 僕は頭を撫でて欲しかった。本当はぎゅっと抱きしめて欲しいけど、撫でてもらうだけで満足して1人で寝るつもりだった。


『丈志、丈志……』


 お母さんはずっと兄ちゃんの遺体にしがみついたまま、名前を呼び続けて泣くだけだった。


『お母さん、僕来たよ。僕はここにいるよ』


 一生懸命、僕はお母さんに声をかける。気付いて欲しい。僕の名前を呼んで欲しい。


『お母さん、お母さん、お母さん――』


 あれ、お母さん。――そっか、僕が見えないんだ……。

 兄ちゃんを失ったのはもちろん、誰も僕を見てくれない悲しさで、その日は枕を濡らした。


 次の日、葬儀場で真由美さんの姿を見た。

 今更だけど真由美さんの分のお守り、渡さなきゃ。

 納骨のとき、墓地で真由美さんとすれ違った。


『真由美さん、これ……』


 真由美さんはフラフラと、今にも倒れそうな足取りで墓地を出て行く。

 真由美さんも……誰も僕が見えてないの?

 そう思った瞬間、僕の心は限界を迎え、目の前が真っ暗になった。




 ――枕が温かい。誰かが僕の頭を撫でてくれてる。兄ちゃんかな。僕も兄ちゃんのところに来れたのかな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る