第9話 俺たちの目標
あの日以来、真理もあおはるも約束通りに、教室内ではしおりに日本語で接触することはなかった。他の同級生たちは、しおりに近付きたいものの、ロシア語という高すぎる難易度のために、ある程度の距離を保たざるを得なかった。
そして昼休み。
コンコンと、ドアをノックする音が響く。
「黄泉より解き放たれし、我が魂」
「――汝を貫く、悪しき光となりて……」
ドアがガラっと開き、あおはるが廊下に顔を出して左右を見渡す。
「誰にもつけられていないであろうな?」
「……」
あおはるはジェスチャーで、俺に中に入るよう促す。そして注意深くドアを閉める。
「あのさ、これ……必要か? 死ぬほど恥ずかしいからもうやめないか……?」
「何を言うこのうつけ者が!
そう言い放ったあおはるの顔は、すごく満足そうだ。
皆で話し合った末決めた。学校内でしおりの日本語がばれずに、4人で会話しながら昼食がとれる場所、それがこの音楽室だった。
防音なので外に声が漏れない上、昼休みは基本鍵がかかっているので、誰も入ってこない。そして軽音楽同好会で使っているこの部屋の鍵を、あおはるは持っていたのだ。
このときとばかりにあおはるはマウントを取って、入室の「あいことば」を作りやがった。しかしこの条件を飲まないと、しおりとの昼食は実現しなかったため、俺たちはしぶしぶそれを受け入れた。
コンコンと、またドアをノックする音が聞こえる。
「黄泉より解き放たれし、我が魂」
「――なんじ? に、えと……」
たまらず俺はドアを開ける。
「ほら、しおり早く入って」
あんないい加減な長文を、覚えられるはずがない。しおりは言葉に詰まり、しどろもどろになっていたので、俺は中に入れてやる――あれ、なぜ俺は覚えてしまった……?
「漆黒卿、お主なんと危険なことを!」
あおはるは焦っているようだが、こいつの脳内エネミーが俺たちに見えるはずがない。
「あとは真理ちゃんだけかな?」
しおりがにっこりして言う。
そこにまた、コンコンというノック音。
「黄泉より解き放たれし――」
ドンドンドンドンドンドンと、あおはるが「あいことば」を言い終えないうちに、ドアはノックどころか、マシンガンいや、ガトリングガンのように激しい音を打ちだす。
たまらずあおはるがドアを開けると、その向こうには殺気に満ちた真理の姿があった。
中に入りドアを思い切り閉めると、あおはるの頭を手で押さえつけながら、いつもの暗殺者が言う。
「これもう無理。やめろ、な?」
「ぎ、御意……」
悪魔のような形相に、あおはるも震えながら返事をするのがやっとだった。
ともかく俺たちはその
あおはるはしょぼんとしていたが、昼食の間会話は弾んだ。他愛もない世間話や音楽の話、久しぶりに楽しめた学校での時間だった。
翌日の夕方。
俺は門のインターホンを押す。
「はい、どちら様ですか?」
「あの~黒井ですけど……」
「あぁ翼くんね。ずいぶん久しぶりね。開いてるからどうぞ、入って」
あおはるのお母さんだ。
人の母親は若く見えるものだが、お世辞抜きに若く綺麗で、優雅というか大人の色気があると言うか、なぜこの親からあれが産まれたのか不思議なくらいだ。
門を抜けて、広めの庭を自転車を転がして歩く。横のガレージはシャッターが閉まっているが、車2台くらい入りそうな大きさだ。
「ご無沙汰してます」
「ずいぶん大きくなったわね。5年ぶりくらいかしら? 春人は下にいるから、さぁ上がって」
玄関で出迎えを受けた。
「全く、背が伸びても中身は相変わらずね。その間抜け
突然、おばさんの後ろからロリっ
「久しぶりだな。元気だったか?」
あたり障りない挨拶をする。
「フンッ」
亜矢はぷいっと顔を背ける。相変わらず失礼なやつだ。
「こんばんは~、おばさんお久しぶりです」
「初めまして。失礼します」
俺に遅れて真理がやってきた。しおりも一緒だ。
「あれ、あーちゃん? わぁ、すごくかわいくなったね~」
亜矢に気付いた真理は、嬉しそうに話しかける。ちなみにあーちゃんとは、真理が亜矢に使う呼称だ。
しかしあろうことか、真理に気付いた亜矢は、勢いよく真理に飛び掛かったのだ。
「!?」
本能とでも言うのだろうか。俺はとっさに危険を察知する。
あの毒吐きロリと脳筋女。何も起こらないはずはない。すぐに戦場になるであろうこの場所で、俺は守るべき対象を見極める。
その戦闘で、あらゆるものが飛んでくるであろう方向から彼女を守るべく、玄関の壁に手をついて、しおりの体に覆いかぶさる。
「真理姉ちゃん、久しぶり~!」
亜矢は嬉しそうに、真理に抱きつく。
あれ? そしてその戦場の視線は、一気に俺に向けられる。もちろんそれは、誰が見ても俺がしおりに「壁ドン」しているからに他ならない。
「シトー? 翼……くん?」
赤面したまま硬直するしおり。血の気が引いて硬直する俺。背後に迫る2つの殺気。
「いや、あの……これは」
弁明しようにも、苦しい言い訳しかできない俺は黙って、2人の
「何やってんだ、バカ翼ぁぁぁぁ!」
「あんた、人の家で……この歩く公然わいせつ物がぁ!!」
しおりの優しい笑顔だけが救いだった。
拷問タイムが終わり、しおりのおかげでなんとか場を収め、地下室に向かう。
そこではあおはるが、1人でドラムを叩いていた。ほんと、口を開かなければただのイケメンなのだ。
「おぉ、やっと参ったか。某はすでに戦闘準備はできている。ん、亜矢ちゃんもいるのか、そうかそうか、某を応援しに来たのだな」
忘れかけていたが、あおはるは重度のシスコンだ。
「黙れ虫けら。亜矢は真理姉ちゃんのピアノを聞きに来ただけ」
昔と違うのは、亜矢のほうだけのようだ。
「ふん、照れおって」
あおはるの耐性の強さは、ここで培われているのか……。
俺たちは手持ちの楽譜を開き、軽く音出しをしてから、適当に曲を選んで演奏を始める。
しおりはあまり足に負担がかからないように、上半身だけを動かしダンスをしている。
何曲か演奏を終えると、おばさんが飲み物を持ってきてくれた。それと同時に亜矢は席を外す。
なぜかおばさんは服を着替え化粧も直して、しおりのほうを凝視している。これは女の対抗心というやつなのか……。
ジュースを飲みながら少し話し込んだ。
いくつか演奏したけど、考えてみれば俺達には、モチベーションとなるべき目標がない。何か目標でも作るべきか、そんな話だった。
「ねぇ、これ……どうかな?」
亜矢は戻ってくるなり、1枚のチラシを真理に渡す。覗き込むとそこには、「バレンタイン・夜のダンスパーティ」と書かれていた。
「隣街の駅前のホテルのイベントなんだけど、有志の演奏団体も募集してたから。さっき思い出して、プリントアウトしてきたの」
「おー、亜矢ナイス」
「さすがは我が妹」
俺とあおはるは、意外にも気の利く亜矢に感謝する。
「気やすく話しかけるな、ゴミムシども」
すげー切り返し……。
「しーちゃん、どう?」
ニックネームかよ。真理のやつ、いつの間にかしおりと距離を縮めてやがる。
「うん……」
俺たちはしおりの次の言葉を、
「私、やってみたい」
しおりの言葉を聞いて、みんな一斉に叫ぶ。
「おっしゃー!」
「いざ参ろうぞ!」
「みんな頑張ろう」
ついに俺たちに「目標」ができた。
余談ではあるがその日の帰り際、俺はあおはるに相談した。
「あのさぁ、最近視線や殺気を感じたり、戦場が見えたりするんだ。疲れてるのかな俺……」
あおはるは俺の目を見つめ、満面の笑みで右手を出す。
「ようこそ、漆黒卿。いや、漆黒の翼よ」
違う。決して俺はそっち側の人間ではない……。
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