第8話 私は患者・君は先生

 俺は自販機の陰に身を隠す。さいわい、やつらはまだ俺に気付いていない。

 視線をルゥナに移すと、彼女はモールに入っていった。

 気付かれぬよう、人混みに紛れながら彼女を追いかける。

 エスカレーターを上がったのを確認すると、少し距離を置き俺も上がる。その際入口を確認すると、真理たちはまだそこに立ち止まっていた。


 よし、ばれてない。通路を歩く彼女を追うと、建物のはしの曲がり角に入っていった。

 あの先、行き止まりじゃなかったかな? そう思いながらも、そのあとに続き通路を曲がる。


「…………」


 曲がった先にはこちらを睨み、立ち尽くす彼女の顔があった。「しまった」と、慌てて振り返って逃げ出そうとしたとき。


「ほんとに、変態さんなのね」

「?! ――え? あれ、今……日本語?」


 予想外の言葉に体は静止し、走りだそうとした体制のまま彼女を見る。


「はぁ、全く……。いけると思ったんだけどなぁ」


 彼女はため息をつく。何がいけるのかよく分からないまま俺は聞く。


「しおり……だよね?」

「とりあえず交渉しましょう。お昼まだよね?」

「あ、うん……」


 おいおい、交渉ってなんだ? 彼女に促されるまま、俺たちはフードコートに向かった。




 お昼で賑わう、フードコードの一角のテーブルに腰を落とすと、彼女は口を開いた。


「ルゥナ・パブロワ。私のロシア語名。向こうだと、そっちのほうが便利なのよ」

「じゃあ、しおりってのは?」

「私の本名。日本人だって言ったでしょ?」

「じゃあなんで、日本語話せないふりしてたんだよ?」

「うーん、まぁ簡単に言うと、私が友達を作りたくないから。あはは」

「『あはは』って、全くわかんない。どうして?」

「――いい? これから言うことは口外しないこと。もちろん、私の本名や日本語についても。約束してくれる?」

「あ、あぁ……」


 俺がそう言うと、しおりはにこっと微笑んだ。


「私ね、ずっとこっちにいられる訳じゃないの。1年もいられないと思う。だからこっちで友達作ってもさ……ほら、仲良くなればなるほど、別れが辛いでしょ? そんな訳で、なるべく人と関わりたくないの」


 人と関わりたくないってのは、俺もよく分かる。ただ、理由は少し違うけど。


「まぁ、うーん分かる気もするような」

「翼くん、君のあのときの演奏。とても悲しそうだった。1人でぽつんとさ。なんか自分と同じ感じがして、だからそれに惹かれて踊ってたのかもね……」

「ブゥゥゥゥーッ」

「オイ! あ、どうしたの?」


 飲んでいたコーヒーを、吹き出してしまった。しおりの後ろの席から身を乗り出す、2つの人影ひとかげが見えたからである。あいつら……。


「いや、なんでもない……」


 ワンテンポ遅れてしおりに答える。


「ん?」


 しおりは不思議そうに、きょとんとしている。そんな姿もまた、絵になるのだが。


「でもさ、それならYOUは……何しにニッポンへ?」


 後ろの2人に聞かれたくない一心から、話し方がぎこちなくなってしまう。


「んと、脚の怪我の治療で。向こうより、こっちのほうが色々進んでるしね。治療だけじゃなく、リハビリとかもさ」

「え、じゃあまたバレエを踊るために?」

「ん~、それはちょっと……無理かなぁ?」

「無理ってなんで?! やってみなきゃ分からないじゃん!」


 珍しく俺は熱くなって言った。あれ、これって自分にすげーな……。


「だめだよ。こっちにはバレエの先生もいないし。それに時間も――」

「だけど、あんなに綺麗に踊ってたじゃないか。俺は君を見て、君の言葉で勇気をもらったんだ」


 これは本当だ。彼女の言った、「もっと自分を好きに」という言葉は、間違いなく俺に刺さっている。


「あのときの君の台詞を、そのまま返すよ! 俺は君のダンスをまた見たいから、初めて人前で演奏もした。自分の演奏を好きになろうとした。そしたらいつかまた、君に初めて会った、あのときの気持ちになれると思って」


 そうだ、あの言葉で俺は前進を始めた。そして熱弁はクライマックスを迎える。


「だから……今度は俺が、君に勇気を与えたい!」

「スパシーバ。あり、がと……」


 しおりは少し赤面したように見えた。そして一瞬、顔をうずめてから続ける。


「じゃあさ、交渉その2」

「その2?」

「うん、翼くんが私の先生になってよ」

「先生……?」

「そう、君のサックスに合わせて私が躍る。どんなダンスだって、リハビリにはなるでしょ? 君を私の先生に任命します」


 え、何この甘酸っぱい感覚、なんかすげー幸福感……。俺は恥ずかしいことにとしてしまった。きっと顔もニヤついていただろう。

 だがそんな淡い気持ちは、すぐに後悔と絶望に変わり、気が付くと冷や汗がにじみ出ていた。

 しおりの後ろで、暗殺者のような目をして俺を睨む真理と、なぜか顔をくしゃくしゃにして涙を流すあおはるが、視界に戻ってきたからだ。


「あれ、翼くん……ダメかな?」


 しおりが不安そうな表情になる。俺はすぐにでも快い返事をしたい。だけど、しおりの背後に潜むモンスター達を、エンカウントしてしまったことの恐怖が、俺の精神を支配していた。


「シトー? 翼くん、ちょっと大丈夫?」


 歯ぎしりしながら体を硬直させる俺を心配して、しおりが必死に呼びかける。

 俺は恐怖で硬直した腕を、ギィっとロボットのようになんとか伸ばし、親指を立て「OK」サインを出すのがやっとだった。

 そして次の瞬間。


「ちょっとすみませんね、お2人さん。交渉その3、あたしも看護師として参加しますよ。いいですよね~?」

「感動したぞ! たち! 交渉その4。理学療法士のジークフリートだ。よろしく」


 真理がほとんど脅迫のように、しおりに迫る。あおはるのそれは、感激の涙だったらしい。そして言葉は意味不明。


「あちゃ~、聞かれちゃったかぁ……」


 気まずそうにしおりは舌を出し、はにかみながら言う。

 人間、精神が極限状態になると、防衛本能で脳が意識を飛ばすらしい。そして俺の意識は、その黒歴史とともに消えていった。




「――さ。――ばさ。翼ぁぁ!」

「はっ」


 真理の呼びかけで意識を戻す。


「ったく、バカみたいな顔してボケっとして――」

「毎週土曜、18時から1時間やるからね」

「は?」


 訳が分からないまま周りを見ると、しおりも真理もあおはるも、笑顔でこっちを見つめている。


「真理ちゃんと春人くん、伴奏してくれるって」


 しおりがにこっと話しかけてくる。そしてあおはるの本名を忘れかけていた俺は、春人が誰なのかを思い出すのに、10秒かかった。


「我が城を解放しようではないか」


 あおはるの家は結構金持ちだ。地下室が防音で、ちょっとしたダンスホールのようになっている。どうやらそこで、毎週練習リハビリをやることになったようだ。

 俺が意識を無くしている間に、3人は打ち解けていたらしい。


 めでたし、めでたし……か。

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