第2話 笑顔のリクエスト

 ベッドに差し込む光と、やかましく音を鳴らす時計のアラーム。腕を伸ばして探りつつ、時計を黙らせ起き上がる。

 毎度見る夢のせいなのか寝汗のせいなのか、Tシャツが少し湿っぽい。


「あの子、しおりって言ってたな……」


 いつもと変わらぬ光景に、昨夜のことが現実なのか分からなくなる。

 軽く身支度を整え階段を降り、1階にあるキッチンへ向かう。冷蔵庫を漁り牛乳を一気に流し込む。その際、テーブルの上に重箱だか、弁当箱のようなものが目に入る。

 おっと、急がないと遅刻する。

 慌てて玄関を出るが、その前に、靴箱の上にある500円玉を握り締めた。昼飯代だ。

 そしてガレージ脇に置いてある自転車にまたがり、ペダルを勢いよく踏み込む。

 午前8時過ぎ。いつもと同じ時間に家をあとにした。


「お~い、翼ぁ、遅いぞぉ。死ぬ気で自転車こげ~!」


 家の門を抜けて道に出ようとすると、俺の名を叫ぶ声の主を見る。

 朝っぱらから大声を出してるのは、近所に住む同級生の真理だ。毎朝よくもそんなに声が出るな。そもそも俺が遅刻ならお前も遅刻だろう。

 少しはしおらしさをを、なんて思うが無駄なんだろう。昔からちっとも変わらない。今さら言ったところで、効果はないだろうと半ば諦めている。

 真理に続いて自転車を必死に漕ぎ続け学校に到着すると、自転車置き場に自転車を押し込んで、真理を追って足早に教室へと向かう。

 息を切らしながら教室に入り席に着く。やっと慌ただしさから解放される。


 だらだらと授業を受けながら4限目が終わり、いつものように購買のパンを買いに行こうと席を立つと、


「また購買のパン? あわれな君に、あたしの特製弁当を分けてやろうか?」


 周りの視線が、一瞬俺たちに集まる。真理がお節介にも話しかけてきた。しかも声が大きい。

 それにボソっと一言返す。


「いや、いらん」


 少々苛立ちを覚え真理に視線を向ける。

 俺は人の注目が好きでない。目立ちたくないから。

 教室を出るとき、横目で見た真理の顔はどこか寂しそうだった――気がした。


 廊下に出ると、今度は後ろから俺を追い越した誰かの肩がドンとぶつかる。


「あ、すまな……」


 謝ってくるその声の先を見ると、見慣れたアホ顔があった。


「って、なんと漆黒卿か。不用心にもほどがあるぞ! 卿はもっと自分の立場を……」


 ぶつかった相手が俺と分かると態度を豹変ひょうへんさせ、そいつは大真面目に説教を始める。

 そうしてブツブツと文句を言いながら後ろ歩きして、また別の生徒にドンとぶつかり、最初と同じような謝罪を繰り返す。

 バカじゃねぇのか……。

 呆れるほどのこのバカは昔はよくつるんでいた悪友だったが、今はただの同級生。その頃は中二病をこじらせて大変だったが、顔立ちはいいのでそれなりに女子にはモテる。

 小さい頃は春人と呼んでいたが、今はあだ名のあおはると呼んでいる。

 奇特にも、真理とあおはるだけは今でも俺に話しかけてくる。


 昼飯を食べ終え、自習になった午後の授業時間を、机を枕に突っ伏し寝て過ごす。

 いつも通りの流れ。昨夜の河川敷の出会いは、そんないつもの日常をかき消してくれた。今でも思い出すと胸が高鳴る。


「ねぇ、新しいアプリ入れたんだ。一緒に写真撮らない?」

「いいね~。私にも教えてよぉ」


 女子たちの声が耳に入ってくる。

 ――写真か。


 気が付くとチャイムが鳴り午後の授業は終わっていた。

 教室から窓を見る。12月のこの時期、既に夜のとばりが下り始めていた。




 家に帰るとすぐ部屋にかばんを置き、押し入れから大きな楽器ケースを出す。それを肩に掛け、階段を降りて玄関を出る。


『********』


 戸を閉めようとしたとき、何かが聞こえたような気がして後ろを振り向く。次の瞬間、ビュゥっという風の音を感じた。


「空っ風か。――今日も来るのかな。できれば写真を……」


 教室での女子たちの会話が耳に残っている。もし今日も会えるなら、ぜひ写真に収めたい。

 考えながらふうっとため息をついて正面を向くと、真理が自転車に跨ったまま俺を見ている。


「…………」


 最初はポカーンと、それから何か考えるように眉間みけんにしわを寄せ、最後は悪魔のような「にやけづら」になる。

 しまった、聞かれたか……。さっきの独り言を聞かれたかもしれない。よりによって一番面倒なやつに。そんな焦りはあったが悟られると余計面倒なので、素知らぬ顔をして自転車で道に出ようとすると、


「あ、ちょっと、無視すんなし!」

「うるさい黙れ失せろ」


 聞かれたという恥ずかしさからの照れ隠しで、真理の言葉に早口かつ機械的に返すのが精一杯だ。当の真理は、そんな言葉にもにやけ面を崩さずに続ける。


「まったく、ため息なんかついてさぁ。何が来るんかなぁ? 写真って何なんかなぁ?」


 悪魔がささやいている。


「俺は急いでるんだ、用がないなら行くぞ」

「あ、つば……」


 真理は何か言いかけていたが、この状況を逃げ出すように全力で振り切った。




 利根川にやってきた。辺りに人気がないのを確認すると、自転車のまま河川敷に降りる。

 いつものようにそこらの石に腰かけ、ケースからサックスを取り出す。だけど1ついつもと違うのは、今日は演奏しに来ただけではないと言うことだ。

 サックスの準備ができると、普段より長めにロングトーンを繰り返す。

 そしていよいよ演奏しようとしたとき、


「翼くん」


 肩をポンと叩かれ振り向くと、笑顔のしおりがいた。


「や、やぁ。奇遇だな」


 もちろんそんなはずはない。昨夜帰り際にしおりが言った「また明日ね」と言う言葉を期待して、しおりに会いに来たのだ。その証拠に今日一日、しおりのことを考えていた。今日に限っては、演奏はそのついでと言ってもいいだろう。

 だがそれを素直に言う度胸は持ち合わせていない。


「奇遇じゃないよ。昨日言ったよ? また明日ねって。忘れちゃった?」

「忘れてないよ!」


 不安そうに聞くしおりに、はっきりと否定した。が、不安そうなのは口調だけで、顔は笑っていた。


「じゃあ、会いに来てくれたのかな?」


 罠なのか?! ずっと孤独を貫いてきた俺は、友達付き合いはおろか異性との接触など無縁だったのだ。はっきり言って全く耐性がない。


「いや、ここは俺の縄張りだから」

「あはは、翼くんマフィアが好きなのかな?」


 しおりは今度、苦笑いをして言う。

 正解が分からない……。こういう場合、なんて言えばいいんだ? これじゃ俺、あおはると変わらないぞ……。

 今日はしおりに会いに来たのは間違いない。その上でさらに大きな目的があった。写真だ、しおりの写真が欲しい。何か形が残ってないと、これが現実と言うことを忘れそうだから。

 でもどうやって切り出せばいいんだ……。


「あれ、翼くん。どうかした?」


 無言の俺にしびれを切らしたのか、しおりが心配そうに聞いてくる。


「――あ、あのさ、1つお願いがあるんだけど……」


 もうヤケクソだ。俺に失うものなどないと、腹を括って切り出した。


「わぉ、偶然。私も翼くんにお願いがあるの」

「俺に? どんな?」

「じゃあ、『せ~の』で一緒に言お?」


 なんという意外な展開。これはもしかしてもしかするのか? 期待だけがどんどん膨らむ。


「せ~の――」


「写真を撮りたい!」

「演奏して欲しい曲があるの」


 あれ?


「写真?」

「いや、いい。なんでもない。忘れてくれ」


 なんだろう。例えて言うなら、手を振ってきた相手に手を振り返すと、実は自分でなく、その相手は俺の後ろの人に手を振ってたときのような恥ずかしさ。


「ううん、実は私も写真撮りたいと思ってたんだ」


 え? あ~これ夢か。

 そう思って頬をつねると痛かった。


「じゃあ、私のリクエスト曲を演奏してくれたあとに、一緒に写真撮ろう?」


 こんなに旨い話があるはずない。落ち着け、落ち着くんだ俺……。


「あ、あぁ。俺は何を吹けば?」


 しまった……最後、声が裏返ってしまった。だけどそれをいじるでもなく、しおりはにっこりして言った。


「翼をください!」


 一瞬ドキっとした。自分のことかと。だがすぐにそれは俺なんかのことではなく、合唱コンクールでも馴染みのあの曲だと分かった。

 何度も歌ったことはあるが、演奏はしたことはない。どうしよう……。

 ためらっていると、しおりが口を開く。


「あれ、知らないかな?」

「――いや、知ってる。でも一度も演奏したことないんだ……」

「なら大丈夫だよ。完璧になんて求めてないよ。翼くんらしく吹いてくれればそれでいいの」


 正直自信はない。だけどこんな俺のサックスを聴きたいと言ってくれるしおりに、さっきの挽回でかっこいいところを見せたい、という気持ちが勝る。


「分かった。やるだけやってみるよ」


 俺がそう答えると、しおりは笑顔を見せる。そして指揮者のように、俺の前に立って言う。


「ヴォ タック」


 その言葉を合図に演奏を始める。しおりも合わせて踊りだす。


 初めてじっくりと見るしおりのダンス。

 その美しさと、人前での演奏の緊張から頭が真っ白になってしまった。

 焦りから音を出すのに詰まり、どうしようかとしおりに目を向ける。そこには信じられない光景があった。


 しおりがまるで水鳥のように見える。いつの間にか現れた周りの仲間たちは、彼女からどんどん離れていく。追いつこうと必死に水面を掻くが、巧くいかずに1人もがき苦しむ。

 そんな情景を前にした俺は彼女を励まさなければと、懸命に気持ちを込めて音を出す。

 その音が届いたのか、彼女は足を止め、羽を広げゆっくりと動かし始める。

 すると小さかったその羽は大きな翼となり、大空へと羽ばたいて行った。本当に優雅で気品のある白鳥のように。

 その白鳥を笑顔で見送ったところで演奏が終わる。


 もちろん、目の前に白鳥などいない。本当に不思議な感覚だった。


「翼くん、すごいよ~」

「いや、しおりのおかげだよ」


 これは素直にしおりのリード、いや、彼女のダンスが俺に見せた景色のおかげだった。


「この曲、日本で1番好きな曲なんだ。でも、これで自信が持てたんじゃない?」

「え?」


 ――俺に自信を持たせるために、しおりは? ……って、まさかな。


「上手に出来ました」

「や、やめろって」


 そう言ってしおりは優しく俺の頭を撫でた。本音は嬉しいが、どうしていいか分からずそう返す。


「あはは、ごめんごめん。じゃあ一緒に写真撮ろう」

「あ、うん」


 俺がスマホを取り出すと、しおりは古びたカメラを出す。


「あれ、スマホじゃないの?」

「うん、私スマホ持ってないから。おじいちゃんにカメラ借りてきたの」


 はにかみながらしおりは言う。それがまた可愛くてたまらない。


「はい、笑って~。ウーイブカ」


 しおりが俺に顔を寄せ、それぞれ片手にカメラとスマホを持ち自撮りした。

 撮り終わると、俺たちは顔を見合わせ照れ笑いをする。


「翼くん、今日もありがとう。そろそろ帰るね」

「明日も会えるかな?」


 別れ際、勇気を出してしおりに聞いた。


「ちょっと、色々とやることができて、明日は来れないと思う。でもまた、きっと会えるよ」


 しおりはうつむき、申し訳なさそうに言って帰っていった。

 少し残念ではあったが、スマホに残った写真を見ながら、しおりに語りかけた。

 次会えるときを楽しみに待つよ。

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