此処

 朝から泣きに泣き、暴れに暴れ、まだしゃくり上げている真穂を抱いて、新幹線に乗り込む。

「真穂君、ごろんってしていいからねー」

 朔斗はいつも、向かい合わせの六席分のチケットを確保する。

 進行方向向き、窓側の二席の肘掛けを上げ、真穂を寝かせる。真穂の隣、通路側の席に、俺が壁になるように座る。向かい合わせの窓側に、朔斗が座る。

 帰省シーズンで混雑する中、随分と贅沢な使い方だ。

 だがこうしていないと、真穂がぐずるし体調を崩すしで、移動どころではなくなるのであった。

「律君……」

「ん」

 ずるずるとくっついてきた真穂の涙が、腿の辺りに浸みる。

「あ、そうだ、そうだ」

「気を付けろよ」

「うん。……わ」

 朔斗が立ち上がった途端、車両が揺れ、朔斗をよろめかせる。

「気を付けろと言った」

「っと、ぁ、ありがとう。ごめん……」

 俺の腕は、朔斗が真穂に倒れ掛かるのを止めていた。

「いいんだ」

 ふと、心底楽しそうに笑う彼女の声を思い出す。

「大丈夫か」

 先刻、窓台に脚を強打した音が聞こえた。

「ちょっとだけ、痛い……。けど、大丈夫」

「そうか」

「うん……。で、ええと、何だっけ?」

「膝掛けじゃないか」

「あ! そうだった! さすが律君」

「気を付けろよ」

「うん……。よいしょ」

 朔斗が、荷物棚に置いた鞄を危なっかしげに下ろし、ファスナーを開ける。

「えーと……、あった、あった。……はい、真穂君」

 朔斗が、蹲る真穂の身体に、真穂のお気に入りの毛布をそっと掛ける。

「ぅ……」

 少し色褪せた木の葉模様の毛布にすっぽりと包まり、真穂が鼻をすする。

「あ、クッションもいる?」

 真穂が、小さく首を振る。

「でも真穂君、律君の脚、痛くなっちゃうよ」

「ぅうぅぅう……」

 真穂はさらにきつく、俺の脚に縋りついてくる。

「大丈夫だ」

「そう? 無理しないでね」

「あぁ」

 無理などない。

 痛みは分かる。

 ただ、真穂の力程度では痛みを生じないだけだ。

 痛み。

 苦痛。

 遺伝子の容れ物の危機に気付く為の機能。

 暑さと寒さを知らない俺に。

 空腹を知らない俺に。

 必要、なのだろう――

 分かる必要があるから、分かるのだ。




 車両がゆっくりと速度を落としているのが、音と振動の変化で分かる。

「ついたぁ……?」

「ううん、まだだよ。寝てていいからね」

 真穂は答えず、毛布に、頭まで包まる。

 震えている。

 車両の運動が消える前から、ばたばたと立ち上がり、荷物を纏め、歩き出す音が狭い空間に反響する。

 小さな背中を温めるように手を置くと、僅かに強張りが解けるのを感じる。

 騒音のピークののち、一瞬の静寂、そしてまた、騒音の増大。

「真穂、来るか」

「うぅ……」

 真穂を膝に抱き、毛布越しに耳を塞いでやる。

 小さな手が、俺の服を千切りそうな程に握り締められる。

 車両が、ゆっくりと滑り出す。

 速度が上がるにつれて、忙しない音は小さくなっていく。

「真穂君」

「ぅん……?」

「おやつ、食べる? 気持ち悪い?」

「たべる……」

「少しな」

「うん……」

「よし、ちょっと、待ってね……」

「気を付けろよ」

「うん……」

 朔斗がまた、危なっかしげに鞄を下ろす。

「わざわざ上に置かなくてもいいだろ」

「だって、上に置くもんでしょ? なんで席に置くのって、思われるよ」

「金は出してるんだから、堂々と使えばいい」

「そうかなぁ……」

「こけたり、荷物落としたりする方が迷惑になる」

「そうかぁ……」

 考え考え、朔斗が鞄から、行きがけに寄ったコンビニの袋を取り出す。

「真穂君、どれがいい? 真穂君、調子悪そうだったから、僕と律君で選んじゃったんだけど……」

 硬めのラムネ、チーズ鱈、一口餡ドーナツ、動物の足跡形のクッキー、葡萄味のグミ、素焼きカシューナッツ、フライドポテト風菓子。

 チョコレートは体調が悪化するので買わない。真穂も食べたがらない。

 袋を受け取り、真穂に見せる。

「朔斗」

「あ」

 癖で荷物を上げようとしていた朔斗が、ぴたりと止まり、しゅんとした様子で、鞄を隣の席に置く。

「グミ……」

「これか」

「ありがとう……」

 真穂が毛布の隙間から手を伸ばし、袋を取る。

「ん……」

 幼い手が、袋の上を滑る。

「開けようか」

「うん……」

 厚みのある袋の切り口から、苦も無く開封される。

 開け口の下にあるジッパーも開き、真穂に返す。

「はい」

「ありがとう……」

 真穂が、半透明のパウダーのついたグミを一つ、血色の良くない口に入れる。

「ん」

「よく噛めよ」

「うん」

 真穂は、少し柔らかくなった表情で、黙々と菓子を噛み締めている。

「美味いか」

「うん」

「良かったぁ」

 俺と真穂を、にこにこと眺めていた朔斗が、安心したように言う。

「律君にもあげるぅ」

「ん、ありがとう」

 真穂の不器用な手に、グミを食べさせてもらう。

 甘酸っぱい。

 程よい歯ごたえを楽しむと、甘味と葡萄の香りが増してくる。

 香料ではない、果汁の味――

「おいしい?」

「あぁ。美味い」

「んふふ」

 疲れた、しかし幸せそうな笑みを浮かべ、真穂がもう一つ、グミを頬張る。

「朔斗君にもあげる」

「え? 僕はいいよ」

「あげる」

 のそのそと膝から下りた真穂の肩を持って、一緒に朔斗の所まで歩く。

「はい」

「ぁ、ん、ありがとう」

「おいしい?」

「うん、美味しいよ」

「んふふー」

「座って食べろよ」

「うん」

 嬉しそうに、また新たなグミを頬張る真穂を、朔斗の向かいに座らせる。

「はい、律君」

「ありがとう」

「朔斗君」

「ありがとう」

 小さな一袋は、三人で分けるとあっという間に空になる。

「朔斗、昼食、今のうちに食べておくといいんじゃないか」

「あ、そうだね。いただきますね」

「あぁ。で、おしぼり貸してくれ」

「おしぼり? もらったっけ?」

「入れてくれてた」

「……あ、ほんとだ。よく見てるねぇ」

「そうか」

「うん、そうだよ。……はい」

「ありがとう」

 だいぶ落ち着いて、うとうとしている真穂の口と手を拭き、寝かせる。

 真穂にぐちゃぐちゃにされた毛布を整え、掛け直す。

 朔斗が静かに昼食を食べる音を聞き、眠りかけの真穂が心地良さげに微笑む。




「真穂、着いたぞ」

「んぅぁあああぁぁ……」

 真穂が、目を覚ました途端にぐずり始める。

「朔斗、忘れ物無いな」

「うん」

「栞」

「あ」

 朔斗が、窓台に置いてあった、書店の栞を慌てて引っ掴む。

「よし」

「ありがとう」

 さらに激しく泣く真穂を抱いて、短時間しか開かない扉から下りる。

「ちょっと、休憩しようね」

「そうだな」

 特に急ぐ必要も無いし、次に乗る路線は、比較的本数が多い。

 ホームの椅子に腰掛け、膝の上で泣きじゃくる真穂の背中をさする。

「代わるよ?」

「いい。真穂は軽いし、朔斗は荷物多いし」

「そう?」

「そうだ」




「真穂君、もうちょっとだからね」

「うん……」

 涙も力も枯れた真穂を抱っこしたまま、複雑な構内を歩き、何度も休憩を挟みつつ電車を乗り継ぐ。




「朔斗、おかえりー」

「おかえり」

「おかえりー」

「ただいま」

 両親と姉と挨拶を交わす朔斗をよそに、しがみ付いて離れない真穂と共に、ベランダへ跳ぶ。

 横長く、両隣の部屋と繋がったベランダ。

 ここだ。

 最初、ではない。

 でも、それは、ここだった。

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