第7話 相見

 家に入り真っ先に出迎えてくれるのが家族や恋人、ペットであれば尚帰宅した嬉しさは増すのであろうが、私を出迎えたのは酷い異臭であり、この様子では余程帰宅を待ち望んでいたとみえる。

お兄ちゃんと別れ自宅に戻り中に入るや否や臭いはまるで主人の帰りを喜ぶペットのようにこちらへ迫ると、その歓迎に嬉しさとは程遠い感情が私の心を満たした。

言うならばその異臭は生臭いと表現がするのが相応しいであろう。

しかし母に尋ねるもそんな異臭は感じないと言う始末で、動揺などすることも無く平然とした様子であった。

しかしながらこの異臭を受け流す事も出来ず、このままでは寝る事は愚か一時間たりともこの場に留まる事は出来ない。

ただでさえこの場所へ戻って以降いろんな事があり疲れていると言うのに、休む間もなく異臭の発生場所や原因を突き止めなければならないなど、私に安らぎの時間が訪れるのはいつなのだろう。

疲労困憊の中警察犬のように家の中を隅から隅まで嗅ぎ回り、探偵のようにあらゆる痕跡を辿っていると、突如その濃さを増す台所に私は気絶しそうだった。

「結糸。・・・あなた何してるのよ。ふふっ、シンクに首なんて突っ込んじゃって、面白いっ。」

「お母さん、やっぱりこの家臭うよ。下水から何か異臭が上がってきてるのかもしれないね。」

「窓を開けてればその内臭いなんて消えるわよ。それより、昼ごはんにしようかっ。久しぶりに腕を振るっちゃおうかな。」

「本当?でもこの家何か食材あるの?」

「あるわよ沢山。」

「・・・お母さん、これって何?冷蔵庫の中にあるこの大量のタッパー。」

「あぁ、それ?ハツよ。新鮮な物が手に入ってね、それを使おうかっ?」

「えっ、いやーその・・お母さんは知らなくて当然なんだけど、私お肉が少し苦手なんだよね。ははっ、ごめんね。・・・じゃ無くて、このハツどうしたの?何処で手に入れたか聞いてもいい?」

「・・・どうしたのよ結糸、そんな真剣な顔して。お肉屋さんで買ったに決まってるじゃない。」

母と再会しほんの数日しか過ごしていない私でさえ、嘘をついている時にこのような不気味な笑みを浮かべると既に知り得ている。

良からぬ嘘をつく事は弱い証拠であり、母は自分の弱さをひた隠しにし何かを恐れているに違いない。

母を知ればその真意が見えてくるのだろうかと、皮肉にもこんな状況になり初めて母を深く知りたいと思ってしまった私も少しおかしいのだろう。

しかし母の弱さについて現時点でどうこう出来る問題ではない為、差し当たって様子を見るとしても臭いどうにかしたいものだ。

何せ排水溝だと思っていた臭いの根源は、言うまでも無くこの冷蔵庫に保管してあるハツから発せられる異臭であった。

これは何なのか、妄想を趣味とする私が良からぬ考えを抱いた事は想像が付くだろう。

母は台所で何かをさばき、その心臓を食しているのではないだろうか。

そんな突拍子もない憶測は私に声を掛ける母を拒絶してか否か、体は硬直し手には汗が滲み不快な程湿らせた。

妄想もここまで来ると病気なのではと思ってしまうが、その考えが払拭できず挙げ句の果て家から逃げるように出て来てしまったのだ。

恐らくこれは、異臭への拒絶などではなく、恐怖だろう。

行く頭もなく歩く私の頭の中は目の前の事実を否定し続けた。

まさか鶏や豚を一頭買いし自宅で捌いているのでは無かろう。

考えれば考える程思考は混乱し、頭や心が疲れるとまたいつもの欲求が押し寄せる。

しかし悩んだ時はいつも手を差し伸べてくれる叔母に会いたいなど叶わぬ願いであった。

そうと分かっていながらも叔母の墓へと向かう足は何処か浮き足立っている。

こんな時叔母は何と私に声を掛けるだろうか。

馬鹿な事を言うなと背中を叩き笑い飛ばすのだろうか。

墓石の前に立ち思う事は、何故私の前からいなくなってしまったのかと、それだけだった。

「環・・だよな。どうしたんだ顔が真っ青だぞ。一人なのか?」

「お兄ちゃん・・・。お兄ちゃんも何でこんな所に?仕事じゃなかったんですか?」

「今日の予定が少し変わって、時間が出来たんだよ。何かあったのか?」

「ちょっとね。おばあちゃんのお墓参りなんて初めてだ。遅くなっちゃったなぁ、おばあちゃん怒ってるかな?」

「確かに『来るのが遅いっ』って言ってるかもしれないな、ははっ。でも憎めない人だよ。」

「お兄ちゃんとおばあちゃんっていつから知り合いなの?」

「環が産まれる少し前かな。君が産まれた時は自慢げに家を訪ねて来たよ。」

「へぇ・・その時お母さんはいたの?」

「確かいたなぁ。凄く静かな人で今の様子とは随分違うように思ったけど、色々あったから、何か変わってしまったのかも知れないな。」

「私、時々お母さんと上手くやれるか不安になるんです。」

「・・・じゃあうちにでも来るか?」

「え?ふふっ、それも良いかもっ。」

「え゛っ?よ、よく考えた方がいいぞ。俺も一応男だからなっ。」

「あははっ、冗談だよ。私の家はあの家だよ、逃げる事なんて出来ない。さっ、寒いしお参りして帰ろうかな。」

「あぁ、俺は先に行くから二人でゆっくりと話すと良い。」

叔母やお兄ちゃんとの会話はいつも私の心を軽くし、それは今日とて同じだ。

目を閉じ手を合わせ目の前に叔母が立っている所を想像すると、私はいつものように今日あった出来事を話し、それを家事をしながら聞く叔母の姿がある。

あまり熱心に話を聞いていないのではと思うその姿は、むしろ私の話などそう深く悩む事では無いと思わせてくれるようで心が安らぎを取り戻すようだった。

体こそこの世にはもう有りはしないが、叔母は今日も確かに私の心に存在し、自分の目で見た物、心で感じた事を信じれば良いとそう語ったのだ。

そうして叔母はいつ何時なんどきも私の心に寄り添い言葉を掛け続けたが、果たして私はどうだろうか。

思い返せばいつも胸に詰まるこの罪悪感を有耶無耶うやむやにしてはいないだろうかと、頭の中に広がる都合の良い夢が時間を止めた。

過去の叔母を繰り返し夢に見るこの瞬間も自己の正義を真っ当せんとし、その裏では到底理解し得ない苦しみを抱えているのだ。

そうと知りながら口を閉ざす私は今も尚罪を犯し続けている。

そしてその罪をつぐなえるのも私のみであり、勇気を出すならば今この時より他に無い。

「おばあちゃん・・・・ごめんね。私、お母さんの所に戻って来ちゃった。おばあちゃんが全てを掛けて守ろうとした物を壊しちゃったの。それに・・それ、に・・・・おばあちゃんが死んだのは私のせいだよっ。私が考え無しに窓ガラスなんて割ったから、私が守って貰わなきゃいけない程弱いから、私なんかが・・生きてるから。」

「でも、自分で決めた事なんだろう?」

「・・へっ?」

「だったらなりふり構わず前に進むんだよ。結糸ちゃんのせいで私が死んだ?冗談よしてよ。弱音なんて吐いてないで自分の決めた道を貫きなさい。・・・結糸ちゃんなら大丈夫、私の娘でしょう?」

「うん。・・・うん、うん。」

叔母が実際にこの場にいて私に声を掛けたのだと信じる者はいるまい。

しかし私には間違いなく叔母の声が届き、例えそれが空想の産物だとしても、胸に詰まる罪悪感を拭い去るには十分過ぎた。

次は自分の力で自分を守り、叔母の守りたかった物を私が守る番なのだ。

気付けば随分と長い間墓にいたようで昼食は愚か、既に夕食の時間である。

自宅玄関の前に立ち思う。

私は負の感情により少し信念を履き違えており、目的は母の真意を暴き追い詰める事ではないのだと。

間違いを犯しているのならば正すのが家族であり、守る事が愛であると何故今まで気付きもしなかったのだろうか。

私は母を守る為、愛と言う信念の元その扉を開いた。

すると中は異臭が少し残るものそれ以上に空腹を促す匂いが部屋中を満たしており、この出迎えは非常に大歓迎である。

見ると母は台所に立ち食卓にはあの得体の知れないハツは無く、野菜や魚を使った料理が並んでいたのだ。

肉が苦手だと嘘をついた事に何の疑いもなく手料理を作り、私を思い帰りを待っていたのだと考えると胸は苦しくもこの空間は愛で溢れていた。

「お母さんごめん。・・ただいま。」

「結糸っお帰りなさい。あの、ごめんね。結糸を昔のままでしか見てなくて、何も知らなくて。それで・・・。」

「ううん、私こそごめん。ご飯すっごく美味しそうっ、ありがとう。」

「・・・お腹、空いてる?」

「勿論ぺこぺこっ。」

「ふふっ、よかった。沢山作ったから一杯食べてねっ。」

「買い物どうしたの?お金とか。」

「お母さんバイトしてるのよ?」 

「えっ?そうなの?知らなかった。」

「知らない事ばかりねっ。」

「本当だぁ、あははっ。」

母との関係修復がこんなにも容易かったなどと、数時間前の私は知るよしもないだろう。

答えは単純で、ただお互いを思いやればそれでよかったのだ。

勿論見過ごせない行為や言葉の数々はあるが、正す術は恐らく何処かにあるはずだと知った私は、もう母を忌み嫌う事など無く私達の間には確かに絆は出来つつあった。

それからの時間は母と離れた後私がどんな日々をを過ごして来たのか延々と話し続け、時の流れは瞬く間に過ぎていった。

話題となるのは私の事ばかりで、無論母が何をしていたのかなど口が滑っても聞く事などない。

母との会話は懐かしいと言う感覚とは違ったが何処か心は温かくなり、いつしか夜はけ母と肩を並べ眠りにつくと私は深く落ちていった。

幸福な時間は心地の良い眠りを創造し、それは更に目覚めの良い朝へと繋がってゆく。

そして勿論、例によって今夜の母との時間は素晴らしい眠りと目覚めを与えてくれるはずだったのだが、どうやら必ずしも良い時間が睡眠の質を向上させる訳では無いらしい。

そんな法則自体が間違っているのか、あるいは元より幸福な時間では無かったのか。

どちらにせよ今日の眠りは最悪で心地良かったのは初めの二時間程度だったろう。

一度は消えたと思っていたあの異臭との再会が、始まりである。

次いで迫り来るは不気味な咀嚼音で、見ると左隣で寝ていたはずの母が、深夜だと言うのに台所へと立ち何か食しているのだ。

静まる室内にその音が響き渡り、母の姿と漂う異臭はまるで獣を思わせ、逆光により何を食しているのか定かでは無かったが、この異臭によりそれが何か推測するなどそう難しい事ではなかった。

日本語とは不思議なもので、ハツと聞けば何処か美味しそうに聞こえる部位も、心臓と聞けば不快感を覚えてしまう。

焼き肉のメニューの中では心臓が好き、舌が好きなどと会話が繰り広げられたのならば、おぞましい事この上無い。

故に今目の前で母が食している物は心臓と言う表現が相応ふさわしく、そんな姿を見て声を掛けれるほど私は勇者では無いと言う事だ。

そうとなれば私が何辛うじて繰り出す技は寝たふりと言う実に姑息なもので、使うアイテムは誰でも容易く手に入れる事の出来るティッシュである。

これは鼻に詰め臭いを軽減する物としても用いられる。

考えればこの様な余りに見え透いた演技など、直ぐに暴かれるに違いなく落ち落ち寝ている場合では無いのだか、母は台所から一向に動かず気付く気配も無かった為、当初の緊張感は次第にその張りを緩めると私は眠りほうけてしまったのだ。

今思えば呑気な自分に全くあきれて物も言えず、もしや一番恐ろしいのは慣れかも知れない。

そして最悪な眠りはこれだけでは無い。

それは私をそのまま野放しにはしてくれず、人生で初めての金縛りを体験させようと言うのだ。

得体の知れないそれは私の上に四つん這いになると顔を覗き込む様にじっと見ている気配がし、目は開けようと思えば開けられたのだろうが恐怖から開ける事は出来ずにいた。

体は極度の緊張で固まっている状態に近く、霊感など現在に至るまで感じた事など一度も無い私は、これが世に言う金縛りなのだと恐怖と興奮が入り混じる複雑な心情であった。

暫くすると恐怖は過ぎ去ったのか体は軽くなり、そのまま以降の記憶は全く無く目を覚ますと母は変わらず横で寝ていたのだ。

果たして心臓を食べていた母や金縛りは現実なのか、今となっては確かめる術は無いもの、昨夜のおぼろげな記憶が事実だと仮定しても私に出来る事など様子を見る他無く、更に今日は予定がありそれどころでは無い。

昨日は様々な出来事があるも何とか頭を整理して来たが、唯一不明瞭で私の心を戦慄へと導き離さない現実がある事はもはや説明など不要であろう。

陽ちゃんの生死、それだけが私を恐怖へとおとしいれ、無事を確認せずして私に平穏な日々など訪れる事など無い。

病院へと向かう足取りは重く、近付くに連れ不安と緊張は何倍にも増していくようだった。

そして思い浮かぶのは昨日の情景で、それは何度も頭の中を繰り返し流れ続けたが、何度見ても何故こうなってしまったのか検討も付かず、ただ気掛かりなのは母を見た瞬間の陽ちゃんの様子であった。

加えて私を図書館へ呼び出した理由は陽ちゃんのお母さんに関係があるとも言っていた様に思う。

考える程に頭は新たな情報を処理出来ず、情報を収納する引き出しは不統一で数は増えるばかりである。

病院の前まで到着すると差し詰め処理出来ない引き出しを全て閉じ、不安のみ抱え病院の出入り口を潜った。

「あっ、あの・・すいません。双葉陽と言う患者は入院していますか?友人でして、面会したいのですが。」

「あぁ、昨日のあの子ね・・。うーん、そうだなぁ。」

「・・・え、どうしたんですか。入院、入院してますよね?・・ですよねっ?」

「あっ、違うのよごめんなさい。ただあの子は今面会出来る様な状態じゃ無いのよ。勿論無事ですよっ、それは間違いんだけど。」

「はあぁっ、そっか無事か・・・よかったぁ。いや、すいません。私こそ無神経でした。・・・無事が確認出来ただけよかった。」

「お気持ちは察します、でもごめんなさい。もし、話が出来る状態になれば来た事は伝えますから。えっと・・お名前は?」

「環結糸です。あの、これっ。お花なんですが・・その。」

「側まで持っていきましょう、ね?きっといい匂いだと感じているに違いないわ。」

「は、はいっ。ありがとうございますっ。また来ます、来ても良いですか?」

「いつでもどうぞ、ふふっ。」

安心からか高校野球部を思わせる声量は周囲の視線を集め、微笑みや嫌悪感など様々な思いが向けられる一方、一際刺す様な視線が向けられていた事など知る由もない私は心弾む思いで病院を出たのだ。

そう、私はいつも何も知りはしない。

私を取り囲む人々の私怨しえん謀略ぼうりゃくも脅威も、自分自身に待ち受ける運命さえも知りもせず、鳴り響く悪夢の始まりを手に取るのだった。

「もしもし、俺だ。椿の面会の件だが・・環の母との面会許可が出たそうだ。」

「え、本当に?」

「あぁ、だが本当に大丈夫だろうか。少し心配でな。」

「うん、そうだよね。私も少し不安だけど、会ったからって何か起きるわけでもないし大丈夫だよ、ね。」

「まぁな。とにかく次に考えるべきは日取りだよ。いつなら準備が出来そうだ?」

「じゃあ、明日っ。」

「明日?・・あぁ、わかった。俺も一緒に行くから、時間はまた追って連絡する。」

「うん、わかった。」

始まりとは実に些細な出来事である。

しかし実際にはそれぞれの人間が歩んでいた道が私の元へ集結すると同時にそれが大きな一本の道となり、即座にスタートラインが引かれ始まりの火蓋が切られているだけの話なのだ。

集結した人々の人生が今、ある運命の歯車によって動き出したと皆は気付いていたのだろうか。

気付いても尚、その運命に動かされるべく私の元へと集まったと言うのだろうか。

少なくとも私は何一つ気付いていない上、そんな運命に関与する記憶など一切無く、どう足掻あがこうと歯車を止める事はなど決して出来ない。

私にはもう前に進む以外選択肢など無いのだ。

「結糸、お帰りなさい。」

「ただいまっ。お母さんちょっといい?」

「どうしたの、帰って来て早々。」

「椿がお母さんとの面会も許可してくれたってさっき弁護士さんから連絡があったよ。」

「あらそうっ?・・そうでしょうね。」

「それで、急なんだけど明日はどうかなって思って。やっぱりバイトとかあるよね?」

「いいえ、明日は丁度休みなの。よかったぁ、早く会いたいわ。」

「・・・ごめんね、お母さん。聞いてもいい?何でそんなに嬉しそうなの?」

「そりゃあ・・娘を傷つけた男の人に罵声を浴びせようと意気込んでるからよ?当たり前でしょ、お母さんなんだから。」

「あぁそっか・・・・分かった。明日は午後一時に弁護士さんと待ち合わせしてるから。」

「一時ね、準備しておくわ。・・・ねぇ結糸。」

「ん?どうしたの?」

「前に約束してた旅行の話何だけど・・やっぱりやめにしようか。結糸も大変な時で中々行けそうに何いみたいだし。」

「あっ・・いや行こう。そうだなじゃあ面会の2日後はどうかな?それまでに荷物を準備するからさ。ね?行こうよ。」

「え・・・・いいの?でも、仕事とかは大丈夫なの?」

「良い資料集めになるかもしれないし、気分転換にもなるだろうから。寧ろずっと行けなくてごめんね。」

「本当に?嬉しいっ、ありがとう結糸。お母さん行きたい所があって、色々決めちゃって良いかしら?」

「勿論、楽しみにしてるよっ。」

夕食などを済ませると母は早々に布団へと入り、眠りへとついた。

そんな中、ここ二日間慌ただしく過ごしていた為仕事をしなくてはとペンを手に取る私の心情など、ただの言い訳である。

しかし書き始めたは良いもの早々に手は止まり、私は思い悩んでいた。

椿に別れを告げたあの日から身動きが取れずにいた物語の主人公が、再びその足を動かさんとする活力は一体何だろうか。

恐らく彼が苦しみを周囲の人間にどれだけ叫ぼうと報われない所以ゆえんは、真に理解者となる者がいないからである。

故に彼が前へ踏み出すには理解者の登場が鍵となるにな違いない事は分かっていても、そんな人物が丸で頭に浮かばないのだ。

想像するにそれは彼の話を聞き同情するような理解者では無く、彼と同じような人生や苦しみを味わって来た本当の理解者であろう。

そして更に理解者は何処へ向かうべきか既に知り得ており、彼よりも前を歩き導く存在でなければならない。

ただ分かった事は、椿の事を考えていると時間の流れる速度が異常に早いと言う事だけだった。

そうして気もそぞろな一夜を仕事に打ち込む事で、難なく明かすと遂に今日がという日が始まる。

待ち合わせまでまだ時間は充分にあるはずが、以降も私は睡眠を取ることなど無く、母が目覚めると朝食を取りその後は外を散歩だ。

散々歩き回ると家に戻り、外を延々眺めそれとなく過ごす。

いわゆるこれは上の空という状態だろう。

上の空など私にすれば日常茶飯事であったが今日はただの上の空とは訳が違い、体感時間も倍以上の速度であった。

気付けば待ち合わせの一時間前となり、準備でせわしなくしていたが、家を出るや否や以降刑務所に到着するまでの記憶など殆ど無い。

思えば自宅前の道路で出会って以来初めて顔を合わせるのだから当然である。

しかしそんな緊張など余所よそにに足は着々と面会室へと近付いて行き、等々扉の前までやって来た。

このまま逃げて家に帰りたいと願っても、既に手遅れなのだ。

「・・・大丈夫か?」

「う、うん。ちょっと緊張してて。」

「無理すること無い、環は被害者で精神的に追い詰められる事も容易に考えられる。いつだってやめられるんだぞ?」

「ううん、違うの・・本当に、ただちょっと緊張してるだけ。大丈夫、行こう。」

「・・あぁ。お母様はどうしましょうか?一緒か別々か、どちらでもいいと椿は言ってるそうですが。」

「そうね、別に入るわ。ありがとう。」

「分かりました。・・・では、行こう。」

この時の感覚を例えるならば、陽ちゃんが事故にあった翌日、安否を確認する為病院を尋ねた時の感覚と良く似ているように思う。

緊張と不安、そしてそこに無事にいるのだと分かった時の安心感と興奮。

状況は違えど同じような感情がここにもあった。

昨夜までは誕生日のプレゼントを開けるような感覚になるのかも知れないと考えていたが、実際には大きく違うようだ。

それもその筈で、プレゼントとは初めて出会うが故にわくわくするものであり、以前から知っている人物との再会は安堵するのだろう。

しかし椿は決して安堵したく面会を希望したわけではない。

私をわざわざ呼び出したのには何か理由が有るのであって、特段特別な感情がある訳では無いはずだ。

そう例えば『会いたかった』などと口にするなんて事は決して有りはしない。

ドアを開けた瞬間、椿の顔が見えそうになる最後の最後まで、期待するだけ無駄でただ用事があるだけなのだと何度も頭の中で唱えていたのだった。

「・・・・あ、あの。お久しぶりです。」

「あぁ、座って。」

「っはい・・・・・・。」

「思ったより元気そうだ、傷はどうなりました?」

「おいっ・・いや口を挟んで申し訳ない。」

「いや、いいですよ弁護士さん。彼女を守るのが貴方の仕事ですから。でも、それだけの感情では無いようですね。」

「あの、椿さん。今日は何か用件があったのでは無いですか?貴方はもう一切私とは関わらないと仰ってましたよね。・・・でも、何で?」

「そうなんだ、でも気が変わった。・・・君にはやっぱり僕を知って欲しいんだ。当初の目的通り、俺を理解し発信してもらおうかなと考えたんだよ。」

「それは・・どうしてですか?」

「・・・・・言ったろ、気が変わったんだ。」

「分かりました。では今まで通り、文通は再会します。」

「宜しく頼むよ。それから、これからは君の好きな時にここへ来るといいよ。」

「えっ、面会もいいんですか?」

「うん。文通だけでは中々伝わらない事もあるだろうから。それに、君とこうやって顔を合わすと・・・・。」

「合わすと?」

「わ、忘れそうになる憎しみを思い出す事が出来て、好都合だ。俺にとっては・・・好都合なんだ。」

「・・・分からないんです。何故椿さんが私を憎んでいるのか。何の心当たりもない。」

「だから、それを知ってもらうんだよ。僕の弁護士に自宅の鍵を渡してある。受け取って俺の部屋へ入ってみるといいよ。そこに全てがある。」

「・・・椿さんの部屋?わ、分かりました。

用件はそれだけですよね、じゃあそろそろお母さんと交代します。」

「あぁ・・・それだけだ。」

「失礼します。・・・あ、言い忘れていました。私気付いたんです。手紙で見た時は嘘なのかと思ったんですが、私は貴方をやはり知ってるんですか?」

「・・・・な、んで。」

「・・・いや、何と無くそんな気がして。私・・すいません。答えは椿さんの部屋にあるのでしょう?・・もう行きますね。」

「待って。」

「はい?」

「・・・・・・俺も・・・俺だって・・・。いや、何もない。」

この会話を耳にした者がいれば、椿の言葉の数々をどう捉えただろう。

一見言葉には棘があり私に対する憎悪を露わにしていたが、彼の表情や纏う空気はそれをひたすらに否定し続けていた。

しかしそうであったとしても、私は何も期待してはならないのである。

本当は憎んでなどいないのではと、間違っても考えてないならない。

そして自分を理解して欲しいと言い放ったその言葉は、周囲の人間では無く私へ向けた言葉なのではないかなどと、決して何も期待してはならないのだ。

期待すればまた傷付くと知りながら立ち向かえる程、私は強くは無い。

私は彼の事など殆ど知りもしないのだ。

大方私を又もや苦しみへ陥れようと策を巡らせているか、理解者として私が適していると見誤っているのだろう。

そう言い聞かせ、私は面会室を後にした。

次は母が面会する番で、一体何を話すのだろうと考えていた矢先である。

私は扉を閉めた直後の出来事が今でも頭に焼き付き忘れもしない。

出入り口の前に立つ母が不気味に息を切らしていると思えば、突然大声で高笑いし私とお兄ちゃんに何も告げず面会室へと入って行ったのだ。

その光景は身の毛もよだつ程心底気味が悪く、咄嗟にお兄ちゃんの手を引き一階ロビーへと降りた事を今でも良く覚えている。

母が何を目的とし何を企んでいるのか、私を傷つけた椿へ物申したいと言った言葉は嘘か真か。

母を野放しにしてはならないと必死に生きた叔母の言葉に背いた報いを、今より私は容赦無く突き付けられる事となる。

「・・ふふっ、あ゛ぁっはっはっ、惨めねぇ・・・冬真くん。大きくなった。」 

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