第8話 露顕

 お兄ちゃんは実に優しい人間である。

面会室から立ち去った事を酷く心配し執拗に声を掛け、きっと何かあったのだろうと私を元気付けるのだ。

しかし一方で私はお兄ちゃんが心配しているにも関わらず、自分自身の正気を保とうと声を掛けているのだと思ってしまい、実に捻くれ者である。

あんなにも不気味な母を見たのだ。

動揺しない方がどうかしているのだろうが私は少し違い、勿論母が余りにも不気味で背筋が凍った事には違い無いが、理由はそれだけでは無かった。

心臓が飛び出しそうな程の緊張を抱え椿と久しぶりに対面し、その極度の緊張が部屋を出た瞬間に途切れ逃げたくなったのだ。

慣れとは不思議な物で母のおかしな行動や発言に都度理由付けしていては身が持たないと考えた私は、自己防衛からか深く考えないようになってしまった。

悪く言うならば『また頭がおかしくなった』とそんな具合である。

かと言ってよくある事だと話すのも何処か違う気がし、私はただお兄ちゃんの声掛けに頷き続けた。

散々私をなだめ続け自己暗示に成功したお兄ちゃんは、椿の弁護士に鍵の事を聞くのだと外へ出て行ってしまったのである。

するとその後何故か突然職員らの様子があわただしくなり、面会を終え一階に降りてきた人々も酷く動揺しているように見えたのだった。

「・・ぁあのっ、どうかしたんですか?」

「あぁいや私も聞いた話だが、面会中に受刑者の一人が暴れ出したらしいんだよ。全く怖いねぇ、反省の気持ちなんてありゃしない。」

「・・・暴れる?」

「あんたも誰かの面会かい?わしは息子なんだよ。本当に馬鹿息子だが、暴れた奴よりは幾分ましだな。それじゃあね、お嬢ちゃん。」

「・・・はい。あの、ありがとう・・ございました。」

「・・おぉいっ、いたいた。椿の弁護士と連絡ついたぞ・・・ってどうかしたのか?」

「・・うん。面会中の受刑者が暴れ出したんだって・・・。」

「そう、か。ここには精神疾患をわずらった受刑者も多くいる。よくある事だよ。」

「そうなんだ、なんだ・・なら良かった。へへっ、良くないか。」

「それより椿の鍵の件だが、彼の言う通り弁護士も承知しているようだ。この後落ち合うが環も一緒に来るだろ?」

「うん、折角だから今日受け取るよ。」

決して良くある事だと言う言葉で落ち着きを取り戻した訳では無かったが、良からぬ妄想から逃避するには十分であった。

しかし暫くし面会を終えた母が何食わぬ顔でエレベーターを降りこちらへ近づいて来る姿が目に入ると、薄れかけた妄想はその濃さを取り戻していき、口は自ずと疑問を投げかけたのだ。

「面会中の受刑者が暴れてるって聞いたけど、椿・・じゃないよね?」

「・・彼は至って普通だったわよ?」

「そっか・・・。」

「えぇ、とっても普通の反応よ。」

「どうゆう事?」

「ふふっ、さぁ帰りましょう。」

「・・・お母さん先に帰っていてくれる?この後弁護士さんと話があるんだ、ごめんね。」

「わかった、晩御飯の準備をして待ってるね。」

時刻は午後九時を示していた。

母の待つ自宅へ戻るべきか椿の自宅へ向かうべきなのか、答えを出せないまま公園のベンチで呆然とし続け気付けば早三時間が経過し、どちらに天秤が傾こうと足は重く動け無い。

どうしてこうも悩みが尽きないのであろう。

つい一年前の私は悩みが無さそうなどと言われていたが、今となっては悩みで人生に疲れ切っている。

いっそ運に身を任せ靴を放ってみてはどうだろうかと思い腰を上げ立ち上がり、誰もいない静かな公園で足を振り上げた。

これでようやく決断出来る。

そう思っていたが、またもやそれは不発に終わり次の悩みの種が舞い込んできたのだ。

「っいってぇ・・・おい、ちょっと。これあんたの?」

「・・・あ、あぁーはい。すいませんでした。靴が突然・・・あっ。」

「ん?あっ、まぁた隣人の知り合いかぁっ。あいつまだ戻ってないみたいだけど?」

「あぁ、いやちょっと私の大事な荷物があって鍵を預かったんですが、家に行く勇気がなくて・・・。」

「どうゆうこと?この公園のすぐ隣じゃん、一緒に行く?」

「ははっ、まぁそうなんですけどね・・・行きますか。」

思いがけず決断の時を迎えた私は、椿の隣人と古びた階段を一段、また一段と登り進めて行く。

その金属音は時を刻むように反響し、音が鳴り止んだその時、私の知らぬ答えを明かす扉が現れた。

鳴り止んだはずの金属音はその形を変え私の中で大きく鼓動し隣人の声も届かず、目に映るものは扉のみであった。

知る事は怖いが知りたいと感情は複雑で、鍵を差す手は震えが止まらず鍵穴を捉えるまでに時間を要したが、漸くその施錠を解くと遂にその時がやって来たのだ。

意を決して扉を開いたが中は暗闇で、電気は通っていないのか唯一月の光と携帯のライトだけが部屋の中を照らしている。

見ると室内は閑散としており、恐らく証拠品として押収されたのか大部分の物が無くなっている状態であった。

残っている物といえば、小さな棚に十冊程度の本と小物類だけである。

私は余りの物の少なさに呆気に取られ、真実を知って欲しいと願った椿が少々間抜けに思え図らずも笑みが溢れてしまった。

しかしながら残り少ない彼の荷物を見て帰らずして立ち去れないと考え、棚の上で寂しげに佇む小物に手を伸ばしたのだ。

一般的に昔を懐かしむ際、過去の映像が止め処なくなく流れ込み、良い過去も苦しんだ過去も今となれば懐かしい思い出であったと処理されているに違いない。

しかし私がその小物を手に取り頭に流れた映像は、ただひたすらに続く暗闇であった。

余りに静かで、あたかも時が止まっているような感覚に陥り、暫くの間その暗闇から逃れることが出来ずにいたのだ。

漸く我に帰ると手に取った小物が何なのか確認出来るまでに意識は回復しており、ライトで照らし露わになった物は、一つの小さな石のペンダントだった。

照らされた石は水のように透明で光を反響させると、部屋中にその優しい光を散りばめ、それはもう美しい情景である。

その瞬間の私は無意識にもペンダントを首元に添え、千切れた跡のある紐を固く結ぶと、その姿見たさに洗面台へと歩き出していた。

ホラー映画では、鏡に映る自身の背後に見知らぬ人物が立ち尽くし恐怖するなど良くある描写である。

映画を見た後も数日間鏡を見る事を恐れ、脳内では後ろに誰かが立っている映像が捏造ねつぞうされて続けているのであろうが、実際にそんな体験をした者など早々いるまい。

そんな人々をさげすみ陰で笑っていた私であったが、洗面台の前に立ちライトを当てたその瞬間、年老いた男の人が背後に立っている姿が目に入り、映画のそれと全く同じような叫び声を上げ屈んでしまったのだ。

恐怖に怯える私は、自身の滑稽な姿など気にする余裕もなくその場から走り去ろうと必死で、壁から一センチ程飛び出た棚にも気付かず又もやありふれた展開に陥るとは無様の一言である。

飛び出た棚に左足の小指をぶつけ悶える展開など馬鹿げているが、足の痛みは面白味の無い程激痛だ。

そして更に笑えない展開がまた一つ。

棚に並ぶ数少ない本はぶつけた拍子に雪崩の様に飛び出すと、床は散々な状態である。

これが神の意図的に作り出した展開であるならば、神は随分と面白い事が好きなのであろう。

勿論こんな事をせずとも本はいずれ手に取ろうと考えていたのだが、意図せず本は開かれ椿の言う真実が露わとなって行った。

散らばった本は何処か宗教じみた記述が記された物のようで、開くといわゆる決め事が数多く書かれていた。

その内容は何ともおぞましいもので、深く考えぬよう他のページを読み進めていても余りの衝撃に頭から離れようとはしてくれない。

『罪人は生ある物の心臓を食し、身を清らかに保たなければならぬ』

心臓を食すと聞き母が思い浮かばぬ者はいるまい。

しかし母も偶然この本を読み、この違和感が漂う宗教に染まってしまったとも考えにくく、母が宗教に侵されていると現時点では断言は出来ないだろう。

私は不安を払拭する為、何か母の信仰を否定する記述はないかと本を読み続けていたもの、疑心暗鬼になるばかりであった。

気付いた事と言えば、内容が抜け漏れている箇所があり、本が全て揃っている訳では無いという事だけである。

暫く辺りを探してはみたがそれらしき物はなく、あるのは何の変哲もない単行本であった。

果たして椿が知って欲しいと望んだ真実とは本当にこの事なのだろうか。

頭のおかしな宗教を信仰しそれによって殺害を目論んだと私に伝え、信仰の素晴らしさでも伝えて欲しいと言うのだろうか。

しかしながら優しい雰囲気を纏う椿が、この非人道的な宗教に侵されているとは、どう考えても腑に落ちないのだ。

心臓の件は勿論、死者はこの宗教を信仰する者によって食べて処理される事や、子を授かれぬ者は子宮を取り除くなどと書かれていれば尚のことである。

そんな恐ろしい記述の数々は、認めたくはないが当てはまると言えば母の方であろう。

どちらにせよこの場で一人考えを巡らせても解決には至ら無いと、差し当たって他の何かを物色する事にしたが、当然ながらこんな物騒な本を目にした後では全てが粗末に見えてしまう。

幽霊紛まがいの老人の事など、既に記憶の隅にすら存在しなくなっていた。

そうして暫く周囲を見て回ると唯一目に留まった物と言えば、机の引き出し内に取り残されたようにたたずむ寂しげな茶封筒だけである。

その茶封筒は厚みも然程なく、恐らく手紙か写真であろう。

私は当然この封筒を開けるのだが、盗み見るような感覚は罪悪感にさいなまれ気分の良いものでは無い。

そう思いながらも封筒の中身を手に取ると、それは驚く事に幼少期の椿と同じ年頃の少女が仲睦まじく写った写真であったのだ。

私はこんな物を知らない。

こんな場所も知る筈かない。

けれども少女の首元に下がるあの石のペンダントは、彼女が紛れもなくこの私であるのだと訴えかけ止まない。

すると記憶は私を呼び起こす様に壊れたダムの如く物凄い勢いで頭の中へ流れ込み鮮明に浮かび上がらせたのだ。

そして懐かしくも切なく、そして苦しいそんな感情を私は人知れず涙していた。

記憶の中の椿は、綺麗な石を見つけたのだと満面の笑みで私にペンダントを手渡し、まるで太陽のように温かかい。

けれども涙の理由は、そんな椿を見ると何故か胸を締め付け悲しみのような感情を抱いてしまうからであった。

そんなまるで過去が一部のみ切り取られているような感覚と感情の相違に頭の整理が追いつかず、ただひたすらに悲しみから涙は溢れ続けた。

私はこの悲しみの意味を理解したい。

もう一度記憶の中に存在する椿の笑顔を見てみたい。

故に私は、例えこの先に何が待っていようとも、立ち止まってなどいられないのだ。

涙で霞む視界の中、もう一枚重なっていた写真を不安を押し殺し手に取った。

するとそこに写っていたのは何かの集合写真のような物で、写真の中の雰囲気は重苦しく大勢写る大人の中には母と以前目にした父の姿があり、子供は椿と私のみ写っている。

そして驚く事に先程洗面台で見た老人に瓜二つの人物が写真の中央に立っており、それと同時に湧き上がる激しい拒絶反応は全身を硬直させた。

「い、いやだっ・・・いやだいやだっ消えてよ。」

頭の中をその老人が支配し、迫る手が恐ろしく頭が割れるような頭痛に襲われると、その圧倒的な拒絶により思わず嘔吐し意識は遠のいて行く。

その後自身が気を失っていたと気が付いたのは、隣人が叫び声を聞き私の身を案じてか部屋へ入って来た時だった。

「大丈夫?入るよっ。」

「うぅ・・・。」

「うわっ、どうしたの・・袋とタオルを持って来るよ、待っててっ。」

こんな歳にもなって他人に嘔吐物を処理させるなど恥じるべき事である。

しかし今の私には人の手を借りる他なく、風呂場や着替えまで貸してくれた彼のお陰で、少なくとも嘔吐物塗れで自宅へ戻る事もなくなった。

彼が心の底から心配し手助けする姿は、漫画で良く目にする不良は義理堅いと言う設定を思わせ、図らずも疑念を抱いていたその設定が事実であったのだと身をもって体験したのだ。

彼には誠意を持って恩返ししなければならないだろう。

私はここに来て何を得たのだろうかと物思いに更ける帰り道、写真を鞄の奥底へしまい込むと一度も取り出さず、思い出さぬよう歩き続けた。

椿の部屋に入れば全ての答えが露わになると思っていたがそれは大きな間違いだったのだ。

問題は解決するばかりか、新たなる疑問が浮き彫りになっただけで、私は進む先さえ見失っている。

過去も現在も、疑問も真実も全てが目茶苦茶で頭や心は既に限界であり、このまま自宅へ戻る事も拒絶し始めているのだ。

椿の存在を知りながらひた隠しにする母の真意など考えても苛立ちが芽生えるばかりで、どの道相変わらずの笑みを浮かべ取り繕うのであろう。

とは言え私もこの件に関しては楯突くつもりなのだ。

それでも嘘を貫こうと言うのならば鞄の中の写真を見せれば言い逃れなど出来るはずがない。

そう決意した筈がどうゆう事だろう。

家に辿り着くや否や、母を目の前にするといつもと同じく目に見えない威圧感がこちらを攻め立て、言葉が喉の奥まで来ていると言うのに出て来ないのだ。

帰りが遅かったと声を掛けられ、いつものように母のペースに飲み込まれると平凡な会話が進んで行く。

まるでその言葉一つ一つの裏に、何も聞くなと言う言葉が張り付き私に届いているかのようで、話題を変えるタイミングや変える意思さえ与えてはくれない。

その時間が長ければ長い程私の意志は崩れ落ちて行き、半ば諦めようと思っていたその時、驚く事に母の方から椿の話題を持ち出したのだ。

後になり思えば、これは母が先手を打って来たのだと理解したが、そう思った時には既に遅かったのであろう。

等々私から再び椿の話題を持ち出す事は不可能となっていた。

「ごめんね、結糸。・・・実は椿冬真くん、お母さん知っているの。隠すつもりはなかったんだけど、言い出せなくて。」

「・・・・っえ、あっそうだよね。うん、知ってる。・・・何で隠したの?」

「貴方達は幼馴染みだったんだけど、椿くん・・結糸に良く意地悪してたんだよ。それでどうしてか殺そうとまでするなんて・・。記憶を失くしてるなら、このまま思い出さない方が幸せなんじゃないかと思ったの。ごめんなさい。」

「・・・どうして話す気になったの?言わないつもりだったんでしょ?」

「そうなんだけど、もし結糸に記憶が戻ってたらお母さんに不信感を抱くんじゃないかと思って、怖くて。・・・思い出してたりするの?」

「少し。」

「少しって?」

「小さい頃の椿の姿が頭に浮かんで・・・その、昔からの知り合いだって分かったくらいだよ。」

「そうなの?・・・じゃあお母さん余計な事したかもしれない。どうしよう、結糸が嫌な過去を思い出しちゃったら。ごめんなさい、ごめんなさいっ。」

「っ大丈夫だよ、お母さん落ち着いて。私ももう大人だもん、過去くらい受け入れられるよ。だから謝らないでっ。」

「うん。ごめ・・あ、ありがとう。辛い事思い出したら直ぐに言うのよ。お母さんいつでも助けになるから。」

「わかったよ。話してくれて、ありがとう。」

本当であれば面会した際椿と何を話したのか聞きたかったが、あのパニック状態では聞くに聞けず、高々五分程度の会話でこの話題は終わりを告げた。

会話を終えた母は何事も無かったように早々に眠りにつき、残された私は依然気が晴れないまま悶々とする以外気持ちの行き場など無い。

宣言通り写真を見せ更に追求する事も出来たのだろうが、万が一再びパニックにでも陥れば、どちらかと言えば私の方が慌ててしまい単刀直入に酷く疲れてしまう。

椿の自宅へ向かう以前の計画では、今夜の事を椿と話す為明日は面会にも行くつもりであったが、それも疲れからか億劫になっていた。

そう気揉みせずとも旅行は一泊二日なのだ。

一旦はこの件を心にしまい込み、気持ちの整理を兼ねリフレッシュするには良い機会だろうと、差し詰め旅行を楽しむ事にしたのだ。

そうと決まれば明日は旅行に必要な物の買い出しや荷造り、そして仕事も手を止めていた部分から書き進めねばならず大忙しで、ご飯を食べ終えシャワーを済ませると急ぎ私も布団に体を沈め目を閉じた。

私ともなると大袈裟に言って命以上に睡眠は重要な物であり、永遠に眠ってくれと言われれば、文字通り永遠に眠っても何の問題も無い。

むしろ文字では描けない壮大な物語を永遠と創造し続けられるなど、この上ない幸福であるのだ。

そこには誰からの評価も無く、自己満足のみが満たされて続け、ストレスなどまるで存在しないだろう。

そんな私が眠る事が怖いなど異常事態もいい所で、こんな瞬間など地球が太陽と衝突し世界は終わりを告げると思われたが、実はあの炎は見せかけで太陽自体もゴムボールのように柔らかくぶつかっても全く平気だったと言う展開くらいあり得ない。

そんな異常事態は言うまでも無くあの気味の悪い老人のお陰である。

目を閉じればまた何処からか現れ手を伸ばして来るような気がして落ち落ち寝てなどいられないのだ。

そうして私と老人の我慢対決は密かに幕を開けたが、長い戦いの末、気付けば私は寝てしまい夢には老人は現れる事はなく引き分けと言う結果に終わった。

母は既に起床しており、今日は午前中バイトがあると言い放つと足速に家を出て行ってしまったのだ。

老人との戦いを誰かと共有することも出来ず、少々不満が募ってはいたが、私も仕事へと取り掛かからねば、明日を全力で楽しむ事は出来ない。

思いの他目覚めの良い朝だった為、早速ペンを手に持ちやる気に満ち溢れ書き始めたのだが、進行状況は相変わらずであった。

主人公の理解者と言う難題は、椿が私を理解者として選んだ事により更なる難題へと跳ね上がり八方塞がりもいい所だ。

どれ程考えても良い人物像は浮かび上がらず、渋々選んだ者は私の立場と同じく幼馴染みであった。

当然納得はいかなかったが、何とか想像力で補い書き続けていた。

そして一時間程経過し、集中力が散漫になって来た辺りからだろうか。

視界の隅に時折入り込むある物が気になり仕方がない。

私は決して盗み見るような真似はしたくない上、家族と言えど節度は守らなければならないと言う事も理解している。

しかし母が常日頃肌身離さず持っているポーチが机の端に、まるで罠のように分かりやすく置かれているのだ。

他の者には聞こえぬだろうが、私が密かに中を確認するか否か試しているようにも思えるそのポーチは悪魔の囁きを放っていた。

誘惑に屈してはならないと言い聞かせてはいたもの我慢も虚しく気付けば手はポーチへと伸びており、人間の忍耐力など所詮この程度のものである。

人間失格と言う称号を手に入れた私が目にした物は、浮気調査により絶望を手に入れるそれと同じであった。

大量の睡眠薬と精神安定剤、これを見て言葉を失わぬ者はいないだろう。

それに加え、自殺の方法が箇条書きされているメモ紙を見てしまったとなれば私は失神寸前である。

母の様子が以前から何処かおかしいと思ってはいたがここまでとは想像もしておらず、ましてや自殺を考えているとは思いもよらない事実だ。

このポーチが表すものとは何かと考えを巡らせたが、私にはこの事実を周知し助けを乞い願っているとしか思えず、最悪の想像をせずにはいられない。

そうと知って仕舞えば、その後の私は気が気ではなく母との買い出し中も顔が引き攣り全てが自殺の方向へと繋がってゆく。

長細いボディタオル、携帯の充電器、ドライヤーまでもが凶器に見え率直に旅行どころではない。

旅行前夜眠れなかったなど、私にかれば全く別の意味を成すのだ。

しかし私がどれだけ精神を削ろうとも明日は否応無く訪れ新しい一日の始まりを止める事など出来ない。

私は母に何をしてあげる事など出来るのだろうか、それだけをただ考えていた。

「結糸?どうしたの、ぼーっとして。」

「ん?あぁ、いや何でもないっ。所でお母さん、そろそろ何処に行くのか教えてよぉ。」

「んー?知りたいっ?ふふっ、新幹線の中でね。」

「えー、気になるっ。・・・お母さん、今日は調子どう?」

「えっ?調子って・・・勿論絶好調よ?」

「そう・・なら、よかった。」

「結糸は随分と眠たそうね。昨日楽しみで寝れなかったとか?あははっ。」

「あはっ、まぁそんな感じ。あっ、新幹線来た。」

天候はすこぶる良好で、当然一月と言うこともあり寒さはこたえるが、耐えられない程ではない。

冬の旅行とは鞄が鉛のように重く余り気は進まないが、旅行先が内密にされている事が内なる好奇心を刺激し気が高ぶっている為然程苦でも無い事には驚いた。

しかし私には気を抜いている暇などない。

母が何か仕出かさないか監視の目を緩めてはならないのだ。

とは言え流石の母も新幹線の車内で自殺など考えてはいないだろうと言い聞かせ、獲得した食糧に目がくらみ、母が一人席を立った事など気にも留めていなかった。

恐らくトイレに行っていて、当然何の心配も要らず時間が経てば笑顔で戻ってくるのだろうと思っていた。

新幹線へ次々と乗り込む人々、通路を何人もの人が通り過ぎて行く。

背後から近付く人間が危険だと怯える者がいるとすれば、これこそ正に精神的障害を患っている者であり、私はそうでは無い。

無論この瞬間もそうであった。

「結糸っ、車内販売で温かいコーヒーもらって来たよ。」

「あっ、ありがとう。丁度飲みたかったんだ・・って、紙コップ?」

「そう、注いでもらったの。ごめん、テーブルに置くよ?」

「うんっ。あぁあったかくて美味しい。ねっ、もうお弁当食べちゃおうよ。」

「そうしよっかっ。ふふっ、何か楽しいわね。」

「本当だねっ。」

次々と移り変わる景色に暖かい車内と美味しいお弁当。

それに加えて、張り詰めていた神経に過度の睡眠不足。

その全てが混ざり合えば、自ずと眠気が猛威を振い避ける事など出来ない。

ただ一つ予想外だった事はお弁当を半分程食べた所でそれが訪れた事だ。

目の前がくらみ、朝ご飯を抜き空腹が極限だった胃にお弁当を詰め込んだからか多少の吐き気ももよおした。

意識は段々と遠のき、違和感を感じながらも落ちる瞼に飲み込まれて行った。

「結糸、着いたよ。早く降りないと。」

「ん・・んん、分かった。・・・私寝てた?」

「えぇ、昨日寝てなかったからでしょ?荷物はもう下ろしてあるから、とにかく出ましょう。」

「そうだね・・っと、ごめんちょっと寝起きだからふらついて。」

「ほら、肩に捕まって。行くわよ。」

時刻は午後二時、私の予測では宿泊先へ出向きチェックインを済ませ、少しくつろいでから周辺を観光する。

夕方には宿泊先に戻り夕食を食べ、温泉にでも浸かり就寝するのだと思っていた。

しかし何故こうなったのだろうか。

足もおぼつかない中バスをいくつも乗り継ぎ、しまいには人気の無い道を永遠と歩き続けている。

荷物は重く腕も足も既に限界で、いつになれば目的地に着くのだろうか。

日はうに暮れ寒さは厳しさを増し、行く先は田舎道から更に険しい山道へと続いて行った。

隠れ家のような宿だと言うならば、流石に隠れ過ぎているのでは無いだろうか。

気分の優れない私は、何の躊躇もなく突き進む母に声を掛ける余裕すら無く体は悲鳴を上げていた。

するとその時、視線の先に小さな光が灯るのを発見し大きく息が漏れた。

「・・お母さん、着いた?」

「・・・・。」

「お母さんっ。はぁ・・もう。待って・・この石碑って・・これ、見た事がある。」

「・・・あぁ、それ覚えてた?」

「・・・覚えてる?いや、ちょっと見覚えがあるだけだよ。お母さん、これって何なの?」

「入口よ。」

「入口?」

「そう・・・入口。疲れたでしょう?もうすぐだから。」

気分のすぐれれなかった私は、疑問はあれど早く体を休めたく足を動かした。

この瞬間、悪夢への入口に踏み込んだなど知りもせずに。

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